米英講和合意1946年6月1日
米英講和合意1946年6月1日
南太平洋で太平洋艦隊のほとんどを失い、そして航空機部隊も壊滅してしまったアメリカ合衆国政府は窮地に追い込まれていた。
またガタルカナル、サンタクルーズに上陸し孤立状態にある海兵隊は事実上日本軍の人質になっていた。
そういう状況であるがゆえに米国内での反戦デモは拡大の一歩を辿り、議会でも対日戦争継続に批判が続出していた。
あろうことか共和党内の一部議員も民主党と共に「大統領弾劾」にむけて動き出していた。
英国も度重なる通商破壊戦と欧州同盟軍による工場や石油精製所や石油タンクなどへの爆撃により徐々に資源が困窮しはじめていた。
特に食糧不足が深刻化しつつあり国民の政府への不満は最高潮に達しようとしていた。
米英とも既に戦争継続どころではなかった。
もはや政権維持すら難しくなってきていたのだ。
5月20日
中立国スイスを通じて日本国総理大臣桜木健一郎と台湾総督李美豊の名で米英政府に講和が呼び掛けられた。
講和の条件は
1・アメリカ合衆国と大英帝国は日本・台湾をはじめとするアジア連合諸国と欧州同盟との戦闘を停止する事。
2・アメリカ合衆国と大英帝国はアジア・アフリカ諸国の独立を承認する事。
3・アメリカ合衆国と大英帝国は日本・台湾がアジア・オセアニアそしてヨーロッパ諸国との通商を行うことを認めること。
4・アメリカ合衆国と大英帝国は戦争の被害を受けた欧州各国に相応の賠償を行うこと。
5・アメリカ合衆国と大英帝国は無差別通商破壊で撃沈した船舶乗組員遺族並びに船会社に損害賠償を支払う事。
以下の条件にアメリカ合衆国と大英帝国が合意した場合、アジア連合もアメリカ合衆国と大英帝国に対する戦闘行為を一切停止する。
そしてガタルカナルをはじめとするソロモン諸島に孤立している米国海兵隊員の無事帰国を認める。
また両国政府には政府の退陣そして領土の割譲等は一切求めない。
日本、台湾をはじめとするアジア連合諸国が望むのは平和だけである。
以上の文面が米英政府に届けられた。
事実上の降伏勧告である。
しかしその内容は「戦争さえ止めてくれれば賠償金の他は一切求めない。」というものであり、日本台湾自身の要求に至っては「戦闘の停止」と「犠牲になった民間船乗員及び船会社への賠償のみ」という事実上の「国家としての戦時賠償の放棄」に等しいものだった。
日本台湾からの送られた講和条件は米英のマスコミが一斉に報じ、両国世論は講和条約締結を政府に強く求めた。
もはや米英政府に日台の講和勧告をはねのける力は無かった。
そして1946年6月2日、合衆国大統領ハリー・トルーマンと大英帝国首相ウィストン・チャーチルは日台両政府の講和条件を全て受諾すると発表した。
1946年6月15日
アラスカにおいて日台をはじめとするにアジア連合及び欧州同盟と米英との講和協定が成立。
またアジアと欧州諸国と米英との通商再開もこの場で決定された。
ただし、「21世紀の軍事技術提供」に関しては日台及びアジア諸国の国民世論の反発もあったため米英の賠償の完了まで見送る事となった。
とりあえず太平洋での戦火は収まった。
しかしヨーロッパはソビエト連邦の侵略を受け戦闘は続いている。
アジアも満州国がソ連中国の「共産党枢軸」によって国土の60%以上を占領されている状態である。
そしてベトナム、ビルマ、チベットにも中国軍が侵攻し激しい戦闘が今なお続いている。
中央アジアの東トルキスタン共和国に至っては中国共産党軍により武力により併合され「ウイグル自治区」と名前を変えられた。
アジア連合と欧州同盟はソ連と中国という脅威に共に連携して対抗するために体制を整え始めた。
NGFと台湾海軍はトラック島で補給整備と乗員の休息を終えた後にそれぞれ極東方面に移動し作戦行動を開始した。
NGF第3艦隊は東朝鮮湾に移動し韓国領雄基から南陽、延吉までのエリアの防衛を支援する事となった。
そしてNGF第2艦隊は遼東湾に移動し営口から奉天までのエリアの防衛を支援する。
特にNGFの戦艦部隊は艦砲射撃によって海岸沿いからのソ連中国共産党枢軸の侵攻を撃破する事が求められていた。
さらに太平洋各地に展開していた航空自衛隊と台湾空軍の航空機部隊も次々に満州及びベトナム方面防衛のため各防衛拠点に移動していった。
満州方面ではそれら航空部隊のために西安、吉林、粒法に航空基地があらかじめ建設してあった。
満州方面防衛軍はこうして航空戦力を増強していった。
またオーストラリア、ニュージーランドも満州そしてベトナム方面防衛のため軍を派遣した。
これにより陸上戦力も強化されていった。
アジア方面の反攻作戦の準備は着々と整いつつあった。
同時にアジアとヨーロッパとの通商も再開された。
またドイツにおいてジェット機が実用化されジェット燃料の生産も始まった事で日台ドイツ間の航空航路が開設された。
1944年5月に日本からドイツに向かったジャンボジェットもドイツで製造されたジェット燃料の給油を受け2年ぶりに日本に帰国した。
空と海とのアジアヨーロッパ間の交通路の安全が保障されたことにより物資の供給と技術支援が活発化された。
特に日台からは対空対地ミサイルの設計図と実物がドイツの技術者に手渡された。
ドイツの技術者はそれらを解析し、国産ミサイル製造に向け動き出した。
欧州においても日台の支援によりソ連に対する反抗準備が着々と進められた。