マレーシア・シンガポール解放1943年
1942年初頭に日本軍政下から独立したベトナム共和国は初の国民投票によって選出されたホー・チミンの指導と日台両国の支援のもと近代化を急いでいた。
同時に駐留する日本軍第25軍の協力を仰ぎ国軍の整備も急ピッチで進めた。
8月15日の連合軍の宣戦布告を受けてベトナム共和国も日本・台湾らアジア連合の一員として欧米諸国との戦争を決意する。
1942年12月8日
沖縄における第2回アジア連合総会においてマレーシア・シンガポール解放作戦が提案され全会一致で決定される。
作戦はフィリピン戦と同様に陸海空の共同作戦が基本とされた。
英国軍各陣地は戦車大隊とヘリボーン作戦で迅速に突破することが決定される。
参加戦力は
日本
NGF第一艦隊・第3艦隊
第一輸送隊LST-4003 くにさき
第3艦隊の軽空母千歳・千代田は零戦のかわりに陸上自衛隊中部方面隊第10師団の第5対戦車ヘリコプター隊(AH-64D)と第10飛行隊(UH-1JOH-6D) が第33普通科連隊と共に搭載される。
航空自衛隊サイゴン派遣部隊
第7航空団第204飛行隊(F-15J/DJ・T-4)
陸上自衛隊サイゴン派遣部隊
中部方面隊第3師団
第7普通科連隊
第3飛行隊(UH-1H・OH6D)
第3施設大隊
日本海軍サイゴン基地航空隊(零戦21型改・一式陸攻改・九六式陸攻)
台湾
台湾陸軍サイゴン派遣部隊
第234歩兵師団
フィリピン
フィリピン第41、第51歩兵師団
1943年1月8日
作戦の準備が整いアジア連合軍によるマレーシア・シンガポール解放作戦オペレーション・ノースウインドが発動される。(略称NW作戦)
1月8日
航空自衛隊第204飛行隊と日本海軍サイゴン基地航空隊がコタバルを空爆する。
それを合図にタイ王国バンコクに前進していた台湾陸軍第234歩兵師団 ・第64装甲旅団
・フィリピン陸軍第41、第51歩兵師団がマレー半島プラチュアブリキカンへ進軍する。
第3師団を乗せた輸送艦しもきたを伴ったNGF第1・第3艦隊もコタバルを目指して南下する。
英国軍はジッタルに強固な防衛陣地を築いていたが、一式陸攻・96式陸攻による爆撃と204飛行隊のロケット弾攻撃の猛攻にあい壊滅的ダメージを負う。
1月9日
そしてその数時間後NGF艦隊がコタバル沿岸に来襲する。
戦艦長門・陸奥の主砲が火を噴き砲弾の雨を英国軍守備隊の上に浴びせかける。
瞬く間に英国軍沿岸陣地は壊滅的損害を被った。
さらに追い打ちをかけるように護衛艦群の5インチ速射砲も砲撃を開始。
小口径ながら恐ろしい速度の速射性と正確な射撃で英国軍の海岸砲台は次々と破壊されていった。
1月11日
コタバル海岸陣地が沈黙すると輸送艦「しもきた」からLCACが発進。
上陸部隊の先鋒である第7普通科連隊が15式戦闘装甲車と共に上陸する。
「しもきた」の艦載ヘリコプターのオプスレイが発艦し、普通科を上陸させる。
そしてLCACのピストン輸送により第3師団の上陸部隊は全てコタバルに上陸。
1月12日
ハジャイへ向け進軍を開始。
ハジャイに陣取った英国軍を陸地側から進軍してきた台湾フィリピン合同部隊と挟撃し粉砕する。
まともな戦車をもたない英国軍は半日もたたずに降伏した。
そして空爆により弱体化したジッタル陣地を、15式戦闘装甲車を先頭に一気に突き破り一路マレーシア首都クアラルンプールを目指す。
