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看護師という名の鬼畜達

作者: 古小路 一穂

これは私が宇都宮を訪ねたとき体験した実録である。

私は命を助けるはずの病院に殺されようとした。私の人権を蹂躙して、SS会宇都宮病院の看護師に殺されようとした。

この鬼畜看護師は今もSS会宇都宮病院で のうのうと働いている。

脳梗塞で半分動けない私を、一人の女性が複数の悪魔に襲われるように、複数の警官が犯人を取り押さえるように、無理やりベットに縛り付け罵倒した。



私に力が残っていなかったなら、生きていなかったかもしれない。私が強い体で無かったら、殺されてしまって心臓発作か何かで始末されていたかもしれない。


許せない。許せない。絶対許せない。人の命を救うはずの病院が人を殺そうとするなんて!

私を平然として死の恐怖に陥れたやつら、私の人権を無視したお前達を殺人未遂で訴えてやる!

私は、心が溢れ出してくるのこらえることができず、暗闇に向かって叫んだ「畜生!」、そして一人眠れぬまま、今日も同じことを考え始めた。


傲慢なえらそうぶった、どこかヒステリーをかかえた女性の看護師女A。

やや細身のいやな感じの、女性看護師女Aに従順だった若い看護師男B。

私を縛るとき応援にかけつけた、少し太り気味の、おっさんの看護師男C。

縛る応援に来て、「縛る必要はあるの?」と言いつつ抑え縛る手伝いをした女性の看護師女D。

(自分たちの行為を正当化するために、私を縛ったあと、警察やいろいろな処へ画策の電話をしていた看護師女A・・・・・)



もし、彼等に、自分達のしていることがどんなにひどいものか、見つめることができる能力を備わっていたなら、

もし、彼等に、看護的な、友達や肉親に接するような人間的優しさが少しでも備わっていたならば、

縛って暴れさせたら、死んでしまうかもしれない、脳梗塞になったばかりの患者をストレス解消の対象と見なかっただろうに、

縛ったら死んでしまう、強度の閉所恐怖症 という患者 私を理解し、力ずくで縛り上げる行為を途中で止めることもできたろうに、

なぜ、彼等の頭にはひたすら縛ることしか考える術はなかったのだろう。


もし、子供が宇都宮に住んでなかったら、

もし、子供がこの病院を利用していなかったなら、そして

もし、子供が私を止めていなかったなら、

警察へ殺人罪で告訴し、裁判で彼等が私と同様の苦しみを味わう手段を講じていただろうに。

私は、言葉ではこの苦しい気持ちを十分言い表せない、表現することのもどかしさを感じながら、脳梗塞のリハビリを終えても未だ打ち間違いの多いパソコンをたたき続けた。

私が脳梗塞で動けず、しゃべれなくなったとき、

私は、熊本から東京方面へ旅をしていた。

主たる目的は、息子に会うことと、長らくご無沙汰している翻訳の仕事先などを訪ねることだった。


一日目は 羽田に到着して夕方、仕事先を訪問し、同じ会社を退職して以来の友人、八島君と20年ぶりに会うことができた。前と違って駅からやや離れた場所に転居していたせいで、転居先を探し当てるまでに、背広の中はびっしょり濡れてしまった。訪問先で話をしている間、汗は絶えず流れた。用が終わった後、往きに間違って曲がった道も帰りには一本道と思える程近く感じた。そのまま夕刻、目的の朝霞台のホテルに着いた。シャワーを使った後、ホテルの近くのラーメン店でラーメンと野菜炒めと餃子と二杯の生ビールで夕食を終えた。

二日目は ホテルを10時に出て 宿泊先の朝霞台から池袋まで 弁理士の先生を訪ねた。チェックアウトの時間に合わせてホテルを出たため、池袋に、2時間ほど予定より前に着いた。駅近くの公園で、ひたすら時間つぶしをするために、あたかも花見客のように空を眺めて過ごした。季節柄 さくらが満開過ぎであったが、散りゆく花びらをベンチに座って眺める、時には人間ウォッチングをして また おもむろに立ち上がり公園内を一歩きして またベンチに座る を繰返しながら過ごした。

