ビルマ解放 1943年10月
インドシナ半島・ボルネオ・インドネシアの解放に成功したアジア連合は次にビルマの解放を目指した。
ビルマ解放はインド解放のための重要なステップになる。
インド国内では既に独立運動が活発化していることもあり、そのための支援ができる状況を作るのは必須だった。
また連合軍の反攻が始まるのも時間の問題であった。
迅速な行動が求められた。
1943年9月14日。
沖縄で行われたアジア連合会議においてビルマ解放作戦である「オペレーション・ブリッジ・オブ・フリーダム(自由への架け橋作戦)」発動が決定される。
連戦で消耗した日台は、今回支援に回り作戦主体はタイ王国軍とベトナム共和国軍、そしてアジア連合の支援によって結成された「ビルマ独立義勇軍」である。
作戦の骨子は航空攻撃と艦砲射撃の後、ヘリボーンと強襲上陸によってラングーン(後のヤンゴン)・マンダレーを制圧し英国軍を分断し降伏に追い込むというものである。
参加戦力
日本
NGF第4艦隊
第4艦隊
直轄艦DDH-144 くらま
第16戦隊‐重巡足柄・軽巡長良、球磨
第3護衛隊(舞鶴基地) DD-114 すずなみ DD-154 あまぎり
第7護衛隊(大湊基地) DD-133みなづき DD-155 はまぎり DD-156 せとぎり
第63護衛隊(舞鶴基地) DDG-175 みょうこう DDG-177 あたご
輸送艦くにさき
陸上自衛隊中央即応集団(チェンライ特設ヘリポート基地に展開)
第一空挺師団
第一ヘリコプター団
第31普通科連隊(サイゴンに進出)
海軍航空隊
サイゴン基地・ハノイ基地航空隊(タイ王国バンコク基地に進出)
零戦21型改:70機
99式艦爆:25機
一式陸攻:40機
96式陸攻:30機
台湾空軍
第455戦術戦闘機連隊第4大隊 - F-16×3個中隊。(バンコク基地に進出)
台湾陸軍
第42装甲旅団 (ターク近郊に進出)
タイ王国
タイ海軍第一艦隊
空母クリーアト
重巡洋艦ワットアルン(旧ノーザンプトン)・アユタヤ(旧チェスター)
軽巡洋艦ワット・パナン・チューン(旧トレイトン)・チャオ・プラヤ(旧リッチモンド)
駆逐艦スパンズリ(旧ハーバート)・クート(旧ラング)
水雷艇スリン(旧鴻)ローイェ(旧鵯)ケラマト(旧隼 )ナン(旧鵲)
タイ陸軍第2師団(輸送船にて艦隊と同行)
ベトナム共和国軍
ベトナム陸軍第2師団(ターク近郊に進出)
ビルマ独立義勇軍。(くにさきに乗船)
10月7日作戦が発動された。
作戦は日本海軍航空隊と台湾空軍の航空攻撃によって幕を開けた。
まず、モールメインの英国軍守備陣地とラングーン・マンダレー両空軍基地に徹底的な空爆が行われた。
ラングーンよりわずかにフェアリーフルマーが迎撃に上がってきたが護衛の零戦隊のAIM9によって全滅。
ラングーン基地も台湾空軍のF-16の猛攻を受け瞬く間に壊滅した。
1日にしてアジア連合の航空優勢が確立した。
そして日台の航空戦力の航空支援を受けつつ台湾陸軍・ベトナム陸軍合同部隊がタークよりビルマ領内に進出、モールメインを目指す。
英国軍はモールメインにて必至に防戦するも頼みのM3戦車は台湾陸軍のM60A3戦車と歩兵部隊の携行用対戦車ミサイルによって破壊され機甲戦力を徐々に失っていった。
さらに日本海軍航空隊の99式艦爆の近接航空支援が加わり総崩れとなりラングーン方面に撤退していった。
英国軍と現地に展開する中国軍第5・第6軍はラングーン・トングーを結ぶラインでアジア連合軍を迎撃すべく戦力を集中する。
その戦力が薄くなった前線後方のマンダレーに第1空挺師団を乗せた第1ヘリコプター団が第4対戦車ヘリコプター隊の護衛を伴ってマンダレーを急襲した。
マンダレーの英国空軍基地守備隊に第4ヘリコプター隊のAH64Dロングボウアパッチがロケット弾や30mmチェーンガンを浴びせかける。
砲兵陣地やM3・75mm自走カノン砲やM3A1スカウトカーなどの戦力が瞬く間に粉砕されていく。
AH-64Dの攻撃で英国軍が混乱している隙に第1ヘリコプター団のV-22オプスレイがヘリボーンを敢行し、第1空挺師団の隊員たちを同じく搭載してきた軽装甲機動車と共に基地に展開させる。
軽装甲機動車が12・7mm機銃を撃ちまくり飛行場内を疾走し英国軍守備隊を蹴散らし
第1空挺師団隊員たちはそれに乗じて管制塔・格納庫などの重要施設を制圧。
2時間後には英国軍マンダレー基地は第1空挺師団によって制圧占拠された。
3時間後、占拠されたマンダレー基地に台湾空軍のF-16に護衛された第1航空輸送隊のC-2が飛来する。
第1航空輸送隊は15式機動戦闘車を伴った第31普通科連隊をマンダレーに降ろし再び離陸していった。
第31普通科連隊の15式機動戦闘車は105mm砲搭載の対戦車型とCTA機関砲装備の近接戦闘型の2ヴァージョンの車両で構成されていた。
