第弐章 大蜘蛛の巣中 九 旅立ちへ
人生とは選択の連続である。そのようにのたまったのは、どこの誰であったのか。
だが、実際のところ、その肝心の選択肢自体がかぎられてしまっている場合がほとんどだ。
その上、選ぶ時間もまた然り。
時には、それが選択であることにすら気づかず、己が望まぬ場所へと押し流されてしまうことさえある。
ならば、選択がかぎられているというならば、ひとがたどり着く場所は必然でしかないのだろうか?
何を選ぼうと、何を望もうとも、できること、たどり着ける場所、叶えられる願いなどは、はじめから定められてしまっているのだろうか?
否。即言できる。断じて否だ。
何も定まってなどいない。何ひとつとして予め決まってなどいるものか。
何故なら、私は知っている。ひとは、ひとの断固たる意志は何よりも強いと。
なにせ、その不屈なる意志は、非才の凡人が至上の才人にその刃を届かせたほどなのだから。
そして、かの悪神が見初めた若君もまた己が望む未来のために選ぼうとしている。
諦観せず、定められた宿命に真っ向から立ち向かい、己の最善を希求しようとしている。
決して、退くことも曲がることもなく、真っ直ぐに己が欲する場所へと駆け出そうとしている。
私は、誰が嘲り非難し謗ろうととも、この少年の決意と意志を心から賞賛し礼讃しよう。
その継続の意思を持つ者こそが真の才人であり、真の王であると私は確信するが故に――
「上洛は――せぬ」
樰永の策は開口一番に却下された。
「何故ですか?」
樰永は、声こそ荒げなかったが若干のいらだちをにじませて当主たる父に問い質す。
そんな息子を夫の隣で月華が諭すように言う。
「樰永くん、落ち着いて。お父さんは"今"上洛できないと言ってるだけ」
「だから、何故と聞いている! このままでは芦藏が鎮守府将軍に任官されるのは時間の問題だ。それを防ぎ公家の専横を正す機会は今しか――」
息子の言葉を遮るように、悠永は重苦しい息を吐いて口を開いた。
「事はそれだけに止まらんのだ樰永。実は芦藏の鎮守府将軍任官の件、わしも既に聞き及んでいる……」
「なっ! それはまことですか悠永殿!?」
義正は驚愕のあまり立ち上がった。悠永はそれを手で制しながらうなずく。
「うむ。とは言えわしも聞いたのはついさっきだがな……。カルドゥーレめが知らせたのだ」
その言葉に樰永はギョッとした顔でカルドゥーレを見る。
――この男……! 西界人でありながら我が国の情報、それもこの国の奥深き暗部の総本山、扶桑京の情報を得る手段があるというのか!?
カルドゥーレの想像を絶する情報網に、樰永は思わずゴクリと生唾を呑み込むことを禁じ得なかった。
だが、彼が真に度肝を抜かれるのはここからだった。
「ただし、カルドゥーレの場合は話に続きがある」
「続き?」
悠永の言葉に樰永は怪訝な声でオウム返しをする。そして―
「五大摂権家筆頭にして現・摂権殿下であれれる一条宮是叡公の後ろには、藍帝国がいるらしい」
「な――!?」
その事実に今度こそ樰永は目を剥いた。
そして、それは同席していた義正も同じだった。故に堪らずに叫ぶ。
「莫迦な!! 叔父上はそのようなこと一言も……! というよりも是叡公は摂権でありながら倭蜃を唐国に売るというのか!!」
その声には凄まじい憤怒の色がにじみ出ている。
無理もないと樰永は思った。自分とて拳を強く握り締めなければ、腸が煮えくり返りそうだった。
「正確には、藍帝国の宦官との非公式の盟約であるらしい。そもそも藍にしても皇帝の権威は萎え衰え、宦官どもの傀儡同然と聞いている。あながち、でたらめでもなかろう……」
悠永はカルドゥーレを警戒の目で見ながら、彼の情報を自らの推論も付け加えて説明する。
「ならば――なおさらのこと、我らが今こそ上洛し是叡を誅さねば、倭蜃国はたちまちの内に藍帝国……否! 宦官という公家ども以上の蛆虫に喰い物とされてしまうではないか!!」
樰永は激昂して反論するが、悠永は悠然とした態度を巨岩のごとく小動ほども崩さず、息子を諭すように言う。
