002 (改定中)
大いに物理させていただきます。
永久の板。ユキとの最後の通信を終えた安吾郎は、自身の何十度めかの生としてのものであろうレポートをまとめていた。
良き話し相手だった稼珠央に話しかけるように、ひとり、つぶやく。
「宇宙も時間も閉ざされているてなことを、いい大人が顔つき合わせて話してた時には、
まさか、こんな面白いことになっていくとは思っていなかったわな。」
既に人類の過半は現世に存在していないはずだ。
加速器のトンネルを介し、地下奥深くのムーンサイドに降り立っている安吾郎の元にも、まもなくに寄生体は訪れる。
そして、寄生体に支配されるか、過去へと消し飛ばされることになるだろう。
けれども、安吾郎にはやることが最後までやることがある。
時を超え、レムから託された永久の板に、この現世で起きている事象を加筆すること。
「永久だの、五界六世だの、半端者といはいえ物理学者の僕が、随分と仏教徒みたいな名前つけるようになってるなぁ。」
と笑いながら、安吾郎は、永久の板を読み取りながら、ムーンサイドから偶有体が解き放たれた後に生じていることを追記していく。
永久の板は、安吾郎が知る時間では66億年ほど前のイリバースとユニバースの狭間において、レムが生み出したもの。
安吾郎はそれ以上のことを知らない。
イリバースは、安吾郎を始めとする物理学者たちが先人からダークエネルギーと呼ばれる仮説で託されたものだった。
一切の観測機器で測定することができないダークエネルギーは、宇宙が今あるように存在するためには、宇宙の絶対多数を占めなけれぱならないことだけを物理学者たちは宇宙の膨張速度の研究をから割り出していた。例えば、マイナスの質量を持ち反発しあう物質が存在するならば、それはダークエネルギーとなるのだが、マイナスの質量は仮説の一つにすぎない。
永久の板には、ダークエネルギーが、時間を逆行し正の質量を生み出すことのあるイリバースであると書かれている。そのイリバースの時間逆行の流れは干渉した質量を過去へと流していく。その流れにより、宇宙は少しづつ密度を落とし、膨張していく。こちらも宇宙の膨張速度の観測結果を正確に説明できる。
ダークエネルギーが、マイナスの重さなのか、時間を逆行する質量イリバースなのか、そのいずれもなのか、あるいは真空エネルギーなど他の何ものかなのかを、安吾郎に証明する術はない。観測事実に基づかなければならない人類の物理学では、結論づけることは不可能だった。
ただ、娘のエミリを遠くから見てきた安吾郎は既に決めている。イリバースはダークエネルギーの全てではなくとも、存在しているのだ、と。そして、そのイリバースに頼り、イリバースの終着地、66億年前のトリガリアに待つエミリの元へと、今回のダークマターの観測結果を伝えるのだと。
レムに仮説として託され、安吾郎が何度かの生において観測し続けたものは、通常物質と相互作用しないダークマターには5つの種類があるということ。
おそらくは5種類あることは宇宙が存在し続けられる制約条件である。その5種のダークマターのうち、少なくとも4種は、地球や太陽などの恒星をはじめとした通常物質の総質量よりも重い。それらはクオークを原子核へと結びつけるアクシオンを構成しうる存在。そして、残り1種のダークマターの総質量が、我々の通常物質の総質量より大きいかどうかは、現時点では不明だった。その両者の質量比が、安吾郎がユキたちに、ダークマターからの寄生体と通常物質の生命体に内在する魂として伝えた存在の命運を分けることになる。
「全部、レムって奴の受け売りなんだけどな。それでも、測り続けることに意味はある、と。」
ムーンサイドに備え付けられた観測装置からの測定数値の総集計は、未定質量のダークマターの総質量と、我々の通常物質の総質量との、質量比は1.01より小さいと結論づけていた。
1%以内の範囲で競い合う両者のうち、ダークマターの方が重い可能性が現時点では約60%となる。ただ、おそらくは後者の集計結果の精密値を安吾郎が目にすることはない。ムーンサイドの量子コンピュータが精密計算に要する時間は少なくとも数ヶ月である一方で、彼が寄生体に取って代わられるまでの時間は半日とないはずだった。
安吾郎は、そのあたりの全てを永久の板に記した。
「お役目、お終い、と。」といい、安吾郎は目を瞑った。
一応は正統な教育を受けた物理学者としての安吾郎は、永久の板に記された、イリバースとダークマターについての記述を信じてはいない。それはこの宇宙をを説明可能なものではあっても、反証可能な仮説に過ぎない。もちろん、永久の板なるものがイリバースと相互作用し、過去に飛ぶといったこともだ。
ただ、彼は、エミリの父親としての役割として、永久の板の指示に従っている。
生物学的には、遺伝子を調整されて誕生したエミリの父親は誰でもない。
それでも、彼は、エミリの父親として、消え去るエミリの導きに従い、ムーンサイドへと降り立った。
「何にせよ、トランシルヴァニアの奥地の地下奥深くに、こんな大きな空洞がある、なんてのは、冗談にしても大掛かりすぎるしな。」
イリバースが永久の板に書かれた通りのものである限りにおいて、地球を生み出した宇宙は、イリバースが消え去る今から約66億年前と、イリバースが全てを満たす今から約440億年後の間を永遠に循環する存在となる。そして、ビックバンで宇宙が誕生しイリバースが現れるまでの間が66億年と少しであったことを、その永遠の循環の中にある存在は永久に証明できない。
「無理くり物理学者に戻ると、ビックバンがあったかどうかを決定できないなんてのは、ちょっと悔しいけどな。ただ、5%に満たない通常物質を超えた存在にここまで迫れた気になるのは悪くない、と。」
最後にそう言った彼は、そのまま無言で坐禅を組み続けた。
小一時間後、寄生体の出現と共に彼は消え去った。
永久の板はイリバースに乗り、トリガリアへと戻っていく。
次回から日常編です。