第弐章 大蜘蛛の巣中 八 朧の決意
兄が決意を固めた時と同じく、妹もまた決断を迫られていた。
素っ頓狂な悪神から好き放題に煽られた後、朧は自分の居室で悶々としていた。
――まったく! あの子、好き勝手なことばかり言ってくれちゃって……! 私の気も知らないで。
朧は青筋を立てて、やり場のないいらだちを募らせる。
――いくら好きでも、どんなに愛していても、私と兄様は兄妹なのよ……! このような疚しい気持ちを抱くこと自体がそもそもありえざること! 兄様だって、妹の私にこんな気持ちをぶつけられても、きっと迷惑でしかない。
――そうよ。諦めるより仕方ないことなのだわ。家や国のためにも、何より兄様自身のためにも……。
"つまり……オボロは闘いもせずに諦めるというのですね"
「っ! だから! 勝手なことばかり言わないで!!」
虚飾を暴き立てられるように先刻の悪神の言葉が甦り、思わず声に出して叫ぶ。
――御伽噺を夢見ていられるような歳じゃもうないのよ……! 気持ちのままに走ったところでどうにもならない! どうせ何も叶わないんだから……!
己に言い聞かせる朧だが、その反面脳裏には再び忌々しい悪神の声が木霊する。
"ならば、このアフリマンが我が主――ユキナガを引き受けましょう"
――ッ!! 誰が誰を引き受けるですって?
結果、朧の胸には先刻までの諦観は霧散し、代わって凍るような怒気と闘志が湧きあがっていた。
それを煽るようにして悪神の嘲りが再び脳裏に過ぎる。
"闘いがはじまる前から泣き言をいって、甘ったれているオボロなど敵の内にも入らないのです"
瞬間――何かが弾ける音が静かにされども盛大に鳴った。
それは例えるなら龍の逆鱗のようなものかも知れない。普段はおとなしいが、絶対不可侵たる逆鱗に触れることを決して龍は赦さない。
そして、アフリマンのあからさまな挑発は、その領域に触れる行為に他ならなかった。
――勝手に押しかけてきた分際でふざけたことを言ってくれるわね。私は、生まれた時から兄様の傍にいたのよ。ともに過ごし、その笑顔や寝顔、細かな癖まで知っている。その私を差し置いて、兄様を引き受ける? 百万年早いわ!!
そう朧にとって樰永は絶対不可侵の逆鱗! これに触れるものは何人も赦さない! そう。それがたとえ神であろうとも――
――いいわ。そこまで言うなら私も本気で戦ってあげる。兄様を本気で勝ち取ってみせる! 突然やってきて、我が物顔で兄様の隣に図々しくすり寄る貴女なんかに――いいえ! どこの誰だろうと兄様は絶対に渡すものですか!!
鬼神の姫もまた譲れぬ恋心を燃やして、戦場に立とうとしていた。