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ヨーロッパ戦線1942年12月~1945年1月

英蘭による無差別通商破壊攻撃によりドイツ・フランス・イタリアの3カ国は3カ国連合軍に対し宣戦布告した。

東欧諸国やスペイン、ポルトガルも独仏伊の3カ国の側についた。

英米蘭の「連合軍」という呼び名に対し、欧州大陸諸国は「欧州同盟軍」と名乗った。

宣戦布告からわずか2週間後。

ドイツ連邦国防軍は一気にオランダに攻め込んだ。

1940年のナチスドイツによるオランダ攻略は「陽動」の意味合いが強く「ついで」の作戦だったが、今回のドイツ国防軍の攻撃は違った。


ロンメルは本気でオランダを攻めた。

ロンメルの腹心の部下であるファルケンファイン大将を司令官に任じ、かつての「ロンメル軍団」の精鋭達を前線に送り出した。

また空軍・海軍の戦力も可能な限り出撃させた。

ただし、ロンメルは市街地への攻撃は一切禁じた。

攻撃目標は軍事施設、そして政府施設のみ。

これは各部隊指揮官に繰り返し厳命した。


ロンメルが手塩にかけて育て上げた部下たちはロンメルの意思を完璧に実行するべく綿密な行動計画と的確な攻撃目標設定を行い、12月22日攻撃を発起した。

ドイツ軍は陸海空合同で十八番の電撃作戦を展開した。

オランダ国境から近いドイツ国防空軍基地からはメッサーシュミットBF109戦闘機の護衛の下、急降下爆撃機スツーカが出撃しオランダ軍の主要軍事施設を破壊した。

ファーレルの海軍基地からは快速を誇る装甲艦ドイッチュランドとアドミラル・シェーアが駆逐艦を従え出撃しオランダの海上封鎖を行った。


そして精強なドイツ戦車隊が国境を突破しアムステルダム、ロッテルダムを目指す。

ドイツ空軍の近接航空支援をうけつつオランダ軍陣地を次々に突破し、わずか5日でアムステルダムとロッテルダムの両都市を包囲した。

2年前のドイツ侵攻の痛手から立ち直っていないオランダはひとたまりもなかった。


そして降下猟兵師団が政府施設や王宮に降下し、政府首脳や王家の一族を拘束した。

今回は、さすがにヴィルヘルミナ女王は亡命する暇さえなかった。


わずか1週間でオランダは降伏した。

3カ国連合軍は欧州戦開戦後、わずか1カ月たらずで米英連合軍となってしまった。

フランスの方は開戦後速やかに防衛体制と取った。

ドーバー海峡を望む海岸地域に防衛陣地の構築を突貫工事で始めた。

すでにノルマンディやパドカレーにはナチスドイツによりある程度陣地の構築が成されていた。

フランス軍はそれをさらに強固にするべく努力した。

さらに生き残ったフランス海軍艦艇を英国軍の空襲から守るために急きょリヨン湾へ避難させた。

そこでフランス海軍艦艇はイタリアの協力を得て再び戦えるよう整備を受けた。


欧州戦開戦直後、フランス大統領ド・ゴールはドイツ首相ロンメルにフランスの空の守りを依頼した。

そのためにフランスにある各飛行場をドイツ空軍に提供した。

フランス空軍は未だ壊滅状態であり他に選択肢が無かったのだ。

フランス人としては心理的抵抗が大きかったが、エルゥイン・ロンメルという男への信頼がそれを押し切った。

フランス人は誠実な人柄のロンメルを信用に値する人物であると評価していたのである。


ロンメルはその信頼に見事答えた。

迅速にドイツ空軍をフランス防空に必要な分だけフランス領内の各飛行場に配備し、防空体制を整えた。

同時にフランス空軍の再建にも精一杯協力した。

ナチスドイツが行った蛮行の贖罪ということもあってドイツ人たちは誠実にフランス人に尽くしたのだ。

宣戦布告からわずか3日後にはドイツ空軍はフランス爆撃のために来襲した英国空軍機と空中戦を展開した。

バトル・オブ・ブリテンの攻守を逆にした形であった。

多少の被害は出たものの、ヨーロッパ最強と謳われたドイツ空軍は見事英国空軍を撃退した。

被撃墜率は1:8(ドイツ機1機を撃墜するために英国機が8機撃墜されたという意味)

