ブラック企業社員 リンネル・トールの疲弊と邂逅②
「どうぞ、非常用水ですけど、災害なんて起こりませんし」
リンネル・トールが持ってきたのは、棚の奥に据え付けられた非常持ち出し袋。その中から『三年保存』とラベルに記されたボトルを取り出し、ケンバーに手渡す。
「すまないな。ほんとに」
受け取ったケンバーは腕輪を操作し針を展伸し、ボトルの底に刺す。ボトルはすべての水を腕輪の中へと吸い取られ、圧力でつぶれた。腕輪の体積以上の水を吸い込んだように見えるが、この圧縮・格納技術は流体を取り巻くテクノロジーの一端であり、今更さして驚くべきことではなかった。
ともあれ、これでVETS流体に水分が行き渡り、本来の性能を発揮できるのは間違いない。
「しかし、カタカラ川の方から、という事は向こう岸から…?」
濡れて重くなり、かえって整った印象すらあるケンバーの長髪から落ちる水滴を追い、窓の外を流れる人工河川のせせらぎを聞きながらの、リンネルの問い。
「いや。地下のシャフトから、大きめの配管をひたすら逆流して…」
「逆流?」
「そうだ。流体の伸縮リソースの水を酸素と水素に分解して…呼吸したり、流体で包んで膨らまして浮力にしたりもできる。」
「すごい応用力、さすが騎士の流体を使うだけありますね!」
(どちらかと言うと労働者の流体作業の知恵だが……)
誤解を有利な材料として用いるためにも、ケンウッド・ケンバーは湧き出た指摘を口内に留める。水中作業や低酸素・有毒環境下では装着したVETS流体をそのように使うことで、ケンバーら労働者は効率的に作業を進めていた。神経接続による操作と、流体そのものの集合分子頭脳の何かの連動なのだそうだが、理論分野は彼の得意でも専門でもなかった。
「で、浮上の途中で水が足りなくなったんで皮の水を取り込んだら不純物が多過ぎたみたいで動かなくなって…」
「流体は水ならなんでも吸いますけど、カタカラ川の水はドブとかとも違う危なさですから…」
「俺、そんなとこ泳いだのか…」
「ええまあ、殺菌剤に殺藻剤…でも泳ぎながらじゃ自分の血を吸わせる訳にもいきませんしね…」
「血って、お前」
「あながち無い話でもありませんよ?伝説でならトーラス卿はボズマングとの三日三晩の戦いの最終盤、自分の流体鎧、クルチォントーラスの力が尽きようとしたその時、短剣で己の左腕を貫いて流体に血を吸わせて勝利したって逸話とか…他にも」
「好きだねェ、流体騎士」
やんわりとした称賛でケンウッド・ケンバーは無限に続きかねないリンネルの長広舌を遮ったケンバーは話題をそれとなくリンネル本人の人となりへと移そうと試みる。
「まあ、憧れますよ。弱きを助け悪を挫く…あなたもそうでしょ」
「お、おう…ともあれ、あの川の水は薬品が多すぎて充填には向かったらしいんだ。それで鈍ってきた流体を引き込んで、上がらせてもらってる。良い水ももらったようだし、あとは攪拌と…」
「定着ですね。ゆっくりしてて下さい。」
言いながらリンネルは寝台に腰かけ、タブレット端末を起動する。
「…仕事か」
「ええ。土産物とか…流通関係、ですかね。何がどこに向かったか、どれがどこにあるかをまとめて…」
「流体の関係じゃないのか」
リンネルの答えに、ケンバーはやや驚く
「ええ、残念ですけど」
「それだけ好きなのに、残念だな」
「昔は目指してましたけど、大学は行けなくて」
流体ならば、大学等に行かなくとも現場に出て神経調整手術を受ければいくらでも装着の機会がある、口から出かけた答えをケンバーは押しとどめて、飲み込む。義務教育の終了後に社会的選抜から落伍し、職業訓練を経て自由民として労働の道を進んだ自分と、高等学校へ進学した果てに目の前で機械を操る痩身の若者との社会階層の差を理解してのことだった。
「大学か…すまん」
「いえ。」
会話が途切れては、他にやることもないケンバーは次のボトルをあけ、水を注入。空になれば、その次のボトル。リンネルも無言でタブレットを操る。静かな夜が十分ほど過ぎたころ、安普請の薄壁の両側からゴトゴトと物音、そのいくばくか後に、リンネルの部屋のチャイムが鳴った。
「誰か来たぞ」
「ああ、立たなくても」
殺気立つケンバーを制するリンネル。タブレットを操作し、ドアに据え付けられたカメラと画面を接続する。
「………ほら、この服。委託管理の人ですね。ここに住んで長いですから、俺の帰りに合わせて…こういう意味不明な時間に来るんですよ」
安心した顔のリンネルがタブレットをひっくり返し、ケンバーにも様子を見せる。淡い色合いの作業服を着た男が愛想笑いを浮かべて立っている。ケンバーは一瞥し
「おーおー、エクトラの作業服はどこにでもあるね……ってちょっと待て。開けるな。」
「エッ」
いつもの事のように開錠操作をしようとしていたリンネルの指が止まる
「ワークトラッカーがない。作業服は着てるが非番か偽物だ。つまり管理人っぽいがやることは…」
