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インターミッション1943年12月~1944年1月 連合軍反攻への防衛体制構築。

インターミッション1943年12月~1944年1月

連合軍反攻への防衛体制構築。


1943年11月20日

情報収集衛星がアメリカサンディエゴ・サンフランシスコにアメリカ海軍艦艇が大量に集結しているのを確認した。

同時にインド方面でもビルマ国境に近いダッカ・チッタゴンに英国軍部隊が集結しつつあるのを確認した。


これら事実は連合軍の反攻作戦が近い事を示していた。

アジア連合は防衛戦略を策定し迎撃態勢の構築を急いだ。


太平洋方面は、北はマーカス島・マーシャル諸島のラインに。

そして南はトラック諸島そしてインドネシア領であるニューギニア島西部のラインに防衛線を設定し、艦隊の配備と防御陣地構築を図った。


特にマーシャル諸島は最初に攻撃に晒される危険が大きいためNGFの主力を防衛に当てる事となる。

そしてマーシャル諸島のメジット環礁に潜水艦隊基地を建設した。

環礁の浅瀬に半水没式の基地を作り潜水艦によるゲリラ戦により米海軍を攻撃するという戦略を立てた。

そしてエニウェトク・クエゼリン島にも航空部隊と守備隊を進出させた。


そしてトラック諸島ニューギニア西部のラインの海上防衛は台湾海軍とフィリピン海軍が合同で防衛にあたる。


トラック島にも航空部隊を展開し防空・洋上阻止を行うために第8飛行隊(ACHILLES、F/A-18E・T-4) を展開した。


ニューギニア島西部とビアク島には陸自中央即応集団第1軍114師団(旧北支派遣軍)に加えフィリピン陸軍と新編成されたインドネシア陸軍がその防衛を担当する。

さらに台湾空軍第1 (443) 戦術戦闘機連隊第1大隊 - IDF雄鷹×3個中隊を展開した。


またマーシャ諸島ブルワット島にも潜水艦基地を作り米国艦隊の輸送船団攻撃を行う。


同時に米軍が行うであろう通商破壊戦に対抗するため船団護衛の体制を強化した。

船団護衛には海自12~17護衛隊が行う。


ビルマ防衛はアキャプ・マンダレーに防衛線を構築する。

アキャプにはタイ王国陸海軍とビルマ国軍が、そして陸自中央即応集団第15軍第115師団(旧北支派遣軍)展開する。

ヤンゴン(旧ラングーン)基地には日本海軍航空隊とタイ王国航空隊が展開。

マンダレーには陸自第1空挺師団と第31普通科連隊に加え台湾陸軍第42装甲旅団を配備した。


同時に台湾空軍第455戦術戦闘機連隊第4大隊 - F-16×3個中隊がバンコク基地からマンダレーに前進配備された。


その一方で日本海軍航空隊と陸軍航空隊のジェット戦闘機AF-3A雷鳴改への機種転換を急ぐ。

特にNGF空母群艦載機とトラック基地所属の零戦隊は最優先で機種転換されていった。


AF-3A雷鳴改は日本の三菱重工、川崎重工でライセンス生産されている他、台湾の国営航空企業AIDC(Aerospace Industrial Development Corpration)にて生産された。

日本側ではNGF艦載機群への引き渡し分が生産され、台湾側ではその他の国々への配備分が生産された。

生産自体は日台米交渉が行詰りを見せていた1942年6月より製造計画がスタートし、1942年7月に1号機が初飛行。

そして開戦後に製造ラインが動き出した、

1943年11月までには日本ではNGF艦載機向けの220機が、台湾では陸上基地向けの150機がロールアウトしていた。


さらに、台湾は退役しモスボール保管されていたF-5EタイガーⅡE型242機とF型66機の現役復帰のための改修を始めた。

改修され現役復帰したタイガーⅡは空虎と名付けられ日本の旧海軍航空隊や陸軍航空隊に売却された。

空虎の方も1943年末には改修が終了し、順次日本側に引き渡されていった。


またタイ王国においては開戦前に富士重工に残っていた四式戦闘機「疾風」の設計図が同国に譲渡され、富士重工指導の下、製造工場が建設された。

1942年暮れには工場が稼働し、タイ王国製造の「疾風」(タイ王国名theeph-nk)の生産が始まった。

1943年11月までには300機が完成し、その後の生産分はアジア連合諸国にも輸出された。


1944年2月になる頃には雷鳴改と機種転換を完了した部隊の零戦21型改や余剰となった99式艦爆や97式艦攻がアジア連合各国に引き渡されていった。


また連合軍反攻の矢面に立つのはビルマ共和国も同様であることからビルマ国軍の近代化も急ピッチで進められた。


歩兵携行用対戦車・対空ミサイルやMINIMI重機関銃、そしてM-16マシンガンライフルを全将兵に行き渡るようにし、また国軍の移動用車両には日本や台湾から大量の中古RV車やトラックが供与され自動車化が急がれた。