最強の名に相応しい結果だった。


さらにロンメルはドイツ陸軍とドイツ海軍をフランス防衛のために回した。

ドーバー海峡に面するフランス海岸部はフランス陸軍とドイツ陸軍の合同部隊で強固な防衛ラインが速やかに構築された。



イタリアは地中海防衛と英国海軍がアジア方面に増援艦隊を送るのを少しでも妨害するためにスペイン・ポルトガルと協力してジブラルタル海峡封鎖を行った。

英国海軍にはスエズは決して使わせない。

イタリア軍は未来からの平和の使者を守るため、欧州大陸を守ために不退転の決意を固めたのだ。

また欧州同盟軍の生命線ともいえる中東からの石油の補給線の防衛に全精力を注いだ。

モロッコからイタリア国内にパイプラインを引き、そのための防衛にイタリア陸軍の半数以上の戦力を投入した。

またオイルタンカーの船団護衛には数多くの軽巡洋艦や駆逐艦部隊を投入した。


欧州大陸各国は協力しあって防衛体制と整えていった。


オランダ降伏の翌日の12月30日。

パリにおいて欧州同盟軍の合同作戦会議が開催された。

同盟軍の作戦全体の指揮は「砂漠の狐」と謳われたドイツ連邦共和国首相エルィン・ロンメルの腹心の部下であるファルケンファイン大将とその幕僚スタッフが執る事が決められた。

やはりロンメルの名声は絶大であったし、また戦力の中核はドイツ軍になるのは必至だったからである。


ファルケンファインは欧州各国の信頼に応えるべく全力を投入した。


ファルケンファインの戦略は「砂漠の狐」の愛弟子に相応しい巧妙かつ実直な彼らしい堅実なものであった。


基本的には欧州大陸を米英から守り通す。

そして英国の戦争遂行能力を低下させる、あるいは消滅させる。

この2点を柱にした。


前者については欧州大陸と欧州への物資補給線の防衛。

後者については潜水艦や水上艦艇による英国への通商破壊戦と軍事施設と工場地帯への空爆がその骨子となった。

ただし、市街地への被害は極力避ける。

人道的見地というのもさることながら限られた火力を非武装の市民の殺戮などという無駄であり無意味な事には使えないというのが理由だった。

しかし、ドイツ空軍の英国への爆撃は開戦当初は行われなかった。

ドイツ空軍はバトル・オブ・ブリテンの教訓をもとに戦略を練り直していた。

速度が速く、また航続距離の長い爆撃機と護衛戦闘機の数が揃うまではそれは手控えたのだ。

それまでは空軍には欧州の防空に専念させることにした。

慎重で堅実なファルケンハインは決して無理はしなかったのだ。


当面英国への攻撃の主力は潜水艦による通商破壊戦となった。

通商破壊戦には「海のロンメル」と称されるカール・デーニッツ海軍総司令官に一任された。

彼は潜水艦と水上艦隊によるゲリラ戦ともいうべき戦術を取り英国海軍を翻弄した。

また、彼はファルケンファイン欧州同盟軍総司令官の「省エネ戦略」も忠実に守った。


潜水艦や艦隊の作戦海域を英国本土周辺に限定し、密度の高い通商破壊戦網を作り上げた。

水上艦隊は機動性の高い小編成艦隊に分割し、ヒットアンドウエイを徹底させた。


ファルケンハイン総司令官はソ連の侵攻にも注意を払った。

米英との戦争のどさくさに東欧諸国に侵攻してくる危険があったからだ。

未来からのメッセージにはソ連の東欧侵攻が記されていたゆえに注意を払わざるを得ないのだ。

ロンメルもファルケンファインの危惧を受けて東欧諸国に軍事援助を行い防衛陣地構築に協力した。


欧州での戦いは当初は空海の戦いとなった。

米英は欧州大陸への上陸作戦には慎重だった。

島嶼への上陸作戦とは違い大陸への上陸作戦には膨大な物資と兵力が必要になる。

しかも改変前の歴史では敵は基本的にドイツ軍だけだったが今は欧州大陸全体が敵に回ったようなものである。

また米英国内の国民世論も微妙だった。

対日台戦争に関しては当初はある程度国民世論も納得していたが米太平洋艦隊、英国東洋艦隊壊滅という事実がそれを微妙なものにしていた。

欧州への戦争となるとさらに微妙だった。

無差別通商破壊戦については、国民世論は賛否両論だったのである。

また、英米が国際的孤立を深めているという事実も国民世論や国内政治状況をさらに微妙なものにしていた。


そして一番問題だったのが日台によってもたらされた「未来からのメッセージ」である。

その「メッセージ」にあった「ノルマンディ上陸作戦」には多大な犠牲があったと記されていたのだ。

ただでさえ対日台戦で将兵に大勢の犠牲者が出ているのに、さらに大きな犠牲を払わねばならないのか?