スリム台地に布陣した英国軍部隊は橋梁に爆破物をしかけ日台比連合軍の進軍を阻もうと試みるが英国軍は予想すらしてなかった空からの襲撃にあった。
洋上のNGF第一艦隊の瑞鶴・翔鶴の艦爆隊の空襲を受けたのだ。
さらにはそのあとに第3艦隊軽空母千代田より発艦したAH-64Dロングボウアパッチが襲いかかってきた。
英国軍の高射砲は俊敏なアパッチをとらえることができず、また機銃弾もその装甲にすべて弾き返されてしまった。
瑞鶴・翔鶴の99式艦爆の攻撃で陣地はズタズタにされ、唯一の機甲兵力であるブレンキャリアーも陸自のアパッチのロケット砲弾と30mmチェーンガンであっという間に壊滅してしまった。
そしてとどめを刺すように軽空母千歳から出撃してきた第33普通科連隊がヘリボーンで来襲。
歩兵部隊は次々と撃ち倒されスリム台地英国軍陣地はわずか一日半で陥落した。
その後爆発物処理班によって橋に仕掛けられた爆発物は全て撤去され進軍してくる味方部隊を待った。
英国軍の抵抗を次々に排除して進軍してきた日台比合同部隊は陸自の手に落ちたスリム台地をそのまま走りぬけ、そしてついに2月10日…クアラルンプールに到達した。
クアラルンプールを守備する英国軍は戦車砲で必死に抵抗を試みたが、陸自の対戦車兵器によって次々と撃破されていった。
必死に戦う英国軍兵士の頭越しに陸自ヘリコプター部隊がクアラルンプール飛行場に向かう。
やはりAH-64Dを梅雨払いにしたヘリボーン作戦でたちまち飛行場は陸自部隊に占領された。
シンガポール基地から英国空軍機が援護にやってくるも上空でCAPをはる零戦二一型改と陸自普通科の携帯式対空誘導弾の迎撃を受け次々に撃墜されていった。
2月13日クアラルンプール陥落。
ムルデカ広場にマレーシア国旗が翻った。
マレーシア国王の名において翌日の14日マレーシア連邦独立が宣言される。
アジア連合はマレーシアに連合参加を要請。
マレーシアは翌15日には連合加盟を決定する。
2月20日
NGFは日台比合同部隊がジョホールバルに到着するのを待ってシンガポール島に接近。
第一艦隊の瑞鶴・翔鶴航空隊よる航空攻撃を開始した。
ジョホール水道沿いの英国軍陣地は99艦爆のロケット弾攻撃で次々に沈黙。
特にシンガポールとジョホールバルを結ぶ橋周辺には徹底的な空爆が加えられた。
またシンガポール島でもっとも高い位置にあるブキテマ高地にある野戦砲台群は空母千代田から発艦してきたAH-64Dの攻撃によって完膚無きにまで破壊された。
橋周辺の英国軍がほぼ壊滅したと同時に端から陸自・台湾両軍部隊が前進。
同時に舟艇にてフィリピン軍歩兵部隊も次々にシンガポール島に上陸を果たした。
同時にブキテマ高地に空母千歳から出撃してきた第10飛行隊のUH-1H隊が第33普通科連隊を乗せ襲来した。
AH-64Dの援護の元、第33普通科連隊はブキテマにヘリボーンを敢行。
ブキテマに布陣していた英国軍守備隊を撃退した。
要衝ブキテマを失い戦意を喪失した英国軍は降伏。
2月25日シンガポール市庁舎にシンガポール国旗が翻った。
オペレーション・ノースウインドは成功裏に終わった。
1943年3月5日。
シンガポール独立。
そして1週間後の12日にシンガポールはアジア連合に参加した。
その後鹵獲艦艇が両国に供与されることになりマレーシア・シンガポール海軍が誕生した。
マレーシア海軍
軽巡洋艦マラヤ(旧デトロイト)
駆逐艦コタバル(旧スミス)・ハジャイ(旧ウイリアム・B・プレストン)
シンガポール海軍
軽巡洋艦バリサン(旧ジュノー)