第弐章 大蜘蛛の巣中 三 お節介焼きの魔神
樰永は、秋羅国、宝瓶城における自身の居室において、つい四日前に手に入れたアフリマンを前にして、いつになく考えこんでいた。
「刻鎧神威……か」
樰永も以前から、その存在と脅威は聞き及んでいた。
しかし、実際に"見る"と"聞く"では天地ほどの隔たりがあることを、今回は改めて思い知らされた。
「西界の国々が血眼になって収集しようとするわけだな……。ひとつあるだけで戦の趨勢をいとも容易く決めてしまう」
まるで予期せぬ事態だったとはいえだ。自分は、芦藏に抗し得る力を手に入れた。
それ自体は願ってもないことだし。喜ばしいことですらあるだろう。だが――
「俺に、本当にコレを扱う器量などあるのか……」
普段の彼からすれば、まるでらしくない弱音をこぼしてしまう。
だが、それも無理からぬことだろう。それだけこの刻鎧神威の力は凄まじすぎた。
そもそも樰永自身も先日は何の比喩や冗談でもなく、真実死にかけたのだ。ひとつ間違えれば、樰永だけでなく父母や家臣たち、何より朧までも危うかった。
そう思うだけで、樰永の背筋を冷たい汗がいくつも伝った。
「ともかく……こいつの使い方を一刻も早く学ばねばならん。おそらく芦藏は待ってはくれんだろうからな。いざ連中との決戦で、こいつがまた暴走なんぞすれば目も当てられん……!」
ここで説明するが、芦藏氏とは、北應州を治める鷹叢家に対し南應州を治める武家だ。
強力な土蜘蛛の騎兵隊をはじめとした精強な軍隊を持つ。
最盛期には應州全土を掌中に治めた大大名であったが、かつての大君家に敗れ、その領土のほとんどを削り取られてしまっていた。
しかしその数百年後、その大君家の牙が萎え衰えたのを見計らって、かつての土地を回復せしめたのだが、生憎とその間隙に乗じたのは彼らだけではなかった……。
それこそが、当時、秋羅国を治めていた兼城家の守護代に仕える家老でありながら急激に勢力を伸ばしていた父・悠永だ。
父もまた主家を打倒し北應州を掌中に治めたのだった。
以来、芦藏は鷹叢を火事場泥棒と目の敵にしており、虎視眈々と北應州の奪還を狙っている。
先日もちょっとした小競り合いが起きたばかりだ。この手のことを既に二十年は続けている。
しかし血気盛んながら人並外れて聡明な若武者はそれらを鼻で嗤って一蹴する。
「は! 笑わせてくれるな……。火事場泥棒はお互い様だろうが。第一――」
應州全土の統一など通過点に過ぎぬ。
我ら鷹叢が――否、俺が目指すは天下だ。
そして、倭蜃国をかつてのそれ以上に強大な国に、西界の列強にも負けぬ強国に育てあげねばならんのだ。
そも隣国の大国『藍』すらも危うい。ならば、内戦真っただ中の我が国なぞどうなることか! にも拘わらず目先の領土争いに固執している場合なものか!
そして、公家どもも公家どもだ! かつての知りもせん祖先の栄華に固執し、我ら武家を利用して醜悪に肥え太ろうとする……! 奴らには、この国の危機的状況や戦禍に喘ぐ民草すら見えておらんのか!
そう強く憤りながらも、やがてまた大きく嘆息をついた。
「――とはいえ、俺自身、いまだなんら大した力も持たぬガキだがな……」
武人として個人的武力だけで言うなら、既に父すら超えているという自負はあるが、軍を、国を、民を率いる大将としては、器も視野もまだまだ父の域には届いてはいないという自覚はこれでもある。
「儘ならんもんだな……。だが、だからこそ――力をつけた今だからこそ地に足をつけねばならない」
拳を握りしめ強く自戒する。
でなければ、鷹叢も芦藏もなく應州全土が、否、倭蜃全土が焦土と化してしまいかねないだろう。
それだけは断じてあってはならない。
そのためにもアフリマンの扱いには慎重を期さねばならない。
改めて固く自戒する樰永だったのだが――
「ユキナガー。いつオボロに『俺の子を産んでくれ』というのですか?」
いつのまにやら横に、少々目のやり場に困る衣に身を包んだ鉄面皮の美少女が佇み、爆弾発言を不意打ちで投げ入れてきた。
「ぶはっ! だ・か・らー! そんな台詞を無表情に、加えて何よりところ構わずのたまうな!」
己の刻鎧神威の突飛かつ露骨な発言に、樰永は呑んでいた茶を吐きだしてしまった。この手のやり取りを既に数え切れないほど繰り返していた。
「なぜですか? ユキナガは言いました。"もう自分の気持ちを誤魔化せない"と……! ならば隠す必要性は微塵もないはず」
「っ! だからって! そんな簡単にいくもんか! そもそも、おまえだって先日は"余人は理解しない"って言ったじゃねぇか!」
「あれは単に人間どものくだらぬ定義に沿った問いを投げかけたに過ぎません。だいたい近親婚など神々にしてみれば、日常茶飯事に過ぎませんよ? 特にゼウスとかとんでもねぇのですよ。同母の姉二人ばかりか曾孫娘にも手を出してる体たらくなのです。ただ仕えるこの身としては、ユキナガの本心を是が非でも聞いておきたかったので」
魔神は事もなげにのたまい最後にこう締めくくった。
「故にわたし個人の感想としましては、そのようなものは取るに足りぬ些末なもの――ぶっちゃけてどうでもいいものなのです」
「本当にぶっちゃけたな!!」
あまりと言えばあまりに明け透けな物言いに、樰永も痛烈な突っ込みを入れる。
「けれど、ユキナガのいうことも然りでしょう。そもそもまず、オボロに"兄"としてではなく"男"として意識されなければならないわけですし」
「ぐっ!!」
しかし、この真っ当かつ根本的な問題を指摘され、さすがの樰永もぐうの音も出なかった。
――そうだった。よくよく考えれば俺は、そもそもいまだに出発点にすら立てていなかったのか……!!
