4
泉岳にパイプ椅子を勧めらた市村は、土砂降りの雨を眺めて煙草をふかしながらぽつりぽつりと語り始めた。
ことが起こったのは一週間前だ。
市村は次期製作予定映画のスポンサー集めの接待役として、新市街の一等地にそびえるホテルの最上階で開かれたパーティに出席していた。この手の仕事はめずらしいことではない。
パーティには市内の有力企業鹿嶋グループの役員をはじめとして、市議会議員や新聞社の重役といった、いわゆるお歴々と言われる方々が出席していた。
ひとしきりお偉いさんたちに愛想を振りまき終えると、市村はフロアの隅に移動した。商売柄表情を作るのには慣れているとはいえ、お偉いさんの相手は気疲れするものだ。主催者側もそれを察してくれたのか、壇上で催しを始めたお陰で、客の注意はそちらに傾いている。
壇上をぼんやりと眺める市村の横にいつの間にか男が立っていた。
慌てて笑顔を貼り付けてそちらに向き直った市村だが、男を見てやや目を丸くした。
年齢は30をやや超えたあたりか。身長は183センチの市村よりもなお高く、広い肩幅と分厚い胸板の筋肉質な体格で、センスのいいスーツを洒脱に着こなしている。日に焼けた風貌といい、どこか肉食獣めいた野性味を感じさせる凄みのある美男だ。年配でたるんだ身体をした客が多い中では珍しいタイプだ。若手の実業家といったところだろうかと、市村はあたりをつけた。
男は市村と目を合わせるとにっかりと笑った。
「大スターじゃないか。ファンなんだ。握手してくれないか」
笑顔で応えて右手を差し出すと、男は力強く握り返して言った。
「俺はノイマンだ。デリク・ノイマン」
「市村光彦です」
そう名乗り返すと、ノイマンは「知っているよ」と言って、笑顔を近づけて耳打ちした。
「実は俺は南の方で商売をやっている者でな……」
南と聞いて、思わず背筋が震えた。南といえば当然意味するところは壁の南の暗黒街だ。壁南で商売をやっていてこの身なり。まさか屋台料理屋の店主ということでも無いだろうし、つまりはそういうことだ。
イメージを売る仕事柄、この手の人種との接触は当然のこと御法度と事務所からも常に口を酸っぱくして言われている。こんなところを隠し撮りされて、『人気俳優 壁南マフィアと黒い交友』なんて記事になろうものなら、積み上げてきたキャリアも一瞬でおじゃんだ。
慌てて手を振り払おうとするも、ノイマンの万力のような握力がそれを許さない。
「慌てなさんな。取って食いやしないさ」
「離してください」
「俺と話してくれるなら」
つまらないシャレがツボにはまったのか、ノイマンは自分の言葉ににやけた。市村は当然笑うどころではない。
「分かりました。逃げたりしませんから手を離してください」
「助かる。俺もいつまでも男とお手て繋いでってのは趣味じゃ無いからな」
ノイマンは市村の手を離した。
とんでもない握力で握られたせいで、市村の右手にはくっきりと手形が残っていた。
「ああ、悪い悪い。痛かったかな」
「いえ、大丈夫ですが。……それで、僕と何を話したいんですか」
「世間話だよ。おっと、ちょっと待っていてくれ」
ノイマンは近くを通りがかったウェイターを呼び止めて、ドリンクを二つ受け取って一つを市村に渡した。
「今日の出会いに」
「やっぱりそういうのが好きなんじゃないですか?」
そう言いながらグラスを合わせ、お互いにグラスに注がれた液体を一気に飲み干した。
口を湿らせたノイマンは陽気な口調で切り出した。
「さて、世間話をしようか。そうだな、このところ新市街で目撃情報が相次いでいる話題の美少女幽霊について聞いたことがあるか?」
あまりにも予想外の話題を振られて一瞬たじろいだ様子で相手を見つめると、ノイマンは照れた風に言い訳した。
「俺はその手の話が結構好きでなんだが、地元じゃあまり出回らなくてな」
「生憎とありませんね。話題になっていることも知りませんでした」
「そうか。残念だ」
本当に残念そうに言うと、かいつまんで概要を語った。やはり聞き覚えはなかった。
「目撃情報を信じるなら、とても可愛らしいみたいなんで、一度見てみたかった。理由をつけて新市街のパーティなんてものに参加したのも、半分はそれ目当てなところがある。まあ、もう半分はファン心理だが。あんたが来るって聞いたんで、ちょっと強引にツテを使ってねじ込ませてもらった」
そう言って市村に笑いかけた。
「あんたの出てる映画はデビュー当時のものまで全部観たよ。最初は俺の店の女連中がきゃいきゃいと騒いでて気に食わなかったんだが、押し付けられていざ観始めると止まらなかった」
こんな相手でもここまで素直に褒められると悪い気はしない。
その後二人は取り止めもない雑談をした。話題は映画のことから、新市街の一般人に信じられている壁南地区の都市伝説めいた噂話まで転がった。ノイマンの話の拾い方と広げ方は実に巧みで、いつの間にか市村は純粋にノイマンとの会話を楽しんでいた。ノイマンがたびたび呼び止めて受け取ってくるアルコールのせいで判断力が低下したこともあるかもしれない。主催者がパーティのお開きを告げるまで、市村は人目を気にせずこのマフィアとの会話に夢中になっていることに気がつかなかった。
「それじゃあな。立ち話に付き合ってくれてありがとうな。楽しかったよ」
「いえ。こちらこそ楽しかったです」
別れ際にノイマンが伸ばした右手を、市村は抵抗なく握った。
「安心しな。もう会うことは無いからさ」
笑って今度はあっさりと手を離すと、ノイマンは市村が何を言う暇もなく背中を翻して去っていった。
パーティを終えて、めずらしい体験を話してやろうと息を弾ませて自宅に戻った市村は、マンションのドアを開けて出迎えた世良響の顔を見るなり昏倒した。ベッドの上で目を覚まし、傍で心配そうに彼の手を握る恋人を視界に収めると、今度は思わず嘔吐してまたも意識を失った。