転章 二 誓愛
沈黙。心臓だけでなく風も時も何もかもが停止したかのような心地となった。ただただ最愛の兄の言葉だけが静寂に響き渡る。
放たれた言の葉が頭の芯にまで染み渡っていくと――
ボンッ!!
そんな擬音が幻聴で聞こえてくると思うほどに朧は全身を今まで以上に真っ赤に染め上げ、湯気が爆発的に昇った。
「え? え、え……? は、は、はわぁぁあぁぁぁっ!?」
もはや返事は言語にすらなっていない。それでも構わず樰永は続ける。
「改めてすまない。おまえに俺との未来を信じろと言いながら、俺は肝心なことを伝え忘れていた。挙句におまえをそこまで追いつめた。不甲斐ない夫ですまない」
「夫ぉっ!? に、兄様、その夫って……!?」
朧の美貌にさらなる朱を注がれる。そんな妹を可愛いなと口角をにやけそうになるのを懸命に堪えて言い切る。
「俺は既にそのつもりで――おまえと夫婦のつもりでいるということだ。嫌か?」
「い、嫌だなんて……! そんなわけないです!! むしろすごく幸せです!! に、兄様と夫婦だなんて……! はうぅぅぅ……!!」
両頬を両手で押さえて羞恥と歓喜に悶える体の朧。
そんな愛妹の姿に……。
――ああ、本当に可愛すぎるこいつ……!!
思わず、こちらこそ頬が緩み悶えそうだ。その仕草だけでもう愛おしさと狂おしさで胸がいっぱいになる。
――はっ!?
だが、すぐにそんな場合ではないと首を横に振る。まずは改めて己の気持ちを打ち明けることで朧の不安を払拭することが第一だ。
でなければ、この後のことにも障りが生じることになるだろう。
テンパっている愛妹の顔を両手で包み、こちらに向き直させる。
「だからこそ、はっきりと明確な言葉で約束しておきたい。俺は他でもないおまえに俺の子を産んで欲しい。俺は他の誰でもないおまえとの子が欲しいんだ……!」
「っ!」
朱が差した美貌にさらなる紅が注がれる。目尻には再度珠のごとき雫が溜まる。
「おまえが我が儘だというなら、俺はそれ以上の我が儘を言ってやる! 俺はおまえと夫婦として生涯を添い遂げたい! おまえと俺の子と一緒に!! だから――」
朧の額へと己のそれを合わせる。
「二度と俺を、俺との未来を諦めないでくれ」
今度こそ朧の両の目に溜まった雫があふれ出す。
――本当に私はなんて莫迦で至らないんだろう……!
兄は疾うに自分のすべてを受け入れる覚悟を決めていたというのに。肝心の自分がこの期に及んで泣き言をのたまった挙句に尻込みしてどうするというのか!
――そうよ。アフリマンの言うように多くの恋敵が現れるのも兄様に縁談が持ち上がるのも当然。その筆頭として咲夜が名乗り出ることなんて初めからわかり切っていたことなのだわ。
だからと言って自分はその現実に悲観して屈して蹲っているだけなのか?
――違うでしょう、朧!!
この恋をした時から数え切れない困難が立ち塞がることは承知の上。立場、情勢、しがらみ、父母をはじめとした一族郎党、民草、倫理。
そのすべてが敵となり得る。それも打倒するのではない。そのすべてを納得させなければ、自分たちの恋は到底叶えられない!
それは孤立無縁とも言える絶望的な戦いだろう。
だが、ただ“兄妹”という生まれながらの宿命に悲観し嘆いているだけでは何も変わらない! 何も変えられはしない!
本気でこの想いを叶えようと言うならば、断固たる不屈をもって闘わねばならない!
そんな過酷な恋愛だからこそ、肝心のともに戦うべき兄を信じなくてどうするというのか!!