1時に先生に会って昼食をとりながら小1時間ほど歓談して過ごした。

それから 一度ホテルに帰って

5時に約束していた友人に会うために4時頃ホテルを出て川越市に向かった。駅の近くで8過ぎまで友人と語り合い飲んで過ごした。前回、前年、ご馳走になったことが心の中にあったからである。お返しである。その後、電車で朝霞台のホテルに向かった。


宇都宮へ向かったのは次の日であ

った。

10時にチェックアウトしなければならず、時間が十分にありすぎたため、北朝霞駅のロータリーで11時半近くまで時間を潰した。

春なのに日蔭は肌寒かった。

カレー専門店の隣のおにぎり屋を見ていた。

売れないだろうと思っていたのに、客が絶え間なく入るのには驚いた。誰かをまっているように電車から降りてきた人達らしき人混みの方を見てきょろきょろとしていた。

時間をそれなりに潰したあと 武蔵野線、京浜東北線と、かって利用していた路線を利用して ゆっくりと大宮へ向かった。

そこで昼食をとり 未だ十分潰す時間があったので、鈍行で宇都宮に向かった。

宇都宮でも3時間潰す時間があったので、コーヒーショップで1時間、デパートの本屋回りで1時間と過ごし、最後に行った店でドイツ語の辞書を買った。家にドイツ語の辞書がなく、スプレー缶に何が書いてあるのか理解できないことを思い出したためだ。

残りの1時間は 待ち合わせ場所の東口に早く着き、上の通路から道を眺めたり、下へエレベータで移動して近くに立っていたりして過ごした。外は少し寒く熊本より寒いと思いながら…。

通路のはずれで7時まで待っていたら、息子の車が近づいてくるのが確認できた。

車を覗いてみると 一方の孫を迎えに行ってきたらしく 二人いるはずの孫のうちひとりの孫が「おじいちゃん」と言う はにかんだ笑顔で呼びかけてきた。

 外はもう薄暗く 勤め帰りの車で道は混んでいた。

 電話で嫁さん達と合流するか否か確認したが 用意が間に合いそうにないということで家に一旦帰って 車から降りることなく 夕食のため そのまま二人を乗り込ませてレストランに出かけた。

 7時半はとうに過ぎていた。孫たちはさぞおなかがすいていただろう、「ごめんな」。

 店では、魚料理、特に、孫が食べたいと言う料理を主として注文した。食事後いつものように家へ帰って、孫と遊んでテレビを見て、風呂に入り 10時頃 床のある部屋へ行って、12時過ぎ床に就いた。いつものようにしばらくは眠れず寝返りを繰り返した。

 

倒れた当日、2018年3月31日は、朝5時頃から息子と釣りに出かけた。1時間ほど私には初めての道を、車をとばせて 川に着いたのは6時頃だった。

私はTシャツに薄いジャージ1枚を着ているだけだったのでとても寒く感じた。

川虫を捕るとき 布の運動靴しかつけていなかった足は冷たく 水の中で石を掴む手は震えて 虫を掴めない位凍りついた。

 風邪の弱いところを選んで竿をふったが、魚は居そうもなくまったく引きがなかったので 風は強いが魚が引きそうな堰の近くに動いた。ベテランの私でさえ えさをうまく着けられないくらい手がかじかんでいた。やまめを一匹だけ釣ることができた。寒かった。釣りをやめて早く家に帰りたいと思った。だのに、堰の上の川岸では、おい茂る草の中を網で何かをすくっている人の姿が何度か見えた。

2時間ほど経った頃、土手の上に息子の姿が近づいてきたので「帰るの。やめて。」と聞くと「帰る。」というので、テグスをまき、竿をたたんで、帰り仕度をし、車に乗り込んだ。

