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愛煙譚  作者: 麓城結社
8/13

外伝 上

 噎せ返る甘ったるい匂いと燻る煙。ああ今日はいるのかと寝ぼけた頭の片隅で思う。横を見ると案の定、安っぽい光沢ピンクのワンピースを着崩し、化粧のせいで不自然な程白い顔をしたいつも通りの母さんが寝ている。その脇をすり抜け水道のぬるまったるい水で顔を洗うとようやく脳細胞が動き出した。煙った空気とおさらばしたくて窓を開けると夏を纏ったべたつく空気が滑り込んできた。空は阿呆の一つ覚えみたいに晴れきっている。寝間着を脱ぎ着替えを済ませ、パンを齧りながら家を出る。チャリを漕ぎ出せば生ぬるい風でも大分に心地よい。


 小汚い老ビルの前にチャリを止め、地下への階段を降りる。勝手知ったるドアを開ければ、夜の化粧が落ちた安っぽい店。今日は死屍累々の女たちがいないので平穏な夜だったのだろう。いつも通りソファーで高いびきをかく熊のために湯を沸かしコーヒーを入れてやる。コーヒーの匂いが漂い始めたころ、蜂蜜を見つけた熊の様にのそりと動き出す。

「ディーか」

「はい、おはようございます」

「ああ、コーヒーは?」

「はい、できました」

 コーヒーを持って行くと大人しくすすり始める。どうやら虫の居所は悪くないらしい。

 いつも通り掃除を始めると後ろから声が飛んできた。

「ディー、お前今いくつだ?」

「14です」

「学校は行ってる?」

「ぼちぼちです」

「それじゃ泉ってやつ知ってるか?」

「いえ……」

「知らないんならいいんだ」

 よっと掛け声で立ち上がる。どうやらコーヒーは飲み終わったらしい。

「じゃ、後は宜しく」

「はい」

 大欠伸をかましながら180を優に超える体を引きずり、店を出ていった。

 誰も彼もいなくなりもぬけの殻になった店。そんな可哀相な店の顔を洗ってやり、厚化粧を塗りたっくてやる。見てくれが整えばオーケー。みすぼらしい店だって数年掃除夫通いていれば化粧は上手くなるし、愛着がわくってものだ。

 細々した雑用をこなし終えて、おれは湯を沸かす。そろそろ来る時間だろう。

 カッ、カッ、と階段を降りる靴音が響いてくる。おれはお行儀のよい犬の様にコーヒーを淹れ始める。

「おはよう、勤労少年」

 化粧っ気のない顔と飾り気のないワンピース。興奮を抑え俺は言う。

「おはようございます、スイウさん。もう午後ですけど」


 2人分コーヒーを注ぎ、ソファーに体を預けるスイウさんに対面して座る。スイウさんはコーヒーに口をつけにやりと笑う。

「腕を上げたね。あのくそ不味さから大分美味しくなった」

「よく淹れていますから」

「ああ、あの狸親父に? 味わかんない人だから当てにしない方がいいよ。あたしが指導してあげたからでしょ」

「おれも飲めますし」

「いうねえ。でも飲めるだけじゃ意味ないよ。ブラックの味が分かるようになって一人前だから。美味しくなってきたとはいえ、まだまだだね」

 そう言ってコーヒーを飲む。初めて淹れた時はひどいしかめっ面をされたっきり一口たりとも飲もうとなかったのだから、認められては来たのだろうか。



 おれがスイウさんと認識したのは半年くらい前のことだ。スイウさんはおれが店に来るずっと前からいたし、ちっぽけな店だから存在は勿論知ってはいた。ただ、印象はかなりぼやけていた。特別可愛いわけでも、派手なわけでも、人気なわけでもない。逆に特別不細工なわけでも、地味なわけでも、どん底なわけでもない。中の中、ただただ流されていくだけの20代半ばの女だと思っていた。

 初めて喋ったのは雪がちらつく日だった。指が凍るかと本気で心配しながらの掃除が終わり、帰ろうとしたところに彼女が血相を変えて飛び込んできたのだ。印象にない必死の姿に驚き、勢いに釣られ探し物を手伝った。彼女が探していたのは黒革張りの文庫本だった。本が見つかると大層安心した顔つきになり、ストーブの前に座り込んだ。初めて見る表情に気を取られ思わず話しかけていた。

