第弐章 大蜘蛛の巣中 六 友
時刻が夕刻になっても、魔神に選ばれた若武者はいまだに死んでいた……。
「ユキナガ! いい加減に目を覚ますです! 現実に還ってこいです!」
アフリマンの叱咤も馬の耳に念仏とばかりに、樰永はひたすらにうつむいて目が死んでいた。
「ほっといてくれ……。俺の青春は消化試合に入ったんだ。というか誰のせいだと思ってる……」
「こんな事故ごときで挫けていては、お先は文字通り真っ暗なのです! そもそもオボロの処女獲得の道を征くならば、この程度の障害は日常茶飯事と考えるべきです。いちいち躓いたくらいで立ち止まっては、その道は遠ざかるばかりなのです!」
「だから、大声でそんなことを捲し立てるな……。っていうか、ホントにおまえは表現が露骨極まりないな……」
もはや怒鳴ることも疲れたとばかりに、樰永は脱力する。
――だが、確かにこいつの言う通りだ。この程度で腐っていては話にならない。だが、俺が足掻けば足掻くほどにドツボに嵌っていく気がする……。我ながら朧のことになるととことん悪循環だな……。まあ、実の妹に懸想なんぞしてる時点でわかっていたことだがな。
樰永は、自嘲の嘆息をついて改めて己が選んだ道の険しさを思い知っていた。
なにしろ周囲の理解が得られぬことは元より、朧が己の想いを受け入れてくれるという保証もない。
否、というよりその可能性は絶無であるばかりか、今現在の兄妹としての関係、家族としての関係も何もかもが壊れてしまうという可能性こそが濃厚なのだ。
「……今更ながら、まだまだ先は険しく長いな――」
樰永は、そうつぶやくのを最後に表情をキリっと引き締めて立ち上がった。
「やっと立ち直りましたか。それでこそ、わたしが初めて選んだ王なのです」
アフリマンが嘆息気味に吐き捨てる。
「うるさい。おまえの厭味は聞き飽きたよ。全部おまえの言う通りだ。俺にはあらゆる意味で躓いている暇なんてないんだ」
そうだ。俺は愚直に進むしか道はないんだ。何を望むにしても進まなければ何もはじまらないし、何も終われやしないじゃないか!
樰永は改めて決意を新たにし歩を進めた。
「どこへ行くのですか?」
「厩だ」
「立ち直ったと思えば、今頃、遠乗りですか?」
アフリマンが呆れるように訊ねる。
「馬術の訓練っていえ。武士たる者の嗜みだ。それに……そろそろおまえの力を試してみたいというのもあるしな」
それを聞いた途端に、アフリマンは掌を返し。待ってましたとばかり上機嫌で胸を張った。
「そういうことならお任せなのです!」
そう言うと、アフリマンは実体化を解き樰永が腰に差したシャムシールへと戻った。
そうして厩に赴くと腰のアフリマンが脳内で弾んだ声を出した。
『いつ見ても、なかなかに大きな厩なのです――!』
アフリマンが言うように、鷹叢の厩は、かなり規模が大きく厩舎などの設備も整っており、何よりありとあらゆる名馬が軒に連なるように繋がれていた。
「まあ、元よりこの應州の地は馬の名産地だからな。これぐらいは当然だ」
樰永は少し誇らし気に語りながら、自らの愛馬が繋がれている厩舎を目指した。
『そういえば、天馬はユキナガのセキラだけなのですか?』
「ああ、赤羅は父上が西界との交易で手に入れたものを俺に与えてくださったんだ。もう仔馬の時からの付き合いになる」
懐かしむように言う主に、アフリマンは少し不満げな声を出す。
『つまりは相棒のようなものですか? む~~。わたしというものがありながら』
「妬くなよ。むしろ年季でいったら、おまえより赤羅の方が先輩だぞ?」
