インターミッション・アジア1945年6月~
インターミッション・アジア1945年6月~
日本と台湾が米英の反攻に気を取られているうちにヨシフ・スターリンは極東方面軍に満州国境に移動するよう命じた。
目的は満州共和国の征服である。
さらに不凍港の確保の名目で東方イスラエル共和国領土である択捉島攻略すらも目論んでいた。
対独戦争の痛手から立ち直ったスターリンは世界共産化の野望実現に向かって再び行動を開始したのである。
歴史通り、スターリンは1945年4月には、1941年に締結された5年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めないことを、日本政府に通告した
中立破棄宣言後は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。
その後、太平洋とアラビヤ海での英米の反攻作戦に乗じて一気に満州と北方4島に侵攻する腹積もりだった。
そんなスターリンの狙いなど日本側はとうに読んでいた。
タイムスリップした1942年より満州ではソ連侵攻に備え防御態勢を整えていた。
満州に展開していた旧陸軍航空隊も航空自衛隊に編入され、配備されていた1式戦闘機隼も近代化改修を受け、エンジンのターボ化、主翼のカーボンコンポジット化、ミサイル運用能力付与などで戦闘力をアップさせていた。
さらに1943年より生産が開始されたジェット戦闘機雷鳴改も1944年から満州空軍に配備が始まった。
また、タイなどと同様に満州でも三菱重工から設計図を譲渡され60式自走106mm無反動砲の生産が始まった。
同時に台湾より同陸軍より退いたM41D軽戦車200両が満州共和国陸軍に供与された。
満州共和国陸軍自体もタイムスリップによって帰る家を失った旧関東軍兵士達の多くが満州国籍を取得し改めて満州共和国軍に入隊するケースが非常に多かったため戦力的にも充実していた。
旧陸軍航空隊の爆撃機部隊にいたっては平成日本自衛隊では居場所がないと見切りをつけて部隊ごと満州共和国軍に参加した。
旧関東軍も希望除隊者が半数以上出て公称50万人から20万人前後に減少したものの平成の陸上自衛隊普通科の装備が与えられ戦闘力は逆にアップしていた。
とにもかくにも満州共和国軍と陸上自衛隊中央即応集団に編入された旧関東軍を合わせ30万人の戦力がソ連軍侵攻に備えていたのである。
1945年7月
情報収集衛星が、シベリヤ鉄道で東に大量に移動するソ連軍の姿を捉えた。
歴史通りソ連の満州侵攻が起きる事を察知した日本はただちに満州に陸海自衛隊の援軍を送った。
ソ連の満州侵攻を許せば先の歴史通りドミノ赤化現象が起きアジアの不安定化がもたらされるからだ。
なによりもあの「北朝鮮」のような異常な国家が日本近辺に出来るのはありがたいことではない。
満州の主要拠点には陸自の戦車部隊や特科部隊が派遣され、奉天飛行場などの満州の各空軍基地には空自の戦闘機部隊が進出した。
また、極東ソ連艦隊による東方イスラエル共和国侵攻に備えNGFは大湊の第17護衛隊も択捉島に進出させた。
東方イスラエル共和国も建国以来軍隊の育成に励み、どうにか防衛体制をとれるようになっていた。
四方を海に囲まれている島国ゆえに空海軍の育成に力が注がれた。
当初は日本より零戦や隼を供与され発足したイスラエル空軍だったが、1943年暮れよりジェット戦闘機雷鳴改の配備も始まった。
1946年初頭には2個戦闘機部隊を擁するようになっていた。
イスラエル海軍は沿岸防衛を主眼とし、ミサイル艇・哨戒艇等の小型艦艇を中心に整備された。
1946年1月には10隻のミサイル艇と5隻の哨戒艇を保有していた。
それらも国土防衛のため迎撃態勢と整えた。
その一方、中国では1945年8月に国共内戦が終結した。
アメリカの援蒋ルートが完全に断たれ、国民党軍は総崩れになった。
元々腐敗しきった軍隊で士気も低く、またアメリカの援助も半分以上は蒋介石一族が私腹を肥やして横領していたため戦力も装備も大したことは無かったためである。
そして敗退した蒋介石の国民党軍は前の歴史の通り台湾に落ちのびた。
しかし、前の歴史と違い、この世界での台湾は21世紀の兵器で武装した日本に次ぐアジアの軍事強国である。
馬祖島、金門島に逃げ込んできた蒋介石軍は台湾軍によって次々に武装解除され、馬祖列島の南竿、北竿、東莒、西莒、東引、亮島、高登、大坵、小坵などの職業訓練及び教育施設に送られた。
台湾の人々は蒋介石の抑圧的な統治と人権侵害を決して忘れてなかった。
蒋介石は台湾に受け入れを拒否されフィリピン領のバタン諸島の小島に保護の名目で事実上幽閉された。
統一を果たした毛沢東の共産党軍は中華人民共和国を成立させた。
毛沢東は日本に戦後賠償を要求する一方でソ連のスターリンと遼東半島を含む満州の西半分を中国が得て、ソ連は東半分と朝鮮半島を得るという条件でソ連と共同で満州に攻め込むという密約を結んだ。
毛沢東もまた、スターリンから膨大な軍事援助を得て、アジア赤化統一の野望を抱いた。
1946年初頭。
中国共産軍は満州、チベット、ベトナムの国境地帯に軍を進めた。
満州方面は奏皇島に中国人民解放軍北京軍区第24集団軍
双遼に38集団軍
チベット方面には限定に成都軍区第14集団軍
ベトナム方面には南寧に中国人民解放軍済南軍区の第26、第54集団軍がそれぞれ侵攻準備を整えていた。
日本の情報収集衛星により、いち早くその動きを察知したアジア連合軍はそれに対し迎撃態勢を取った。
満州方面は日本、満州。
ベトナム方面は台湾、ベトナム、タイ、ラオスの合同部隊が防衛にあたる事になった。
問題はチベット方面だった。
このまま中国共産軍の侵攻を許せば前の歴史通りに中国共産党による「民族浄化」がチベットで引き起こされる事になる。
これは絶対阻止したい。
アジア連合軍はインド共和国ダージリンに陸上自衛隊西部方面ヘリコプター隊第1飛行隊(V-22オプスレイ)を進出させ、第4師団第4施設隊を大量の鉄板とブルドーザーと共にチベットのラガセに空輸した。
第4施設隊は臨時の飛行場を建設し、航空自衛隊のC-2輸送機が離発着出来るようにした。
C-2は燃料補給車や航空機の整備機材、そして百里基地の移動管制隊の車載式の移動式ラプコン装置、移動式管制塔、移動式タカン装置などを空輸し、ラガセの臨時飛行場を航空基地としての体制を整えさせた。
完成したラガセ飛行場にはマレーシア空軍第1戦闘飛行隊のスゥーンクと第1攻撃飛行隊の99式艦爆が派遣された。
そしてビルマ陸軍第3師団も空輸されチベット防衛の任についた。