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愛煙譚  作者: 麓城結社
9/13

外伝 下

 目を開けると目の前が白かった。これはおれの家じゃない。

「少年、起きた?」

 声のする方を見るとちいさなちゃぶ台に肘をつき、大きなマグカップを手で包み込みながら飲んでいる薄着の女がいた。部屋中にコーヒーの匂いが漂っている。ちゃぶ台と本棚、最小限のものだけが置かれた部屋でハンガーラックに掛けられた安っぽい色合いのドレスが妙に浮いていた。

「スイウさん……」

「よく寝てたね。年取るとそんな眠れなくなるのよ」

「今何時ですか?」

「夜の8時」

「えっ……」

 ほぼ1日寝ていたのか。1日が消えていったことに空恐ろしくなる。

「二日酔いは治った?」

 言われてみればムカつきも頭痛もきれいさっぱり消え去っていた。

「その顔は治ったみたいだね。なんか食べる?」

 返事をするより早く腹が鳴った。スイウさんはからから笑いながら立ち上がりキッチンへ向かった。おれが夢と現実を彷徨っているに飯、肉、サラダが目の前に並んでいた。

「すげえ」

「作り置きだから大したものじゃないけど。召し上がれ」

 一口食べると、食物を求めて腹の虫が騒ぎ出す。無我夢中で食らいついていた。気付けは皿が空っぽだった。

「いい食べっぷりね。見てるだけでお腹が膨れるわ」

 呆れた声で言われたところで全く気にならない。久しぶりの充足感に満たされる。同時に寝る前の記憶が襲ってくる。恥ずかしき醜態、諸々を水と一緒に飲み込む。

「スイウさん、おれ……、ここに住んでもいいんですか?」

「住みたいの?」

 スイウさんはにやにやと俺を眺める。おれは思わず目を逸らしてしまう。しばらく眺められていたが、じきに視線が消えた。

「まああたしはどっちでもいいの。好きにしたらいいわ。過度な干渉だけはやめてね」

 部屋の隅に置いてあるこじんまりしたベッドに体をうずめるとコーヒーを飲みながら本を読み始めた。


 それからおれとスイウさんの奇妙な共同生活が始まった。スイウさんはおれが居ようが居まいがお構いなしだった。徐々におれもそのペースに慣れ、母さんと暮らしていた時の様に家事をやるようになった。おれの姿を見てスイウさんは、目を丸くして「良い男の子を拾っちゃたわ」と笑った。

スイウさんの生活リズムは母さんと似たようなものだったので馴染むのに時間はかからなかった。母さんと違いは、スイウさんはどんなに遅く帰ってきても、シャワーを浴び自分の体がやっと入るようなベッドに潜り込むこと。そして日が高くなるころに目を覚まし、猫の様に大きく一つ伸びをした。おれはおれでバイトや学校、その他諸々、好き勝手にしていた。大して噛み合わない生活だが生活の匂いのする家はおれの苛立ちを吸収していった。


その日、おれは深夜回って帰ってきた。いつもベッドで寝ているスイウさんが机に突っ伏していた。身に着けているてらてらと光る赤いドレスが白い部屋の中では異物に見える。机の端にはグラスに入った琥珀色の液体。

「お帰り」

 そう言って俺を見る顔は強すぎる光の中でだけ映える顔。

「ただいま」

 冷蔵庫から飯を取り出し、机の端で食べ始めると、やけに視線を感じた。

「……、何ですか」

「なんでも。少年は今日何してたの?」

「別に」

「なんでこんな遅いの?」

「スイウさん、どうしたんですか?」

 こんなにおれを気にするなんて初めてだ。

「ううん、なんでもない」

 皿洗いをしてシャワーを浴びて出てきてもスイウさんは同じ姿勢でいた。

「風呂は入んないですか?」

「入るよ」

 ふらりと立ち上がる。そして俺の後ろに回り込んだ。

「……、何してるんですか」

「なんにも」

 背中に人の熱、化粧と汗の混ざった匂いが鼻孔を擽る。首筋に埋められた顔、柔らかな感触が押し付けられる。

「ちょっとだけ」

「何かあったんですか」

「ううん」

「動いてもいいですか」

「だめ」

「そういうことはしないんじゃなかったですか」

「なーんにもしてないからセーフ。大人もね、寂しくなる時があるんだよ」

「なんかして欲しいんですか」

「ううん。ただ、こうしていて」

 ギリギリ聞き取れるくらいの微かな声。おれの声だけがやけに部屋に響く。

「おれはこのままでいろと?」

「うん。あっ、ウィスキーは飲んでもいいよ」

 手を伸ばしてウィスキーのグラスを取る。ちっぽけなちゃぶ台、手を伸ばせば端から端まで優に手が届く。液体はクスリみたいに不味くて喉を焼いた。何故こんなものを好んで飲むのか正気が知れない。手持無沙汰でおれはただ液体を流しこむ。ああ不味い。


 朝になるとスイウさんは居なかった。夜に戻ってきたときには何事もなかったよう、いつもの姿に戻っていた。おれは何も言えず、只々いつもの噛み合わぬ日常に戻った。


 生活はただそこに在り、続いていく。お互い干渉し過ぎず、過ぎていく日々。ただ、時折、スイウさんは何をするでもなくおれに抱き着いてくるようになった。その度おれはまずいウィスキーを流し込む。


