第弐章 大蜘蛛の巣中 四 闘う覚悟
朧は駆けに駆けて城内の庭園に行きついた。
「はあ、はあ、はあ……!」
――また、やってしまった。あんなことをする権利なんて私にはないのに……!
朧は息を切らせながら己の行動を恥じ自己嫌悪に陥っていた。兄を引っ叩いたのは、これがはじめてではない。かつてもこうして――。
「……兄様は鷹叢家の嫡子だもの。何れは後継者を作るために、奥方を迎えねばならない。それを妹に過ぎない私がとやかく言う資格なんてない。そんなことはじめから、わかっていたことなのに……」
なのにそれを口に出すだけで、胸が鋭く抉られる、締めつけられる。そのまだ見ぬ誰かに対する嫉妬で狂いそうになる。
そんな当たり前に絶望で苛まれそうになる。
そんな感情を抱く資格すら自分にはないと理屈の上では理解しているのに、心が、魂魄がどうあってもそれを拒絶する。
救いようも愚かしさに自分でも呆れ果てる……。
「そう――こんなことをしたって、兄様が私に振り向いてくれることなんてありえないのに……」
「そうでしょうか?」
「え?」
真横から独り言に対する返答が飛び、朧は驚いてそちらを向くと、そこには先刻最愛の兄に一糸まとわぬ姿で跨っていた刻鎧神威そのひと? がいた。
「あ、アフリマン……!? あ、貴女、何故ここに……!?」
――さっきの聞かれた?
朧は、自分の誰にも知られてはならない秘め事が露見したことに、恐怖で麗しい美貌を青褪めさせる。
だが、当の悪神は淡々としながらその実真摯な声音で言い放った。
「オボロ。あなたはユキナガのことが好きなのですね。兄ではなく男として――」
「――ッ!! な、何をいうのですか!? 貴女もご存知のように私と兄様は実の兄妹なのですよ! そのような口に出すことも浅ましくおぞましいことを……! 私はともかく兄様に対する侮辱は、絶対に赦しませんよ!!」
正に直球を突かれるとは夢にも思わず、朧は息が止まりそうになるのをおさえ、とっさに激しい口調で弾劾する。
だが、アフリマンは涼しげな無表情を微動だにすらしない。
「……もう、その態度で肯定しているも同然なのです。ユキナガもそうですが、あなたもユキナガのことになるとあからさまなのです」
「ッ! な、何を――」
「先刻の平手打ちからして既にそうです。ちょっと勘のいい人間が見れば、一目瞭然なのです」
アフリマンは呆れたようなそれでいて極めて鋭い声で刺した。それに朧は居た堪れなくなり頭を抱えて叫んだ。
「やめて!」
「誤解なさっているようですが、わたしは別にあなたを責めにきたのではありません」
「え?」
アフリマンの言葉に、朧はわけがわからないという顔をする。
「古今東西、"恋"だの"愛"だのというのは理屈でするものではありませんし。また理屈に収まるようなものでもない……。端的にいってどうしようもないことなのです」
「どうしようも、ない?」
「ええ、現にオボロは自分でもどうしようもないから、そのように己を責めて苛めて苦しんでるのではありませんか?」
「わ、私は――」
「"理"の上では誤っていると理解していても"魂"がそれを拒絶するのでしょう。例えば、あなたはこの国の姫君だ。ユキナガがいずれ当主として妻を迎えねばならないように、あなたもまた有力な家に嫁がされるのでしょう。そして、いざそうなった場合……あなたは"ユキナガ以外の男性に抱かれる"ことを想像できますですか?」
「ッ――――」
その言葉に朧の顔は色を失くして凍りついた。
この暴言に対し彼女はまた弾劾するべきなのだろう。あるいは先刻の兄にしたように平手打ちを浴びせるべきなのだろう。
だが、既に朧はわかってしまっていた。彼女の言葉は何ひとつとして間違いはないと……。
"兄以外の男に抱かれる"
これまで武家に生まれた女として至極当然のことを――そして何より、これまでずっと目を逸らしていた現実を改めて突きつけられる。
――わかっていたつもりだった。けれど、やっぱり"つもり"でしかなかった! 兄様以外の男性に肌を触れられるなんて……そんなの想像できない! 絶対にいやっ!!
「っ……!」
そう思ってしまった、否。そう理解した途端に瞳から雫が止めどなく溢れだす。
「――その涙が答え、ということですね」
アフリマンの平淡な声に、一層涙腺が刺激される。
「っ……! だから何なんですか? それがわかったからって、諦めなきゃいけないことに変わりはないじゃないですかっ……!!」
朧が慟哭も露わに叫ぶ。それにアフリマンは――
「つまり……オボロは闘いもせずに諦めるというのですね」
と、呆れたように息を吐く悪神。
「なっ!?」
朧はそれに当然ながら心外だと言わんばかりに目を剥く。しかし、次の瞬間――
「ならば、このアフリマンが我が主――ユキナガを引き受けましょう」
そう胸を張ってドヤ顔でのたまう刻鎧神威を、朧は目を点にして凝視し絶句した後に……。
「は、はああああああああああああああああああああああッ!!?」
と、思わず絶叫していた。しかし、アフリマンは平然かつ涼しい美貌を崩さずに言う。
「だってオボロはユキナガを諦めるというのでしょう? ならばわたしが主を婿にして何の不都合がありましょう」
「そ、そんな……! だって! いや、でも……!」
朧は完全に動転してまともな反論を、何ひとつとして言葉にできなかった。その様を知ってか知らずかアフリマンは、さらに追い打ちをかけるようにのたまう。
「言っておきますが、ライバルはわたしだけではありません。なにせユキナガは鷹叢家の次期大将、ひいては倭蜃国を統べる王となる男。その嫁候補は間違いなく引く手数多……! 何れにせよ、熾烈な争奪戦が繰り広げられることは疑いようがないのです」
「そ、それは………」
「そんな中で闘いがはじまる前から泣き言をのたまい、闘う覚悟もなく甘ったれているオボロなど敵の内にも入らないのです」
「っ!!」
その言葉で朧の顔に朱とともに怒気が宿る。それを見たアフリマンはわずかに微笑む。
「ではわたしはこれから主との絆を、さらにさらに深めてくるのです」
と、のたまって踵を返した。
それを朧は忸怩たる想いを抱きながらも睨むように見送るしかなかった。