第肆章 狼煙 十五 落日の森
「葉華がっ! 私たちの森が……っ!!」
先刻消えた火災とは比べ物にならぬ、おどろおどろしく禍々しい焔渦が大蛇のごとく葉華の街並みと鬼灯の森を呑み込んで灰と塵に変えていく様に、咲夜は悲鳴に近い悲痛な呻き声を漏らす。
義正に至っては悲嘆と憤怒がない交ぜとなって相貌を歪めている。
上空で天馬に騎乗している永久と啓益も愕然と双眸を見開く。隣で同じく天馬に騎乗しているカルドゥーレも若干眉を険しくしている。
一方で大樹兄妹に従う足軽たちは何れも膝を突き頽れて項垂れている。
「あ、あぁぁ、俺たちの町が……! 鬼灯の森が……!?」
「もう……終わりだ」
「こんな火災……どうやったって消せるわけが……」
「お父……お母ぁ……」
然もありなん。葉華には当然彼らの家族も住んでいる。これほどの惨事ではその生存は絶望的とすら言えよう。
加えて鬼灯の森は有史より戦火や災害からこの鬼灯国を守ってきた守護神。
その守護神が今燃え落ち朽ちていく……。
言わば精神的支柱までも失ってしまったのだ。その精神的衝撃は計り知れまい。
――まずいっ!!
――いけない! このままでは……!!
士気が崩壊していく兵たちに永久と咲夜が焦燥する。
だが――
ズドォンッ!!
地面がめり込むような音とともに震える。膝を突いていた兵たちは一様にハッとなって貌を上げた。
見るや、義正が得物である牛頭の槌鉾を地面に振り下ろした姿が眼に映る。
「呆けるなっ!!」
義正は一喝するや、続けて叫んだ。
「戦はまだ終わっていない! この裏切り者どもを討ち果たした後、速やかに消火するぞ!!」
「け、けど……」
今更火災を止めたところでもうという諦観が兵たちを支配していた。だが、大樹の若武者は咆哮をもってそんな諦観を打ち払う。
「俺たちはまだ生きている!!」
「っ!」
「生ある限りは膝を突こうなどと言うことすら考えるな! 息が絶えるその時まで前を向け! 思考を止めるな! 手足を動かせ! それに……万が一にも生存者がいた場合、その者たちは我ら以外の誰が救うというのだ!!」
その一喝に無気力になりかけた足軽たちの眼に生気と活力が甦った。そして地に突いた膝を上げ、手に持つ槍を勇ましく炎によって夕焼けのごとく染まった夜天へと突き上げ、不安と恐怖を振り払うように吠えた。
――さすが兄上だわ。私も覚悟を決めなければ――
咲夜も安堵の息をつきつつ自身も気を引き締め、袖から新たな呪符を取り出す。
永久も額に流れた冷や汗を拭って不敵に笑み闘志を湧き立たせる。
――義正の奴も言うようになったじゃねぇか。俺も若い者にゃ負けられねぇな。
しかし、それさえも水を差すように裏切りの老武士は陰湿な笑声を醜悪に響かせた。
「相も変わらず威勢だけは結構……。されど、さような児戯でこの状況は覆りませぬぞ」
そう冷徹な現実を突きつけるがごとく老武士――能代蒜山の背後で百人の兵が弓矢をいっせいに向ける。
「蒜山……ッ!!」
義正は、かつての親同然であった護役を今や親の仇も同然とばかりに憤怒と憎悪の視線で射貫いている。咲夜もまた凛然とした瞳にいつにない怒気を宿している。
だが、かつての主たちの怒気をまるで痛痒にも感じぬとばかりに涼しげな嘲りがカラカラと鳴る。
「ほれ。いかに意気軒昂に吠えようが、しょせんはそうして睨むだけが精一杯。もはや、そなたらはここでハリネズミのごとき無様な骸を晒すだけが能と知れい」
まるで死刑宣告を突きつけるがごとく右の人差し指を突きつける――が、その右腕が突如として無理やり千切られたように抉り飛んだ。
のみならず、右側に控えていた兵たちの半数五十余名が甲冑ごと四散して肉片が飛び散る。
「ほ?」
蒜山は呆けたような声を出すと、視線を地面にめり込んだ矢に注ぐ。
そこへ上空から永久の獰猛な殺気が滾った冷たい声が刺される。
「はい。そうですか――なんて俺らが受け入れると思うか?」
その手にはセフィロトとの戦に備えて用意した複合弓が握られていた。
「お見事! しかし複合弓の威力がこれほどとは……!」
同乗していた啓益が感嘆の声を上げるそばで永久の顔色は優れなかった。
――威嚇のつもりで放ったんだが、まさかたった一矢で兵の半数を仕留めちまうとはな……! 一矢で鎧武者百人を倒すってのも誇張じゃねぇや。これなら確かにセフィロトの飛竜にだって通じるかもな。智永の兄者め。相も変わらずいい仕事してくれるぜ。だが――