英米両政府はその事で国民を説得できる術を持たなかった。

何しろ欧州との戦争には「大義」というものが欠落しているからである。

無理に上陸戦を行えば政権がもたない。


結局米英は戦略爆撃で欧州各国を屈服させる道を選んだ。

「未来からのメッセージ」では日本は戦略爆撃で屈服したと記されていた。

一番の決め手となる原爆は開発の目途が全く立たない状況だが、欧州全体を焼き払えば屈服させることが出来るかも知れない。

米英はその一点に望みを託した。


米国は戦略爆撃機B-29「ストラトフォートレス」の量産に全力を注ぎ、英国への配備を急いだ。

1944年4月にはB-29の最初の飛行隊が英国本土に降り立った。

前の歴史では日本全土を焼き払った悪魔が、今度の歴史では欧州に魔の手を伸ばしたのである。


しかし、B-29はヨーロッパでは前の歴史の日本のようにはいかなかった。

ドイツには1944年4月の段階である程度まとまった数のジェット戦闘機メッサーシュミットMe262が配備されていたからだ。

ロンメルは太平洋での戦いを見てジェット戦闘機の配備を最優先事項としたのだ。


また高度1万Mまで届く88mm高射砲も多数配備されていた。


B-29の最初の爆撃はドイツの工業地帯を狙ったものだった。

しかし、それはジェット戦闘機Me262の迎撃を受けた。

その長距離航続力から護衛機がついてこられず、爆撃機のみで空襲にやってきた98機のB-29編隊に対しMe262は頭上からの55mm R4M ロケット弾と30mm機関砲による強烈な攻撃を叩きつけた。