家に着くと すでに子供が朝食を済ませて待っていた。私は濡れて汚れた靴を洗った。冷たいはずの水が手や足に温かく感じられた。

暫く過ごして、昼食に出かけた。朝を抜いていたため、ステーキを食べながら、お替りのジョッキのビールに、ほんちょっと酔った気持がした。

昼食後、子供を遊ばせようと予定していた川岸に向かったが、川の水が太っていて遊べそうになかった。そのため別の本流の脇の、浅い水溜まり状態の川に行き、エビや小さいハヤやどじょうを網にすくって遊んだ。私は疲れていたためか、腹痛がして体調が悪いと感じた。ここで3時間位遊んで家に向かった。川なのに土手の土だろう、どこからか乾燥している土の匂いがした。

私が倒れたときの、夕食は、セルフサービスのファミリーレストランであった。到着したときは、先客で込んでいたので30分ほど待ってテーブルに着いた。すこしの寿司と小さなジョッキのビールをとった後、追加のビールと他の食べものもって席に着いたとき、それは起こった。箸が持てず、呂律かまわらない、立ち上がろうとしても立ち上がれない。「酔っていないのに呂律が回らない、立てない、おかしい」と息子に言葉にならない言葉で必死に伝えた。息子はそれをすぐに理解し、私を肩に支えて車に乗せ、病院へ車を急がせた。息子も、息子の嫁も、二人の孫も十分に食べることなく食事を途中で止めることになってごめん。

車に乗っている間に先方の病院に行くことを連絡し、容態を告げ、急いだ。病院に到着するとすぐ、息子の嫁に 力が入らない 歩けない体を支えられて中へ入り、椅子に導かれた。

 医師が容体を確認した後、同じことを看護師に聞かれ ベットに寝せられて、点滴注射が施された。当初、私は、翌日の飛行機で熊本へ帰る予定であったため、「おれは明日熊本へ帰る。」と言って、点滴注射を抜こうとしたのを覚えている。このときは、院長らしき医者に、「熊本へ帰ることより今は命が大事」とたしなめられ、私は、納得した。そして後で知ったことだが、安全のため、点滴注射を抜かないよう両手をベットに縛ったと聞いている。私は麻酔で眠っていて、聞かされるまでこのことを知らないし、その措置に感謝している。


 翌日、事件が起きた4月1日、朝、気づいたときには、四方をカーテンで仕切られたところに寝かされていた。看護師が入ってきて、水を口に含ませて、うがいだったのだろうが、私はそのままゴクリと飲んでしまった。特に誰もこなかったからそれで良かったのだろう。隣ではカーテン越しに年配の女性の声がした。一時的な患者の休息処だろう。暫くそこに寝かされていたら、移送先を指示する医師の声が聞こえ、私は問題の広い部屋に運ばれた。

その日、熊本から慌てて宇都宮まで飛んできた妻に面会した。息子の車に同乗して来たという。長女も埼玉、戸田からかけつけたらしいが何か調達していて姿はそこになかった。

私は、妻に、呂律の回らない口調で「心配いらない」と言って、心配顔の妻を安心させようとした。妻は、長女が取ってくれたホテルに3日間予約していることを伝えた。妻を見て安心したのか尿意をおぼえ、シビンを求めた。当初、息子が支え持っていたが、私は自分で持つと言って左手でシビンを持ち、自分で漏らすことなく用を足した。

ベットに寝たままだとシビンから零れる危険性があったため、ベットの横から斜め下に向けて済まし息子に渡した。

2度目に用を足したのときには息子はいなかった。看護師の資格を持つ長女は妻とともに付き添っていた。私は 一回目と同じく、ベットの横から斜め下に向けて用をたしたが、シビンを外すとき布団に触れ 少し尿がシビンから漏れた。二回ともシビンの口に届くほど尿がたまっていた。長く我慢していたからである。こんなとき、どの様な状態になったときに小便ですと看護師に告げるのか迷っていたので、私は我慢していてこれ以上危ないと思ったとき黄色信号を灯した。