「……わかっておる。だが樰永よ。今一度考えてもみよ。今、兵を挙げて上洛しようものならもはや引っ込みはつかん。しくじれば我が鷹叢家は朝敵となり、芦藏をはじめとした全国の大名がいっせいに敵へと回ろう。それどころか我らの支配権にある北應州の国人たちすらも……! ましてや清聡殿を担ぎ出す以上、累は十中八九、大樹家にも及ぶこととなろう」
「っ……!」
「……正直、摂権殿下と宦官の密約がなければ、わしもおまえの策に賛同したろう。おまえの言うようにこの状況を打開するにはそれ以外にない。ましてや、朝廷には直属の兵がない故な。だが、宦官との密約がなった今は話が違う」
その言葉に樰永は歯軋りしながらも、頭の回転の速さ故にその理由を悟っていた。
「藍の軍を既に引き入れていると?」
それに、悠永は瞑目をもって肯定した。
「今、わしらが軍勢を率いて扶桑に上れば、摂権殿下はその軍で迎え討つことは必定。そうなれば取り返しがつかぬ。これを口火に異国の介入を許さば、この應州は愚か、内乱状態にある倭蜃は滅亡の道へと突き進むことになる……! それだけは避けねばならんのだ」
父の言葉に唇を噛み締めながらも、気を落ち着けた樰永は冷静な面持ちでカルドゥーレに問う。
「これらの情報はまことなのだな」
「はい。それはもちろん。私の情報網は御国を含む世界各地にまで伸びております。手に入らぬ情報はほぼございません。お疑いならば、この首を賭けたとて構いませんが……」
樰永はそれに嘆息をついて、首を横に振る。
「いや。鎮守府将軍任官の件を知っていたことを考えても、おまえの言葉は事実なのだろう。また、このような嘘をいう利もない」
「いやはや、ご理解いただけて何より」
ワザとらしく畏まる商人を樰永は無視して、再度父と向かい合って口を開く。
「父上の言うことはわかった。確かに今となっては兵を挙げて扶桑に上ることは愚策でしかないだろう。だが、だからこそなおさら、俺はこれを見て見ぬふりはできない」
「ならば、どうする?」
「俺ひとりが扶桑へと向かう」
その言葉に、広間に控えていた家臣衆の息を呑む声が次々と漏れた。
「樰永、おまえ……!」
義正も戸惑った声をあげる。
「……ひとりで向かったとして、おまえに何ができる?」
悠永は瞑目し、厳かな声音で逃げ道を許さぬ問いを発する。しかし、樰永はそれにまるで臆さず真っ直ぐな声音で返答する。
「知れたことよ。是叡と藍帝国の密約の証を手に入れ、天下に是非を問う」
「できると思うか? おまえひとりで」
悠永は鋭い視線を息子に注ぐが、樰永もその目線を一切そらさずに即答する。
「できるできないではない。やらねばならんのだ! この国が生き残るためにも!!」
しばらく大広間には水を打ったような静寂が流れ、やがて悠永はおもむろに口を開いた。
「よかろう……」
「悠兄様!?」
「殿!?」
妻や家臣たちは異議を訴えるように声をあげるが、悠永はそれを制するように言葉を続ける。
「術と道は確かにそれしかなさそうだ。ただし、ひとりは罷りならん。永久と啓益をつける。永久、啓益、愚息を頼む……」
「心得た兄者」
「身命に代えましても……」
二者二様の返事が返り悠永も「うむ」とうなずいた後、再び目線を息子に戻した。
「無茶はでき得るかぎり控えろ。これからおまえが向かうは、摂権家のお膝元……。自らの懐に入られて、連中が何も仕掛けて来ないなど考えられんからな」
「承知の上だ。俺もむざむざ奴らの策謀に嵌る気はないさ」
自戒を促す父の言葉に、樰永も神妙な面持ちでうなずく。
そんな中でカルドゥーレが口を開いた。
「であれば、私もお供をさせていただくわけにはまいりませぬか? アフリマンの王となった御身の王道に興味がございます」
「控えよ西界人。これは物見遊山ではないぞ」
啓益が鋭い声音で恫喝する。しかし、樰永は事もなげに許可の返事を返した。
「俺は構わんぞ啓益。そんなに来たければ勝手に来ればいい」
「しかし、若君……!」
若殿の言葉に啓益はなおも渋るが、悠永も息子の発言を後押しするように言った。