目的の厩舎にたどり着き、柵を下ろしながら機嫌を損ねた相棒をなだめた。
『いかに聖獣といえども、神たるわたしの方が格上なのは当然の理です』
「たく――おまえは……」
赤羅に鞍を付け馬銜を噛ませながら嘆息をついていると、そこへ不意に声をかけられた。
「おう! 邪魔するぞ樰永!」
黒髪のザンバラ頭に若草色の瞳を持つ荒々しい顔立ちの青年が、豪快に笑いながら歩み寄ってきた。樰永も振り返ってその姿を認めると、顔を喜色で輝かせる。
「義正! 来てたのか! 久しいな! 扶桑以来か!」
「だな! あ、扶桑と言えば朧の機嫌は直ったのか?」
「ああ……どうにかな。しかし突然の来訪だな。鬼灯国で何か変事でも起こったのか?」
樰永の問い掛けに、義正はまたも豪快に笑ってその肩を叩いた。
「そっちこそすっとぼけやがって! とうとう、あの刻鎧神威を手に入れたというから見にきたんだよ」
その言葉に、アフリマンが実体化して樰永に訊ねる。
「ユキナガ、この者は?」
「ああ、こいつは大樹義正。隣国の鬼灯国を治める大樹家の総領息子で俺の友だ。そして、義正。こいつが俺の相棒になった刻鎧神威だ。名をアフリマンという」
「はじめましてなのです。わたしこそは、絶対悪の厄災を司る大魔神アフリマン。とくと崇め奉るがいいのです人間」
「おい、こら……」
慇懃無礼な挨拶に樰永は呆れた声で叱るが、当の親友は豪笑で受け止めてくれた。
「ははははははっ! なかなかに剛毅な娘だな! 大樹義正だ! こちらもはじめましてだ! しっかし、かような娘っ子が神とはなぁ。何事も見かけにはよらんということか。だが、樰永よ。こんな器量良しが傍にいたのでは、またも朧の機嫌を損ねかねんぞ?」
「うぐっ!」
その言葉に、樰永が胸をおさえて呻くと、親友はそれですべてを察したのか頬をポリポリとかく。
「ああ、もう損ねたのか。すまん。悪いことを聞いた……。まあ朧もなかなかに兄離れができんようだな」
そう苦笑する義正に、アフリマンが訊ねた。
「"またも"とは?」
「ん? ああ、実は以前にこいつとともに、俺たちの親父殿について扶桑の都へと上洛したことがあってな」
「おい、義正!」
「いいじゃねぇか。相棒なんだろ? そんでだ。こいつがどうしてもと懇願してきて遊里へと繰り出したんだが……こいつとうとう遊女をひとりも抱けなかったんだ」
「……ほお、それは初耳なのです」
アフリマンの目が細まる。
「うるさい……」
樰永は露骨に顔をそらして毒づく。
「で、問題がその後のことだ。こいつと俺が遊里へ繰りだしたことが、その……バレてな。親父殿たちにドヤされた……」
「バレて何か問題が?」
アフリマンの疑問に、義正は頬をポリポリとかいてバツが悪い面持ちでぼそぼそと語りはじめた。
「いや、そもそもその上洛はだ。扶桑京を束ねる五大摂権家の一角で、俺の母上の実家でもある萩原家との会談のためのものでな……。不謹慎だって拳骨をしこたま喰らった。でもって樰永の奴に至っては、それに加えて朧からの平手ときたもんだ。いやぁー、あれには今なお驚いたなぁ」
「義正、その話はもういいだろう……。それより本当は何の用だ? まさか、本当にこいつを見にきただけってわけじゃないだろ」
樰永は強引に話を切り替えたが、その問い掛けは真剣だった。義正もそれを感じて真顔となって改めて口を開く。
「……ああ、それがな。これは扶桑の伯父上からの情報なんだが……扶桑の朝廷では今、芦藏嵩斎を鎮守府将軍に任じてはどうかという話がでている、らしい」