妻が帰る近くになって、便をしたくなった時のためにおむつをしていこうという話になった。私はすぐにでもしたいほど、ずっと我慢してきたのだが、おむつは嫌だと思ったことと看護師の「翌日にはトイレに行ける」という言葉を聞いて、「翌日まで我慢する」と言ってしまった。辛かった。溜まったまま便が硬くなってお腹に留まるその辛さを思った。辛かったがおむつは嫌だから仕方がなかった。

そして、妻と長女は帰っていった。


SS会宇都宮病院のような大きい病院には勤めている看護師も多く、2~4人の複数人からなるユニットが20グループ以上、チーム分けされている。

私は悪いチームにたまたま当たってしまったのだろう。その看護師、実はAだったのだが、変わってすぐ間もなく、8時頃、私のところへ来て、それまで五、六回、看護師が代わる度に聞かれていた、「ここはどこか分かる?」「名前は?」「生年月日は?」と矢継ぎ早に高飛車に言う。私は眠りから醒めて間もなく、それなりに答えたと思うのだが、「呂律がまわらないのね」っと、看護師男Bと一緒に、ベットから遠ざかりながら、私を小馬鹿にした態度で棄て台詞みたいに吐く。私は急に頭にきて、「そっちの言葉もはっきりしないじゃかいか。」と言う。すると、看護師女Aは「私たちには権限が与えられてるのよ!大人しくしてたがいいよ。」とベットとは後ろ向きに、怒ったようにうそぶく。

このときから、私はこの鬼畜看護師たちに目をつけられていたらしい。

私は何も言わないまま黙っていたのだが、そのとき、「こいつは頭に来るなあ~、何という態度の雌豚だ。」「権限って何のことを言ってるんだ。」と思った。

この看護師女Aは 患者より自分を上位に置き、看護をしようとする意思は少しも持っていない、むしろ患者を自分のストレス発散の対象としかみていないのだろう。


それから暫くして、看護師男Bがベットの近くへきたので、私は、「すみません。小便です。」と言って、看護師男Bを呼んだ。

その看護師男Bは、「シビンから零れるから」と、シビンに私のチンチンをつまみ押し付ける。私は、「離して」と言ったのだが看護師男Bは「零れるから」といって一向に離そうとしない。このような形だったので溜まっているのに小便は出ない儘であった。他人に抓んで押し付けられて小便ができるか!

あほ!

 

そのあと看護師男Bは1時間ほど姿を消していて、夕食でも食べに出かけたのかと思っていたが、看護師女Aが「xx君ずっといないね。」と言って、看護師女Aも1時間ほどそれから姿を消した。姿を消していたところをみると、いわゆる「サボタージュ」サボリであったらしい。看護師男Bは2時間ほどして、看護師女Aとともに帰ってきた。この間、1時間位、この部屋には看護師無しの状態が続いた。

私は、このとき「小便です。」と隣の部屋の看護師に言おうと思ったが、この部屋に看護師の姿がなかったことと、また看護師男Bが来たら小便できないため呼ぶことを断念した。

しかし、私はあまり我慢しない方がいいだろうと思い、看護師を呼んだところ、呼んだ筈ではない看護師男Bが来て、例のごとくである。もう一度 一分ほど小便をトライしてみたが 出ないよう長く身体が我慢していたので矢張りダメで、・・・他人に握って押さえつけられていることが小便をしたいという私の気持ちに より勝って、・・・朝まで我慢するしか術が無かった。「こいつも何で患者の気持ちが分らないのだろう。」