朧は二の腕で涙を拭うや、兄の首に両腕を回してそのまま接吻する。樰永もまたそれを受け入れる。
刹那で唇を離すと、朧は泣き笑いの顔で最愛の兄を見つめる。
「朧……」
「はい……! はい! 私も兄様とのお子が欲しいです! 兄様の赤ちゃんが産みたいです!! 兄様といっしょにその子をこの手に抱きたいです!! その未来を決して諦めません!!」
目尻にわずかな雫を残しながら満開の笑顔で応えてくれた愛妹に、樰永もまた泣きそうな笑顔を浮かべるや、再び強く抱きしめる。
樰永の腕の中で途方もない多幸感に身を委ねながら、朧は再度歓喜が溶け込んだ雫を両の目から流す。
――願ってはいけない願いだと心のどこかで思ってた。実の兄妹で子を望むだなんて……。
ただでさえ、兄妹で夫婦になるというだけでも倫に叛く行いだというのに。その上、子まで儲けるなどひとの矩を踏み躙るどころの話ではない。
口にするだけでおぞましいと罵られる大罪だろう。
――けれど、それは紛れもない私の夢だった。愛するひとの子を宿し産み育てる。女として至上の幸福を他ならぬ兄様と叶えたい。
我ながら、なんて恐れ多く欲張りな願いなのだろうか。それは兄に想いを告げ受け入れてくれた今なお口に出すことさえ憚った望みだというのに……。
――でも、兄様はそんなもの意にも介さないとばかりに飛び越えて来てくれた。私が最も欲しかった言葉を、願いを、望みをくれた。その気持ちに私も全霊で応えたい……!!
朧はいっそうに身体を兄へと寄せる。
樰永も妹の想いを受け取ろうというように抱きしめる力を強める。
「朧……」
「兄様……」
そして、互いにうっとりと潤んだ双眸で見つめ合い、互いの口唇を合わせようと顔を近づけていく。
「おい……」
そんな甘い空気を冷たく鋭い一声が一太刀で斬る。
思わず兄妹はハッとなって、ようやく自分たちの背後を振り返る。
そこには、この上もなく冷たい顔と異眼で睨むアイアコスと半眼でこちらを見つめるスーリヤとツクヨミ。少し目線をそらして片手を団扇で扇ぐかのように振って「そりゃさぁ。周りは炎だらけだけども、ここは一段と熱いわー」と棒読みでぼやくアフロディーテがいた。
加えて、ただ一柱……。
「よくぞ言ったのです! それでこそ我が王なのですよ! むしろ遅すぎたきらいはありますが、ここ一番の言葉を誤らなかったことだけは、まあ褒めてやるのですよ。光栄に思いなさい、この童貞!」
無軌道かつ調子のいい悪神だけがドヤ顔で万雷の拍手を送っていたが、この場合何の助けになろうか。
事実。こちらを睨み据える竜翼の騎士の視線は冷ややかさと圧を増すばかりである。
「私たちの存在を忘却の彼方に置きやるにもほどがありすぎないか? まあ、所詮は敵同士だ。百歩譲ってそれは良しとしよう。だ・が、今の状況を本当に理解しているのか?」
抑揚が一切ない無機質とさえ思える声。それだけに芯にまで通る凄まじい怒気にさすがの兄妹も肩を落として詫びる。
「すまん……」
「ごめんなさい……」
すると、アイアコスはどこか諦めたような風情で息を吐き出す。
「まあ、いい。おまえたちに何らかの蟠りが生じて払拭できたのなら何よりだ。それを引きずられたまま作戦に支障が出る方が余程困るからな」
「本当にすまん……」
「本当にごめんなさい……」
ますます居たたまれず再度詫びる兄妹。
「もういい。早くゲルの方に乗れ。カルファンは私の指示通りに動く。おまえたちが手綱を取る必要はないから安心しろ」
嘆息まじりに指示するアイアコスに、樰永は自分たちが乗る嵐神竜を見て興味深げに訊ねる。
「おまえ、こいつの言葉がわかるのか? というより会話できるのか?」
「まあな」
アイアコスが素っ気なく即答するや、樰永は目をキラキラと輝かせ身を乗り出す。
「凄いな、おまえ! じゃ赤羅の言葉とかもわかるのか!?」
興奮気味に食いつかれ思わず面食らう。
「赤羅とは?」
初めて聞く名にやや気圧されつつ聞き返す。
「俺の愛馬の天馬だ」