「本読むんですか?」

「本は全般好き。くそったれな現実から逃避できるから。この本は特別だけど」

「どうしてですか?」

「秘密。コーヒーでも入れてくれたら口がかるーくなるかもしれないけど」

 だからというわけではないけれど、コーヒーを淹れ彼女の下に持って行った。口をつけるとしかめっ面になり、しみじみ言った。

「少年、コーヒー淹れるの心底下手くそね」

 彼女の口は閉ざされた。


 その言葉が悔しかったからか、はたまた本の意味が知りたかったからか、それ以降彼女と言葉を交わすことが増えた。話すうち茫洋とした仮面をかぶっているだけでセンスに溢れ面白いことに気付いてしまった。眠くなる本を読み、好きでもないコーヒーを淹れ彼女の気を引いた。そして開店前、とりとめない話をするところまで漕ぎつけたのだ。


 店の開店、おれの帰宅時間だ。「ガキには早い」と未だに化粧を凝らした店がはしゃぎ出す前に帰らされる。

家に着くと食べ物の匂いが漂ってきた。ドアを開けるとキッチンに母さんがいた。

「デリク、おかえり。ご飯食べる?」

「食べるけど……、なんかあったのか?」

家に帰ってきて母さんがいることも、飯があることもレア体験過ぎて脳味噌が認識していない。

「あたしだって作るのよ」

「え、でも、仕事は?」

「休み」

「出掛けねーの?」

「いるわよ、悪い?」

いつぶりだろう、母さんと飯を食べるのは。母さんは妙に上機嫌で話を振ってくるのを聞く。

酒を飲み始めるとさらに口はくるくる回り始め、いつもの持論を語り始めた。

「デリク、左手の薬指は特別よ。軽い気持ちでそこに指輪をはめるんじゃないよ。あんたがどんな女と何をしようと自由だし好き勝手すればいい。あたしはあんたの人間関係に口出しできる程、できた大人じゃないからね。でもね、左手の薬指はね、本当にいい女がいるまで純潔を守んな。後悔するから」

 耳が腐るほど聞かされた言葉。おれは母さんの左手の薬指に光るものは見たことがないし、父親のことなんて一度も聞いたことがない。どれだけしょうもない男だったのだろう。

「あんたは今、14だっけ?」

「そうだけど」

「随分大きくなったものね」

「そりゃ生きているから」

「あんたを見ていると月日の速さを感じるわ。こーんなちっぽけだった小僧があたしの背に追いつこうとするなんてね」

 小柄な母さんの背は150㎝くらいだろうか。おれの背は優に母さんを超えている。

「立派になったもんね。もう大人ね」

 まっすぐ目を見て放たれた言葉に妙に照れ臭くなり、おれは目を背けた。


 翌日目が覚めると母さんはいなかった。その翌日も、翌日も。そして一週間。毎朝窓を開ける度、甘い残り香と煙が風と共に消えていく。部屋に残るのは無臭のなまったるい空気だけ。

 友達と駄弁っても、絡んできた輩相手に暴れてみても、虫の居所が落ち着かない。毎日のように意味もなく街をブラついた。ああ俺は何をやっているんだろう。


「しょーねん」

 目を開けるとスイウさんがいた。言葉を繋ごうとしたが迫り狂う頭痛を前に何も出てこない。そしてせり上げる吐き気。

「トイレはあっち」

 相変わらずの頭痛があるが出すもの出し水を含むと随分楽になった。

「酒は大人になってから。って言う綺麗ごとが通用する街じゃあないか。まあこれで懲りたろ。帰れる?」

「おれ、何してたんですか?」

「さあ。瀕死体を見つけたから知り合いのみよしで回収しただけ。あれ、記憶も飛ばした? なかなか強いのキメたんだね」

 頭がガンガン響くだけでなんの記憶も蘇らない。

「まあ帰りな」

「帰りたくない」

「へえ。喧嘩でもした?」

「喧嘩する相手もいない」

「一人ぼっちで寂しいの?」

「寂しい」

 妙なことを口走ってしまった。スイウさんの顔に玩具を見つけた悪戯っ子のような笑みが浮かぶ。

「大きく見えてもまだまだ小僧だね。いーよ、おねーさんが慰めてあげる」

 おれにするりと体を寄せ、首に腕を回した。柔らかな感触に気がとられる。耳元に吐息がかかり反射的に体が反応する。

「うちに住んでもいいよ?」

 甘い響きに絡めとられる。


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