序章 嵐を越える想い
今でも鮮明に思いだせる。生涯決して忘れられない何物にも代えられない記憶が私にはある。
それは恐ろしい嵐の海に孤立する船でのことだ。
当時、八つになった私は、はじめて父さまに連れられた黄泉の港にはしゃいで商船に潜りこんだ挙句、そのまま眠りに落ちてしまい、その間に商船は出航してしまったのだ。
そして、私が目覚めると船は嵐の中だった。
吹き抜けるような蒼天だったはずの天は渦を巻く毒々しい曇天へと変じていた。
激しい揺れと船体が軋む音に、入ってくる大量の水に烈風、幼かった私はただただ怯えていた。
目が眩むような稲光と咆哮とすら思える雷鳴が耳朶を打ち。
その上、滝のような雨霰が私ばかりか船そのものに降り注ぎ視界などないに等しかった。
唸りをあげて吹きすさぶ寒風は容赦なく肌を突き刺し、帆柱にしがみついていなければ、今にも空へと巻きあげられそうだった。
私はそんな中でも涙は流さずただ歯を食い縛って耐えていた。けれど――
「兄さま……! 父さま、母さま……! たすけてっ」
私は涙を堪えながらも、我慢できずにか細い声でここにいるはずがない兄と両親の名を呼んでいた。
だが、この荒れた大海原の真ん中で呼んでも聞こえるはずもなくて……。
私はもう二度と家族に会えない寂しさと恐怖で、頭がいっぱいいっぱいだった。
けれど――
殺す――
「え?」
突如近くで、そんな物騒な声が聞こえてきた私はびっくりして、おもむろにうつむいていた顔を上げ、思わず条件反射で問いかけていた。
「だ、誰?」
だけど、誰も答える者はいなくて私は不気味に思って今度は声を張りあげてみた。
「誰っ!?」
でも、やっぱり誰も答えなかった。考えて見れば、こんな轟音の中では私の声なんて誰も聞こえるわけはないのだ。
それに、さっきの声だってきっと空耳だったのだろうと思った瞬間――
殺す――
「っ!?」
――気のせい――なんかじゃない?
私は嵐のことさえ忘れて、得体の知れぬ恐怖で全身が硬直し、再びうずくまった。帆柱にいっそうしがみついて目を閉じ何も聞くまいとした。
けれど――
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!――
そんな行為はまるで関係ないと嘲られるように、声はとうとう引っ切り無しで私の耳朶を容赦なく叩き続けた。
「やめて! あなた誰なの!?」
黙っていることにさえ耐えきれなくなった私は、再度声の主に叫んだ。
問いの答えの代わりに、声の主は――
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す―――殺せ!!
「!!」
それを聞いた瞬間からしばらく後のことを、何故だか私は覚えてはいない。
ただ頭の芯が一気に冷えて真っ赤に染まったという、漠然とした心地であったとしか言いようがない。
今にして思えば、死と隣り合わせという極限状態で錯乱したのだろうと考えているが、いまだに判然としない。
けれど、そんな時は長くは続かなかったことだけは覚えている。
私が唐突に我に返ると、甲板では水夫たちがせわしなく動いて怒号を放っていたのだ。
けれど、この轟音のような嵐ですべてが掻き消され何も聞こえない。
だが、何か様子が変だった。
この時私は、何故皆垣立に集まって荒れた海を指差しているのだろうと、幼心にも首を傾げた。
まさか、救助の船が来たというのだろうか? こんな嵐の中で? そんなことは万にひとつもあるはずはないと子供の私だってわかることだった。
そう思っていた私の耳に、最もよく知る、この世で最も安心できる声が響いたのは、まさにその時だった。
「朧――――――ッ!!!」
それは私が聞き間違えることなど、決してありえない声だった。
その声を聞いた瞬間、私の心を占めていた恐怖は嘘のように霧散し、代わって深い安堵と狂おしいまでの愛しさが広がっていったのを今なお覚えている。
私はそれが幻聴などではないことを祈って我知らずに駆け出していた。
すると、荒天を映すように黒く濁り激しい波飛沫を上げる荒海に、木の葉のごとく揺れる一艘の小舟が眼に入った。
そして何より、私が最もよく知る姿が櫂を手に小舟を懸命に漕ぎ、傷だらけとなっているのが見えた。
「兄さまぁ――――――ッ!!!」
私もそう叫び返して手を伸ばした。すると、兄様は乗っていた舟から跳躍し商船へと飛び移った。
改めて間近で見ると、その姿は酷いものだった。
全身がずぶ濡れなのは言わずもがなだったが、それ以上に生々しい傷が至るところにあった上、額からは血が流れてさえいた。
けれど、兄様はそんなご自分を省みることさえなくて。その眼で私の姿を捉えると真っ直ぐに駆け出して抱きしめてくれた。
「朧……! 朧っ! よかった! 本当によかった……っ!」
兄様の声も身体も震えていた。いつも自信に満ち溢れた兄様の姿しか知らない私がはじめて見る姿だった。
そこから感じる二度と会えないとさえ思った温もりと熱に包まれているんだとわかった途端に、私は眼から溢れるものをこれ以上堪えきれなかった。それこそこの嵐に負けないほどに声が枯れんばかりに泣き叫んだ。
この時抱きしめてくれた、腕も、胸板も、頬も、髪も、雫すら滴らせた瞳も、その温もりすべてを私は生涯忘れない。
このヒトは私にとって生涯唯ひとりの最愛。それは今なお変わらないと断言できる。
誰が否定しようと糾弾しようと、それだけは絶対に否定なんてさせない。
この気持ちが禁忌で間違いだったのだとしても構わない。だって自分自身に嘘なんてつけないもの。
私にとっては、まぎれもない真実ですべてなんだから――