表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の、私の自分の見つめる方法。  作者: 原田紋太郎
12/12

言い訳

自殺を考える人なんて、適当な理由がないと死を拒絶する人で自分の命を誰よりも崇高だと思っているひと。

死にたいと言っているひとにこの言葉を言ったとする。

この言葉は、受け入れられるだろうか。

私だったら、無理だと思う。

私自身、死にたいと思ったことがあるときに自分の事、どれだけ偉いと思ってんの。

と、言われたとき、偉いでしょ。と、おもって、しまったからだ。

崇高な人。

崇高な命。

誰しも持っているもの。

神様が、思考というものを私たちが考えることができるようにしてくださったのだから。

でも、神様がいなかったら物質とか、なんだかんだ名前をつけたこれらは一体何から生まれ、なんで生かされているのだろう。


ちなみに、適当な理由がないと死を拒絶するというのは何なのだろうか。

私は、死にたいと思ったとき特に何もない時に何にも感じずに死んでいくたいと思った。

それが、適当だといえるのだろうか。

それで、死にたくないと思ったら、適当であるのだろうか。

目の前で、死んでくださいと言われて死んだらそれが理由になってしまうのだろうか。


このようなことを考えると妄想が激しいとか。

考えすぎだとか。言い訳、してるだけ。とか。

こんなところで終わらなくていい。終わってもいい。

理由つけなきゃ、考えれなくて、弱い自分がこうして見えてくる。

弱い自分に、強い自分って言い続けたら私は、思っている私になれるのだろうか。


言い訳なんてしたくない。

でも、自分を無意識に守ってしまっていて、分からない。

考えたい。

言い訳ってものがしてはいいのかいけないかなんて勝手に言ってるだけとか思っちゃったらどうしたらいいの。


自分の力なんて、分からない。

分からないという力はすごいのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