こうしてアジア連合は連合軍の反攻に対する防衛体制を整えていった。


1944年3月

ダッカ・チッタゴンの連合軍に変化が見られた。

英国軍将兵たちは防御用陣地の構築を始めたのだ。

また情報収集衛星は東海岸に向かう米海軍の戦艦・重巡洋艦と空母群を確認した。

また東海岸には軍需物資が集積され輸送船も大量に終結していた。


連合軍はドイツ・フランス・イタリアとの戦いに手を焼き、苦戦が続いていたのだ。

21世紀の技術を持つ日台より、同じ時代の国家であるこれら大陸ヨーロッパ諸国を屈服させるのが先だ…と米英連合軍は考えたらしい。


さらにアメリカの空軍基地ではジェット機と思われる機体が確認された。

日台空軍に対抗するためジェットの実用化を急いでいるらしい。


艦載機のいない空母はサンディエゴ、サンフランシスコ沖で艦隊運動訓練を行っているだけで艦載機の発艦訓練は一切行われていない。


また米国の港のいたるところで改修工事を受けている米艦船の姿があった。

分析によると対空銃座や対空砲を増設していると見られた。


アジア連合軍合同司令部では連合軍の反攻は1945年春以降と分析し、防衛戦略を再構築した。

NGFは旧日本海軍の伊号、呂号潜水艦隊の近代化改装を開始した。

まず伊号級の潜水艦に大幅な改装が行われた。

元の船体にもうひとつ船殻を被せる2重船殻構造にし、潜航深度を従来の100mから250mにアップし、さらに機関も海自潜水艦艦隊標準機関であるAIPに換装された。

ソナーも21世紀の最新式に変えられ探知能力を飛躍的に向上させ、さらにSUBハープンの発射能力を持たせた。


呂号潜の方は無人潜水艇のプラットフォームに改造された。

有線操縦で母船から離れた場所から必殺の誘導魚雷を放ち目標を撃沈するという攻撃システムが組み込まれた。

これにより呂号潜の生還率をアップするのが目的であった。


各潜水艦は1944年5月より改装工事を受け、翌年の1945年1月には全潜水艦が改装を終え任務に復帰した。


マンダレー基地では第1空挺師団と第31普通科連隊が第32普通科連隊と74式戦車に装備改変した中央即応集団第15軍第3戦車師団と交代。

また台湾陸軍も第8軍団の第71空挺旅団が第42装甲旅団と交代した。

またハノイ・サイゴン両基地所属だった零戦パイロット達が雷鳴改に機種転換し、マンダレー基地に配備された。

第4対戦車ヘリコプター隊は99式艦爆を譲渡されたタイ空軍の第一攻撃飛行隊と交代した。


アキャプの方も先のビルマ解放作戦に参加した部隊は後方に下がり、新たな部隊と交代。

戦闘参加していない陸自中央即応集団第15軍第115師団(旧北支派遣軍)はそのまま残留した。


その他のアジア連合諸国も防衛力整備に力を入れた。

タイ王国海軍とフィリピン海軍は全艦艇を21世紀の技術で近代化改装し、ミサイル運用ができるよう改装された。

そしてフィリピン・ベトナム・タイでは三菱重工から設計図を譲渡され60式自走106mm無反動砲の生産が始まった。

これなら1940年代の技術でもそれほど無理なく製造でき、なおかつ安価であるという理由で、アジア各国で生産が始まった。

また同時にトラックやジープといった車両の生産も開始された。

日本の各自動車メーカーが現地に工場を建設し生産を始めたのである。

現状では軍事用車両が優先されているが、戦争終了後はいつでも民生用に簡単に移行できるよう体制を整えた。

現地で使いやすい電気自動車も設計が開始され、軍需の方が片付いたらいつでも生産に入れるように準備が入念になされたのである。

1944年7月には再構築された防衛体制が整えられた。


それと合わせヨーロッパの同盟国軍への援助が検討された。

いかんせん距離が遠すぎるので兵力の派遣は無理であるが技術情報の供与ならできる。

特にジェット機の配備を始めているドイツにはジェットエンジンの技術情報は何より有益であると考えられた。

ジェット技術の他にも1940年代の技術で直ぐに使えるレベルのレーダーやソナー技術も提供することになった。