「さすがに天馬まではわからん。私にわかるのは、あくまで竜族に類する生物ぐらいなもので……って! だ・か・ら! 今はそんな時かっ!!」
素直に答えてからハッとなり怒声を上げる主を、三柱の刻鎧神威たちは揃って目を丸くして、あるいは生暖かく見守っていた。
「あんなご主人様……久しぶりに見たかも」
アフロディーテは感心すら抱いた視線で鬼の若武者を見る。
「うむ。あの主が完全にペースを乱されているとは……。アフリマンの王もなかなかに侮れぬ」
普段は仏頂面なスーリヤも相好を崩している。
「主にとっていい傾向だと言いたいけれど――アフリマン」
同じく微笑を浮かべていたツクヨミがふとアフリマンへと矛先を向けた。
「何か?」
アフリマンは首を傾げて応答する。
「あなたは二人の恋を認めているの? 実の兄妹だというのに――」
その声音こそ穏やかだが、声質にはあきらかに微量の批判が込められていた。刻鎧神威として主を諫めなくてよいのかと。
だが、アフリマンはいつもの平淡な声で一蹴する。
「愚門なのです。主の恋は正真正銘の真。ならば臣下として応援するのは当然の理でしょう。是非に。何より近親婚なぞ神々からすれば珍しくもなんとも――」
「主たちは人間よ」
しかし月夜の女神はピシャリと悪業の魔神の言い分を一蹴する。
「人間には人間の理がある。神々と同列に考えるべきではないわ」
「む~~! それを言うなら主たちには主たちの理があるのです~~! ツクヨミは相も変わらず意地悪さんなのです~~!!」
アフリマンは鼻を鳴らし口角を両の人差し指で広げながら歯を剥き出しにして悪態をつく。
すると、ツクヨミは嘆息を返す。
「意地悪じゃないわ。客観的な事実よ。それに、神としてそんな態度フローラが見れば何というかしら?」
その一言――飛び出した名にアフリマンはいつになく「ひっ!」と悲鳴を上げ普段の余裕綽々な態度から一転して血相を変えた蒼白な面持ちで捲し立てる。
「その名を口にするななのですっ!! 縁起でもねぇのですよ!!」
絶大な拒絶反応をもって絶叫する悪神。
だが、次の瞬間には無表情ながら口角をニンマリと上げて得意がる。
「ふっ。だがしかしなのですよ。あのわたしのやることなすことにケチをつけてくるお節介焼きの小姑年増喪女の目はここには一切合切ありません。したがって、この“悪業大災”を掣肘する存在などもはや誰ひとりとして存在しないのです~~!」
腰に手を当てて決め顔で豪語する悪神にスーリヤから呆れまじりの声が浴びせられる。
「今ここにフローラがおれば、確実にそなたは殺されておるだろうな……」
そう告げた日輪の神自身どこか遠い目をしている。それにアフリマンはギクッとなりながらも「うっ、うっさい! なのです!!」と恐怖と不安を振り払わんとするかのように怒鳴る。
しかし――弛緩した空気はそこまでだった。
炎に包まれる葉華の街並みから鳴動が響き渡ったのだ。
「っ! 地震!?」
こんな時にと顔を青褪めさせる朧。
「いや、これは……!?」
だが、樰永は不思議と違うと確信していた。これは地が震えるというよりも何かが這い出ようとしているような……! そんな悪寒が全身に奔っていた。
理由は知れないが、そんな直感が働いていたのだ。それを証明するように樰永の双眸には神座王の証たる聖印が激しく点滅している。
見れば、アイアコスの異なる両眼にも同様の現象が起きている。
中でも刻鎧神威たちの反応が顕著だった。
四神とも目に見えて常にないほど狼狽の面持ちとなっている。
「これは……!?」
「嘘でしょう!?」
「そんなことが……!?」
「本気……なのですかっ!?」
その危惧と懸念を肯定するようにやがて、町を焼く焔を突き破るがごとく無数の黒茶の木と黒緑の蔓が瞬く間に群生するや、たちまち一本の巨木が葉華そのものをおおわんばかりに聳え立った。
「な、なんだ、これは……!?」
樰永は絶句して、葉華を傲岸に睥睨して憚らぬ巨木を恐怖を宿した眼で見つめていた。