まったくもって今更な問題に愕然と膝を崩す主へ、アフリマンはさらなる妙策を提案する。
「やはり、ここは手っ取り早く夜討ちならぬ"夜這い"でしょうか」
「だ・か・ら! おまえはどうして思考が二段も三段も飛躍するんだよ!? というか、それほぼ玉砕前提だろうが!!」
「それをいうなら、そもそもユキナガの恋自体が既にそうでは?」
「がはっ!!」
あまりにも何気ない、されども真っ当な指摘に、樰永は己の心が容赦なく"グサリ!"という音を立てて貫かれるのを感じた。
しかし、当の彼女はそんな主の心情を知ってか知らずか無感動にこう続けた。
「けれど、ユキナガもそんなことは、はじめから承知の上なのでしょう? 承知の上でオボロのことを、ひとりの女の子として好きなのでしょう」
「……ああ、そうだ」
「ならば道が険しいことなど百も千も承知のはず。だからこそガンガン攻めましょう!」
と、両拳を握ってむんと発奮する刻鎧神威に樰永は苦笑を返した。
「ああ、そうだな。望みなんかはじめからないも同然なのは、元より承知の上だったのだった……。ならこんな当たり前のことで、挫けている場合じゃないよな」
「その意気です。ではつきましては――」
と、アフリマンは己の衣を脱ぎはじめた。
「は?」
その脈絡もない唐突な行動に、樰永は目を点として間抜けな声を出すしかなかった。
「まずは、わたしで練習しましょう」
そうのたまうや、幾何学的な入れ墨を全身に描きながらなお艶めかしい白い裸身をもって押し倒された。
挙句、少々小柄な体躯に不釣り合いなたわわに実った双丘が、中央の桜色に色づいた突起を突きつけながら己の眼前に迫った。
「なっ!?」
「さあ、わたしをオボロと思って口説いてください」
「いやいや、待て! 待て! 待て!!」
樰永は突然のことで思考停止に陥っていたものの、とっさに我に返ってアフリマンの肩を抱いて押し止めた。
「どうしたのですか?」
「どうしたのですか、じゃねぇ! なんでそういうことになるんだよ! つーかなんで脱ぐ必要がある!?」
「その方が雰囲気というものが出ると愚考しまして」
「出るか!! というかこんなこと練習でできるわけねぇだろ!!」
「なぜですか?」
「何故も何も俺は、初めては絶対に朧とって決めているんだよ!!」
そう――それだけはもう絶対に譲れないことだ。
しかし、アフリマンは心底呆れ果てたように嘆息した。
「はぁー、なにをいい歳して乙女のようなことを……。これだから、色んな意味で拗らせてる童貞は面倒なのです」
やれやれと言わんばかりに、大仰な身振り手振りで首を横に振る魔神。
「おまえ、すべてにおいて最低だな!!」
「その罵倒は、悪業大災の化身たるわたしにはご褒美なのです。それよりも、そのような温い覚悟と体たらくではオボロを孕ませるなど夢のまた夢なのです」
「おまえの言い方、つくづく露骨な上に生々しいな!!」
「だって元よりユキナガが目指す道の行きつく先は、そこなのでしょう? 何を今更」
「だから無駄に飛躍しすぎだ! もちろん俺としては何れはそこに行きつくつもりではあるさ! だが、物事には順序って奴が――」
「兄様、そろそろ朝餉の――」
と、あらゆる意味で先走りすぎる刻鎧神威を肩を掴んで諭そうとしたところで、聞き覚えのあるというより、聞き違えることなどありえない美しく愛おしい声が、障子を開ける音と同時に響いた。
樰永は、あまりにもぎこちない動作――それこそカラクリ人形が首を回すような音を不協和音のごとく響かせて、首を障子戸の方へと回す。
そこには、笑顔のまま凍りついた最愛の妹がいた。
最初、朧は何を見ているのか理解はできなかった。しかし、眼前の状況を正確に認識すると大きな瞳から徐々に光が失せる。
それを見て樰永は"まずい!"と、すぐさま騎乗位のように乗っかっていたアフリマンを除けて、弁明せんと朧に駆け寄った。
「朧! これはだな――」
しかし、愛妹の返事は、乾いたような平手打ち一発だった。
「ッ……どうも、失礼しました……っ!!」
それだけいうと兄に対し踵を返して、障子戸を乱暴に閉め、その場を風のごとく後にしてしまった。
「おお……これはきつい」
アフリマンはまったくの無表情で、他人事のようにいう。
そして、一方の平手打ちをかまされた主は……。
「終わった………。完膚なきまでに終わった…………」
死んだ魚のような目になって、まるでこの世の終わりだと言わんばかりに放心していた。
しかし、アフリマンだけは、朧の去った後を見ながら少し目を細めて呟く。
「……ふむ。なるほど……。確かに、これは練習するまでもなかったですね」