ロケット弾の直撃を受けたB29は一撃で粉砕され、また30mm機関砲弾はその巨体を切り裂いた。


また地上からは88mm高射砲の弾幕が撃ち上げられた。

3機が高射砲の直撃を受け、2機が至近弾を受け墜落した。


この時は工場を確実に狙うために高度25000フィート(高度833m)を飛行していたためさらにはFw190やBf109の迎撃も受けた。


目標の工場地帯にある程度の被害は与えたがB-29編隊も30機撃墜され戦力の1/3を失ったのだ。

しかし被った損害に比べれば有効な戦果とは言えなかった。

確かに被害は出た。

しかし爆撃の命中精度が悪く、僅か爆弾16発が目標付近に命中したに過ぎなかったのである。


それでもアメリカはB-29による爆撃を続けたが損害が出るばかりであまり有効な戦果はあがらなかった。


1944年7月、戦略爆撃隊のヘイウッド・S・ハンセルは「消極的」と批判され、そして損害の責任を取らされ更迭となった。

後任として就任したのがカーチス・ルメイ少将であった。

彼は損害の大きい精密爆撃を止め、高高度からの市街地への無差別爆撃に切り替えた。

さらには護衛のP-51Dが付いて来られるフランス領内に攻撃を限定した。

彼はまず、欧州同盟の1国を切り崩す戦略に出たのだ。


このB-29の無差別爆撃によりドーバー海峡側のフランスの各都市には大きな被害が出た。

パリも焦土と化した。

しかし、ド・ゴールはあくまで徹底抗戦を叫んだ。

何しろ被害が護衛のP-51Dの行動半径に限定されていたからだ。

確かに痛手ではあるが継戦能力を損失するほどの被害ではないのだ。

B-29の無差別爆撃はフランスの戦意を衰えさせることは出来なかった。

欧州同盟軍が士気を維持できたのは欧州の空を守るドイツ空軍ジェット機部隊の存在が大きかった。

1944年8月以降ジェット戦闘機Me262の量産が本格化しただけでなく日本からの技術援助によりジェットエンジンも信頼性も安定性も、そして推力も格段に向上した。

さらには8月以降の生産分からは機首にレーダーまで装備している機体までもが登場した。


もはや護衛のP-51Dも、そして高度1万Mの高高度もB-29を守る盾にはならなかった。

P-51Dと共にB-29の損害もうなぎ昇りとなった。

いつしかドイツ空軍は「ヨーロッパの空の守護神」と呼ばれるようになった。


そして、一般市民を標的にした非道な攻撃は欧州各国国民の怒りをさらに燃え上がらせることになった。

無差別爆撃は欧州各国の米英連合軍への敵愾心を煽っただけでほとんど意味がなかった。

さらには米英国民世論からすら批判が相次いだ。

有色人種ではなく白色人種への殺戮は、やはり英米国民は納得がいかなかったのだ。

さらには欧州からの移民の国であるアメリカ人達にとって欧州は故郷でもあるのだ。


そして英米の国際的孤立をさらに深める事となった。

米英にとっての不幸はそれだけではなかった。

頼みの綱である英国製ジェット戦闘機グロスターミーティアは航続距離が965kmしかなくB-29爆撃隊の護衛など、とても不可能だったのだ。

結局、米英は1944年1月に初飛行した航続距離2000km以上を誇る最新鋭ジェット戦闘機F-80シューティングスターの配備を待つことにし、1944年12月にB-29による戦略爆撃を一時中断した。

そして世論の圧力によって無差別爆撃も禁止となった。

米英は被害の大きい精密爆撃を行うしか選択肢がなくなった。

しかし米英の爆撃再開の道はかなり険しいものとなった。


太平洋戦線での太平洋艦隊壊滅と、それまでの欧州戦線での損害の大きさが米英両国の議会で問題視され、さらにはB-29とF-80の量産と、対日戦争用のジェット艦載機F-9Fパンサーの急ピッチな開発に加え太平洋艦隊の再建には多くの予算が必要で議会工作にかなり手間取った。

さらに戦争継続そのものも疑問視され始めたので両国政府はかなり立場が苦しくなった。

挙国一致体制とは程遠い状況では思うようにはいかない。

そのためB-29、F-80量産予算もかなり削減され英米の反撃準備にはかなり時間を要するようになってしまった。

結局、米英の欧州爆撃再開は1946年まで待つことになった。


しかし、英国の状況も日に日に悪化していた。

ドイツ海軍潜水艦部隊による通商破壊戦は確実に英国を追い詰めていた。

「海のロンメル」と称されるデーニッツの作戦は巧みだった。

潜水艦部隊は神出鬼没に暴れまわり英国に向かう輸送船を次々に沈めていった。

またドイツは開戦以来潜水艦隊の増強に努めたためドイツ潜水艦の数は増える一方だった。

さらには1943年3月からはフランス海軍の水上戦闘艦までもが通商破壊戦に加わった。

デーニッツは潜水艦の天敵である駆逐艦部隊をドイツ海軍水上艦隊とフランス海軍艦艇に攻撃させ、その隙に輸送船を雷撃した。

そしてこれらはデーニッツの命令である、ヒットアンドアウェイを徹底していた。

一撃を加えるとそれらの攻撃部隊は速やかに撤退していった。

海上と海中の連携攻撃によって欧州同盟軍は少しずつ、しかし確実に戦果をあげていった。

英国海軍はそれに必死に対応したが被害は増える一方だった。

英国の生産力は徐々に衰えていった。


今のところドイツ空軍による英国爆撃は行われていない。

しかし、これで爆撃が再開されたら英国はどうなるか判らなかった。

はたして爆撃再開まで英国が持ちこたえる事ができるのか…

それはこの時点では誰にも判らなかった。


その一方

欧州同盟軍は日本からの通信衛星を介して伝えられた衛星写真を受け取るようになっていた。

欧州同盟軍はアメリカのF-80の存在を察知していた。

しかも日本からの「未来情報」によりF-80の正確なスペックも把握していた。

Ta183フッケバインは1944年1月に初飛行したF-80を仮想敵として最初から作られていた。

B-29の戦略爆撃が中断した1944年12月にフッケバインの量産が始まった。















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[気になる点] オランダ本国は既に占領……ああ、撤退したから再占領したのか。
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