「確かに、こやつの真意は解らぬ。が、こやつの見識と洞察力はまぎれもない本物だ。ともに来れば、樰永の力となれることも多々あろう」
「……承知仕りました」
主君の一声でようやく啓益も了承した。
月華は息子の手を両手で包み込み応援の言葉を送る。
「樰永くん、気をつけてね。そして、がんばって!」
「俺なら大丈夫だ母上。どうか黄泉で、父上や朧とともに吉報を待っていてくれ」
樰永も鷹揚にうなずく。しかし、そこへ――
「私も行きます!!」
一際大きな声が障子戸を開く音といっしょになって大広間へ木魂した。
それを聞いた一同は、目を丸くしてその主を凝視している。それは樰永ですらも例外ではない。
「お、朧……!?」
樰永は間の抜けた面持ちであんぐりと口を開けて、眼前の愛妹を眺めた。
朧は、腰まで届く長い髪を後ろでひとつにまとめ、藍色の直垂を身に着け、袖はまくり上げて二の腕を出し、腰に大小の太刀を差している若武者の出で立ちをしていた。
「ひ、姫! なんという格好を!」
「左様! 年頃の姫君がはしたない!」
いっせいに家臣たちの叱声が飛ぶが朧は意にも介さず、むしろ叔母の方を見て言い返す。
「私の恰好を謗るなら、まず叔母様が先になるのでは?」
「い、いや、それは……」
「もう、諦めたというか……。慣れてしまったというか……」
途端に目をそらして、しどろもどろな返答をする家臣たちに永久が凄む。
「斬るぞ、テメェら……!!」
脱線しかけた話を戻したのは啓益だ。
「恐れながら姫君。そこな西界人にも言った通り此度は物見遊山ではござらん。人目を忍ぶ隠密の旅でござる。ましてや扶桑の朝廷への潜入……。左様な秘事に女性がおっては目立ってしょうがござらん」
「だからこそ、こうして男装しました。そも、それを言われるなら叔母様とて女であり常に目立っているではありませんか」
「この方は……ッ、女性の対象外であり例外でござる」
「ほお……? 啓益ぅ? テメェ、死にてぇのか? そうなのか? ああんッッ!?」
古武士の辛口に対し、女傑は組討を仕掛けてその首を絞めあげた。
「じ、事実でござろう、がっ! それと事あるごとに、首を絞めるのはやめて、いただきたい……!」
二人が恒例の漫才を繰り広げる中、堪りかねた悠永の怒声が飛んだ。
「鎮まらんかッ!!」
さすがに永久もビクッと身を竦めて、慌てて居住まいを正した。
青筋を立てていた悠永は一息をついて、気を落ち着かせると娘に視線を移した。
「……朧。啓益の言うように此度の旅は危険だ。摂権家からの刺客に狙われる可能性とて皆無ではない。それを本当にわかっているのか?」
「無論。承知の上です。私とて剣術や魔術の鍛錬に励んできました。兄様にだって負けないつもりです!」
「…………よかろう。おまえも同行するがよい」
「父上っ!?」
思わず樰永が非難の声をあげるが、悠永は重苦しい嘆息をつきながら言った。
「おまえもわかっていよう。コレは言って聞くような淑やかな娘ではない。むしろ、奔馬のごときおまえに勝るとも劣らぬじゃじゃ馬娘よ。そして、武においてもまた然り。足手まといになることはあるまい」
「しかし――」
「でも朧ちゃんが一緒なら、イザという時に樰永くんの歯止め役になってくれるのは大きいわよね……」
母までも頬に手を当てながらそんなことを言い出す始末。
ますます頭を抱える兄と対照的に、愛妹は麗しい美貌を満開の花が咲いたかのごとく破顔させる。
「某はあくまで反対でござる」
啓益は今度という今度は譲らない構えだ。
樰永は心中で「そうだ! よくいった!」と喝采を叫ぶも、それは古武士の首に腕を回した呑兵衛によって、たちまちの内にかき消えた。
「いいじゃねぇか。少なくとも純粋な戦闘力はおまえより上だぜ? 何より兄者や義姉者の上意だ。家臣たる者が逆らっていいのかよ」
「ぐっ……」
「ならば決まりだな」
永久の止めの一押しで、悠永は有無を言わさぬ一声で決定を告げた。
――おいおい、冗談だろう……!?
樰永は愕然とした面持ちでうなだれた……。