これらがマンダレー基地の防御に加わった。
そして第2便では燃料食糧弾薬を補給する補給部隊が第3便ではヘリコプターの整備員と整備用機材・部品が運ばれてきた。
これによりマンダレー基地は陸自部隊の拠点と化した。
後方の要衝マンダレー陥落の報に英国軍ラングーン守備隊は浮足立った。
その時マルタバン湾にアジア連合艦隊出現の報が届いた。
タンリンの港から魚雷艇と砲艦が迎撃に出撃するも前衛を守るNGF第4艦隊の護衛艦群の短魚雷と速射砲が対応し、瞬く間に壊滅してしまった。
そしてタイ国海軍艦隊が前進して艦砲射撃を開始した。
重巡洋艦ワットアルン(旧ノーザンプトン)・アユタヤ(旧チェスター)の3連装20.3cm砲がタンソン沿岸の守備陣地を次々と破壊していく。
さらに軽巡・駆逐艦も砲撃を開始。
守備部隊は壊滅状態となった。
そこへ、くにさきが「ビルマ独立義勇軍」を乗せたLCACを発進させる。
日本より供与された95式軽戦車と94式軽装甲車を伴ったビルマ独立義勇軍はタイ海軍の援護の元タンリンに上陸。
空母クリーアト艦載機の近接航空支援を受けつつ英国軍を攻撃し、翌日にはタンリンを解放。
その後首都ラングーンへむけて進軍を開始した。
ビルマ独立義勇軍とタイ王国軍の上陸に呼応し、モールメインに進出した台湾陸軍・タイベトナム陸軍合同部隊も前進を開始する。
ベトナム陸軍第2師団はラングーンに向かい、台湾陸軍第42装甲旅団はトングーの英国軍陣地に向かう。
10月10日
ビルマ独立義勇軍とベトナム軍部隊が空母クリーアト艦載機の近接航空支援を受けながらラングーン市内に突入。
わずかに生き残った英国陸軍M3戦車隊が必死に抵抗したがビルマ独立義勇軍とベトナム陸軍歩兵部隊の無反動砲やM72対戦車ミサイルランチャーに撃破され結局は全滅。
戦車隊の全滅で戦意を喪失した英国軍はビー方面に逃走していった。
翌11日ラングーンは解放されミャンマー国旗が市庁舎に翻った。
ラングーン解放後、タイ王国海軍第一艦隊はNGF第4艦隊の護衛の下、ベンガル湾の要衝アキャプに向かう。
トングー守備隊の方はというと、台湾空軍のF-16戦闘機の空爆で散々叩かれた所を台湾陸軍のM62A戦車に蹂躙され戦線が崩壊。
こちらはピンマナー方面に逃走した。
ピンマナーに逃走した英国・中国合同部隊はメイッティーラにて中国第66軍と合流。
マンダレーを奪還し、戦線の立て直しを目論む。
しかし空から第4ヘリコプター団のAH64Dロングボウアパッチの襲撃を受ける。
対戦車ミサイルヘルファイヤーが生き残った英国軍のM3戦車を壊滅させ、そしてさらにはロケット弾と30mmチェーンガンの攻撃で歩兵部隊に大打撃を与えた。
損害にもめげずに数の力を押してマンダレーを目指すが、マンダレー基地より反復攻撃を繰り返すAH64Dの攻撃によって戦力はたちまち半減してしまう。
マンダレー市内に辿り着いた時には英国・中国合同部隊の戦力は30%にまで減少していた。
それでも数の上では優位に立っている彼らは一か八かマンダレー基地への突撃を敢行する。
しかし、待ち受けていた15式戦闘機動車の105mm砲と20mmCTA機関砲の攻撃を受ける。
さらに第1空挺師団と第31普通科連隊の5.56mm機関銃MINIMI、81mm迫撃砲 L16 120mm迫撃砲 RT の攻撃により次々と撃ち倒され英国・中国軍部隊は壊滅的損害を被った。
その上さらにAH64Dの30mmチェーンガンの掃射が追い打ちをかけた。
結局部隊の大半を失った英国軍と中国軍はミイトキイナ方面よりインドと中国へそれぞれ撤退した。
ベンガル湾に入り、アキャプの沿岸に接近したタイ王国海軍第1艦隊とNGF第4艦隊にホーカーハリケーン10機、スピットファイヤー10機、ブリストルブレニエム20機からなるカルカッタ基地英国軍航空部隊が襲いかかってきた。
しかしNGF第4艦隊の防空カーテンが容赦なく彼らの行く手を阻んだ。
各護衛艦はインレンジに入り次第一斉にシースパロー及びESSMを発射。
20機のブリストルブレミエムは瞬く間に全機が空中で爆散した。
せめて機銃掃射で輸送船だけでも撃破しようと戦闘機群が向かってくるが護衛艦群の5インチ速射砲の槍衾に捉えられ全機撃墜された。
アキャプ沖に展開したタイ王国海軍第一艦隊は艦砲射撃を開始。
英国軍陣地が沈黙した後、上陸部隊であるタイ陸軍第2師団をアキャプに揚陸した。
タイ陸軍第2師団は空母クリーアト艦載機の航空支援を受けつつアキャプの英国軍部隊を攻撃。
2日後にはアキャプを陥落させた。
アキャプへと逃げ延びてきた英国軍部隊には待ち受けていたタイ海軍・NGFの艦砲射撃が降り注いだ。
たちまち部隊は壊滅的損害を受け、結局残存兵が降伏したことにより戦闘は終結した。
1943年11月3日。
ビルマ共和国独立。
その1週間後、ビルマはアジア連合に加盟した。