そう。複合弓の威力を目の当たりにしてなお永久の中で警鐘が鳴り止むことはなかった。それは生来の感働きと歴戦で積み上げた経験蓄積から成る第六感とも言うべき直感だった。さらに言えば、悪い予感ほどその直感はことごとく的中してきた。
そしてそれを裏付けるかのように、右腕と兵の半数を失ったはずの蒜山は、狼狽するどころか感嘆の声すら上げてみせる。
「ほお。切り札と豪語なされるだけはある。よもや一矢で右腕を吹き飛ばした上にその風圧で兵の半分を吹き飛ばすとは……。聞きしに勝る威力にござるなぁ。されどまあ――」
『なっ!?』
永久のみならず義正たちも驚愕と恐怖の声を漏らす。しかし当然だ。複合弓の一矢で抉り取ったはずの右腕が断面から禍々しい緑色の樹木が生えたかと思うと、元の肩口に吸い付くように引き寄せられ復元されていく。
それは先刻ともに四散した兵たちも同様で肉片そのものが樹木と化し互いにくっついて人型を取るや、元の姿を顕わにした。
「おいおい……! てめぇら、何の冗談だ? そりゃ……!?」
永久が引きつるように口角を歪める。対する蒜山は極めて邪悪な微笑を浮かべて自画自賛するかのように両腕を広げる。
「我らはな。嵩斎様よりひとは愚か、妖さえ超越する力を授けられたのでござるよ。その力の前にいかに貴様らが足掻こうとも路傍の石でしかないと思い知るがよい!!」
クワッとその細い目を見開くや、蒜山一党からまるで瀑布のごとき莫大な妖気が放出される。
「ば、バカな……!?」
その強大に過ぎる力の奔流に義正は怖気が奔ると同時に幾多の疑問が生じる。確かに蒜山は武人としても卓越した強者ではあるが、これほどの力はなかったはずだ。それどころか兵たちまでもとは……!
――先刻の人間離れした様相と言い、いったい蒜山たちは、何になってしまったと言うのだ!?
だが、狼狽は一瞬であった。義正はひとまず愚にも付かぬ推論を置いた。
――怯むな。蒜山たちが何になろうと、謀反人にして鬼灯に害を為す者である以上討ち取る以外の選択肢などない! 何より、ここは我ら大樹の天地だ!!
義正は大地に強く己の足を踏みつける。咲夜もまたそれに倣う。
大樹は大地の守護神たる木霊の末裔。故に地に足を付けている。ただそれだけで龍脈から無尽蔵の神気を取り込み己の力として行使できるのだ。
兄妹は踏みしめている地を通して龍脈に己たちの妖力を繋げるべく意識を集中させる。
だが――
「どういうことだ?」
義正は今度こそ忘我とも言うべき心地で呟く。
「これは―――!?」
咲夜も凛とした美貌を蒼白に染める。
「どうした!?」
大樹兄妹のただならぬ様子に上空から永久が問い質す。
「大地から……龍脈から力が流れてこない」
義正がいまだ信じらぬとばかりに震える声で答える。
「だとぉ……!?」
永久もまた何を言われたのかわからぬと貌を歪める。
義正たち大樹家は、大地に愛された一族だ。どこであろうと地に足を付けているかぎり地の祝福を力とすることができる。
ましてや、ここは彼らの天地である鬼灯国ではないか!?
「どういうことだ、そりゃ!?」
思わず怒鳴るように尋ねる永久に義正もいらだちをぶつけるように咆哮する。
「わからん! 先刻まで流れてきた力が何かに遮られたかのように止まっているのだ!! 大地の下に……龍脈の上に何かがいるとしか……!!」
「何かだぁ?」
永久が面食らった顔で目を丸くする。
さらに、そこへ追い打ちとばかり咲夜もまた口元を両手で覆って悲鳴に等しい声音で叫ぶ。
「それだけではありません……! この鬼灯の地から森の神々の息吹がまるで聞こえてこない! 木霊の気配がまるで感じられない! 鬼灯の森から生命の神気が絶えてしまわれた!!」
「そ、それはいったい――」
啓益が怪訝な顔で詰問しようとするが、それを遮る――否、代わって答えるかのように老武士の哄笑が響く。
「今更お気が付かれたか。左様。この大地と森は既に御身らの味方ではござらぬ。すべて余すことなく我らが君……芦藏左近太夫嵩斎様の領土となられたのだ」
「何を勝手な……っ!!」
義正が憤激をにじませた声で唸る。
「この火災が単なる奇襲のみを目的とした物であるとお思いか? 若よ。この爺は教えたはずですぞ。木を見て森を見ず……大将たる者。かような愚を犯してはならぬと」
「なにを……っ! 爺っ! そなた、まさか!?」
言葉遊びと思いさらに激高しかけた義正であったが、不意にハッとなった面持ちになる。それをかつての護役の家老は好々爺の笑みを浮かべて肯定する。
「然り……。御神体は既にこの鬼灯国にはございませぬ」