しかし海路は米英の連合軍による通商破壊戦が行われているため危険が大きいし、なにより時間がかかりすぎる。

日台で協議した結果、民間航空会社の貨物機を買い上げてドイツにジェットエンジンやレーダーやソナーの見本と設計図等を輸送することが決定された。

ただ、現地ではジェット燃料は手に入らないので貨物機は片道切符となる。

パイロットや技術者も戦争が終わるまでは帰れない。

しかし日台の旅客機パイロットが志願し、また三菱やNECそして日立のエンジニアら電子機器メーカーの技術者もこの任務に志願した。

1944年4月

日台政府はドイツ政府に大型ジェット輸送機が着陸できるよう国内のどれかの空港の滑走路を延長するよう依頼した。

ドイツ連邦共和国首相エルゥイン・ロンメルは快諾し、ベルリン空港の滑走路延長工事を突貫作業で行った。

工事は3週間で終了し、ロンメル首相はその旨を日本政府に伝えた。


1944年5月20日早朝

成田空港よりジェットエンジン、ソナー、そしてレーダーの実物見本とそれらに使われる補機類、そして設計図を詰め込んだ2機のB747-8Fが離陸した。

B747-8F貨物機は高度をソ連軍戦闘機が上がってこられない高度2万メートル以上に上昇。

北極圏航路を通り一路ドイツを目指した。

そしてフィンランド上空を通りドイツ領空内に入った。

ポーランド上空からドイツ空軍のMe262がエスコートし貨物機は無事ベルリン空港に到着した。

日本から到着したジェットエンジンやレーダーにソナーはドイツ人技術者の手で解析され順次実戦配備されていった。


ユンカース社は日本から得られた技術情報を元に現行のJUMO004エンジンを改良し、安定した高推力を発揮するJUMO005エンジンを作り上げた。

エンジンが完成したことにより、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262「シュワルベ」は本格的な量産体制に入った。

ロンメルはヒトラーとは違って「シュワルベ」を「爆撃機にしろ!!」などと馬鹿なことは言いださなかった。

シュワルベは生粋の制空戦闘機として生産された。

補助的な役割として若干の爆撃能力は付与されたが、「シュワルベ」は基本的には「制空戦闘機」として世に送り出された。


さらにはジェット爆撃機アラド Ar234B-2 も量産体制にはいった。


ハインケル社の方ではBMW社やユンカース社のターボジェットをはるかに上回る高出力ジェットエンジンであるHeS001を開発中だった。

それも日本からもたらされた未来からの技術情報で一気に開発が進み1944年9月には開発が終了し、かねてよりフォッケウルフ社が開発を進めていた新型小型高機動戦闘機Ta183「フッケバイン」に搭載された。

エンジンが完成していたので初飛行までの時間は短かった。

またロンメル首相もこの小型戦闘機に強い関心を示していて最優先開発機種に指定し、多くのリソースがフッケバインに投入された。

またロンメル首相はこのフッケバインを艦載機として使えないかとフォッケウルフ社に訊ねた。

フォッケウルフ社は「この小型軽量機ならば艦載機として使用は可能。」と太鼓判を押した。

そして「艦載型フッケバイン」も同時進行で開発が進められた。

そして1944年10月

Ta183「フッケバイン」初飛行。

その翌月には艦載型であるTa183Nが初飛行した。

1944年暮れより「フッケバイン」は量産体制に入った。

その一方で日本はヨーロッパ、特にドイツとの連絡を密にするために新たに通信衛星を種子島より打ち上げた。

設計図やエンジンと共に日本からドイツに持ち込まれた衛星通信アンテナとデジタル通信機器とパソコンにより1944年秋以降は日本とドイツはほぼリアルタイムで技術情報を交換できるようになっていた。


この衛星通信アンテナは最も堅固な旧ナチス総統別荘「ベルヒスガーデン」に設置されドイツの最重要防衛対象とされた。



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