ワークトラッカーとは作業服に目立つ位置、エクトラ社なら左肩に装着する労働者向けの作業監視装置。顧客の財物や貴重品の近くで作業する際に現場労働者が着用を規定で義務付けられているそのデバイスを、画面の向こうの作業着の男は所定の位置につけていなかった。服装だけでなく、職務の実態も判断基準として把握していたケンウッド・ケンバーならではの着眼が、突然の来訪者の正体を暴きつつあった。
「詳しいですね…」
「まあな。前の前の…とにかく職場の洗濯屋の見習いどもがな、洗った作業着返す前に手前ェで着て備品ドロやりやがってな…そん時ワークトラッカーのおかげで濡れ衣被らずに済んで、そんで犯人はもちろん俺たちでフクロよ」
素直に感心され、得意になったケンウッド・ケンバーはやや饒舌に語った。
「フクロ?」
「『袋叩き』。まあどうでもいい。とにかく入れるな。作業員じゃない」
「そんな。日に二軒も強盗だなんて…」
「いやその、おそらく彼らも強盗ではなく…」
不運を嘆くリンネルに対して、ケンウッド・ケンバーが控えめな進言。
「じゃあ何です。」
「恐縮なことだが、俺を追ってきたのかと…」
「追手が来てるなら言ってくださいよ!!」
あまりにも今更なケンバーの告白に当然といえば当然のリンネルの悲鳴
「すみません……。地下を出るまではともかく、出てからは追われる気配なんて、あったかな…」
謝りながらも、ケンバーはけげんな顔だ。とはいえ、地下のゼロ番ホームから、組織の人間が固める正規の出口以外の脱出手段は限られているのだから、地上のその数カ所、主には人工河川であるカタカラ川の共同溝の幾何的な配置を辿って怪しげな上陸の水跡を追えば割と簡単に足取りはつかめるのだが、
「どこでバレたんかな…」
パーシモン・シティに到着間もないケンウッド・ケンバーにそこまでの土地勘を期待するのは酷というものだった。
「知りませんよ…」
首をかしげる大男と呆れるもう一人を急かすように扉が外から叩かれ
『トールさん。いらっしゃいますね?来客中に大変失礼しますが…』
タブレットのスピーカーから事務的な声が響いた。
「ほら。やっぱり管理の人ですよ」
現実逃避のあまりリンネルは警戒を解きつつあるが
「客…」
ケンバーはまだ訝しげだ
「客はあなたでしょ、えーっと」
「ああ、ケンバーだ。ケンウッド・ケンバー」
「そう。ケンバーさん。遅ればせながらよろしくです。僕はリンネル」
「え、ああ。よろしくな。リンネル…だがそれより俺は…客として入った覚えはないぞ」
場違いなシチュエーションから流れで始まった自己紹介を手早く切り上げ、ケンバーは背後の、外された窓枠を指さす。すなわち窓の防犯装置は不発で、玄関の開錠記録もないはずだった。
「あ、そういえば」
「そもそも客の入室証明なんてつけるのか。高級レジデントじゃあるまいし」
「規約には有ったような…でも、今まで言われたことありませんね」
「やっぱり妙に変だ。まともじゃない」
「ど、どうすれば」
「…居留守でも使えばいいんじゃ」
「やですよ!新手が来て扉をぶち破るかも」
「じゃどうする…………俺を叩き出すか?」
「いや、それもそれで…」
扉を叩く音が止んだ。恐る恐るのぞき込んだタブレットの先では、作業服の男が手のひらサイズの黒い機械をドアに掲げている。おそらくは違法なマスターキーだ。
「開けられる…入ってきたら」
「当然まずい。…早く隠れろ。俺が処理する」
「隠れ…!処理て」
「他に手があるか!ホラ隠れろ!風呂桶の中だ早くしろ!」
「いや、うちシャワーしか…とにかく隠れます」
怒鳴られたリンネルはタブレットを抱えて洗面台の横のドアに滑り込み、ややあって急いでかがみこむ勢いで、どこかをぶつけたらしい鈍い音。
「よし、間に合ったな…隠れたら開けろよ!」
しばらくして、おそらくはタブレットが操作され、玄関の戸が開く。
「あ、開いた。えーっと、トールさん…」
「ではない。だが目当ての男じゃないか?」
「そのようだ」
インターホンに映っていた作業服の男は、マスターキーと反対の手で持っていた携帯の画面とケンバーの顔面を見比べて、いかにも管理人風の作り笑顔を荒事師のそれに一転、後ろに続いていた何人かを部屋へと招き入れる。
北の都市とはいえ過剰ともいえる分厚いコートに身を包んだ男たちは二名。さらに二名が、遠隔通信に呼び寄せられてか、ケンバーと同じ窓伝いのルートで部屋の反対側に現れる。先ほどの両隣からの物音は、彼らが侵入し建物の一階を制圧した音だったのだろう。
「どうして見つかったか教えてやろうか。痕跡だらけだったぞ。このマヌケ」
余裕綽々の表情でそんな言葉を投げかける作業服の男に
「どうでもいいわ。今さら」
ケンウッド・ケンバーは闘志を剥き出しにし、刺々しく毒づいて返した。
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