「ねえ少年は英語できる?」

「多少は」

「じゃあこれ読める?」

 手渡されたのは黒革張りの本だった。開いてみると英文が並んでいた。

「調べながら読んでいるんだけど、全然しっくりこないの。読んでくれない?」

 それは砂糖を入れすぎたチョコレートみたいに甘ったるい詩だった。口に出すだけで塩っ辛いものが欲しくなる。

「なんなんですか、これ」

「どっか遠い国の売れない詩人か書いたうた」

「なんでそんなの持ってるんですか」

「一番思い入れのあるもの頂戴って言ったらこれくれたの」

「厄介払いしたんじゃないの」

「同族の哀憐って言ってたよ。それにあの人はよくこの本眺めていたし」

 歌うように話すスイウさんはどこかの遠い国の純情な少女の様だった。

「その人は今何してるんですか?」

「なにしてるんだろうね。あたしのまえからふっといなくなった。蝋燭の火が消えるみたいにね。ねえ続き読んで」

 なにもかも甘ったるい。ああ喉が渇く。


「それ以上したら後悔するよ」

「そっちがずっとやってきたんだろ」

「うん。あたしが甘えからやってきたこと。君はあたしよりガタイがいいし腕力もあるから敵わない。だからあたしは君の理性に訴えかけて止めることしかできないよ」

「何を今さら」

「そうだね。ごめんね」

「勝手に頭撫でるな」

「ごめんね」

「だから……、もう」

「きみがやりたいならやればいいよ。でも、それと引き換えにこの曖昧で温い関係とさよならすることになる」

「そっちは好き勝手やっていたのに」

「大人はずるくて女は性悪なんだよ。薄氷を踏むような関係を愉しんでいたんだから。君も薄々気付いていただろう? あたしがしょうもないことなんて」

「知らない」

「そう。でもね、デリク、君は私と違ってとても賢いしセンスがあるよ」

「どこが」

「人との距離の取り方、舌にのせる言葉。いままでいろんな人間を相手にしてきたんだろうね。見るべき点を押さえている。体格も恵まれているし、顔は良いし、君はきっと将来大物になる」

「何言ってんだよ」

「女の戯言だと思ってくれればいいよ。デリクはね、このくそったれた街を出て小洒落た街で一角に人間にも、煙ったいこの街で上り詰めることもできると思うんだ」

「……」

「自信を持ちな」

「スイウはおれにどうなってほしい?」

「あたし? デリクなら何者にもなれると思うけど、この街で上り詰めてほしいな。あたしはお行儀のよい話より泥臭い話の方が好き。それに煙の上の世界が見られるなんて、どっかの幸せなお話しみたいで浪漫があるじゃない」

「……」

「なんで泣いてるの。駄目だよ、そんなの。可愛がってあげたくなっちゃうじゃない」


 ああ頭が重い。起き上がるとベッドの上はもぬけの殻だった。シャワーを浴びて飯を食べると倦怠感が襲ってきた。人との約束まで時間がある。暇つぶしにと本棚から適当に本を抜く。ふと違和感があった。本棚を二度見する。本棚の隅に存在感をもっていた黒革張りの本がない。引っかかりながらもだらだら本を眺め、家を出た。


 帰ると家が燃えていた。ちっぽけなアパートは無残な姿になり果てていた。偶然にも入居者は出払っていたらしく負傷者はいなかったそうだ。おれは数か月ぶりに母さんと暮らしていた家に戻った。誰が管理しているかもわからないボロアパート。溜まった埃が鼻を刺激し、冷たい隙間風が目を突く。だからこの涙は生理現象だ。


 店に行っても彼女の行方は杳として知れなかった。


 数日後、店が焼け店長の死体が見つかった。この街で人間が消えるなんて日常茶飯事。消えた人間が還る場所はあの鬱陶しい煙の中。彼女の言葉が体の中で燻る。上まで上り詰めれば煙は消え何かが広がっているのだろうか。

 


「デリクはいっつも指輪付けているね。綺麗」

 隣で寝る女が俺の左手の指輪をいじる。

「死んだ人間からできた指輪、人なんて石にしちまった方が綺麗なのさ」

「へえ、確かに」

「お前、趣味悪いね」

「人間なんかより黙って煌く石の方が綺麗よ」


 家に帰り、まず指輪をはずす。俺はこんな趣味の悪いもの威嚇以外で付けたくなんてない。指輪をしまい、久々に上段の引き出しを開ける。たった一つお上品に置かれた指輪。指輪にはめ込まれた石は白く、一滴血を垂らしたみたいに赤い。

「あんたはよくもまあ、俺にあんなこといってくれたよな」

 言葉を残して消えていったあんた。それは俺に届きもしないような場所へ行かせようとする。それは平和な場所の詩人が詠むような甘ったるい言葉。そんな言葉にほいほい乗ったら見えてくる苦い現実。でも言葉の呪縛からは逃れられない。

 だから俺が昇り詰めた暁には、あんたに特等席をくれてやる。

「それまではこの指は大事に取っておいてやるよ」

 独り言はあの時より大きくなった部屋のなかで消えていく。

 純情の欠片をひっそり引き出しへ隠し、男と女と酒とクスリが躍り血も涙もない街を駆けあがる。


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