それから、時間がすぎ、午前4時頃、10人位寝ている処に看護師男Bが来て、「朝、10時から検査を始めます。水を少し口に含んでもらって、飲めるかどうかのテストです。うまく飲み込めた人はトイレに行くことができます。できなかった人は明日もう一度同じテストを行います。」と言う。私は、看護師女Aが言っていた「権限」とはこのことだと思った。私は一度目が覚めた時、うがい水を呑んでしまった経験があったので、「飲み込める、大丈夫だ。」と思う反面「我慢してきた大小を10時まで我慢し続けなければならないのか。」と思うと辛かった。


そして暫くして、看護師男Bは、四面をカーテンで仕切った、私の左側の隣の人に水を口に含ませテストをしている様子だった。長く入院して、知っている人らしく「まだ駄目ですね。もう一度やってみましょうか?」と親しげに話しかけながら、やっている。そのとき付き添いの奥さんらしき女性の声も、カーテン越しに聞こえた。次に、右側の隣の人に水を含ませるテストを行い、「もういいようですね。」と言う。そして右側のカーテンの向こうへ移動し、そこで「もう少しですね。もう一度やってみましょうか?」と、ここでもテストを行っている様子である。その中にいるひとりが「わたしもお願いします。」と言ったが、看護師男Bは「10時になってからやります。」と言って、今やっているのにそう言って断る。適当にピックアップしてテストを行っているようである。そして、カーテンのこちら側に来たので、「私も水を飲ませて、」と言うとまた「10時にやります。」と言ってテストをやろうとせず、その時は、頭に来ていて 高いに決まってる私の血圧を測るふりをしただけだった。

それから10分位して、看護師男Bが看護師女Aに「それは私が何とかしますから・・・」と言っている声がした。声の方を見てみると「あの患者(私)は看護師男Bが何とかする。」と言っているのである。看護師男Bが私をテスト不合格にするというのである。

そして、カーテンで私の見えないところでテストを再度していたが、私が、「私にも水を飲ませて」と再度言っても「朝になってから」というだけだった。

やつらが行うテストで、私を落とそうとする魂胆は丸見えだった。

私が大小を我慢し続けていたのは「10時になればトイレに行ける。」と思っていたからである。なのに 10時が来てもトイレに行けないのである。


私はずっとトイレを我慢していて辛い状態だった。そこで看護師Bが来たので「私の両隣はテストして、何で僕だけやらないんですか。」と問うと、また、「10時にやります。」「それじゃ、トイレに行かせて、」と言うと「まだ駄目だから、おむつをして下さい。」と言う。そこへ看護師女Bが来て、こいつも「まだトイレに行けません。」と言う。私は「這っていくからトイレに行かせて」というと、「まだ危ないからおむつにして」と言い、「おむつは嫌だから、今テストをして、OKだったらトイレに行かせて、這っていくから」と、ああこう言い合いをしているとき、看護師女A,男Bは私の手に拘束具を嵌めていたらしい。何か両方で腕を掴まれているのを感じたので「私に触らないで、」と言うと、白いわっぱの拘束具を手首に通しているのである。

私は拘束具が嵌められているのを見て、「こんなことすると私は気違いになる、強度の閉所恐怖症だから死んでしまう、」と外そうとした。そうすると看護師女Aと男Bは、私の片手と片手を持って 外すのを 力ずくで阻止する。脳梗塞二日目の、半身が不自由な患者を力づくで抑え込もうとしているのである私は、拘束されると、本当に気が狂うか、死んでしまう気がした。看護師らは患者が「やめて、死んでしまう」と言った段階で、拘束行為を中止すべきだった。だがそうしなかった。


奴らは、暴れる精神病患者を拘束するように「トイレに行かせて」と言う半ば動けない脳梗塞の患者を楽しげに拘束しようとしているのである。私は拘束されまいと必死に抵抗し「閉所恐怖症だから止めて、こんなことすると死んでしまう。」と抵抗しながら言うと看護師男Bが「何で閉所恐怖症なのか」と言う。「小学校のときミルク缶に閉じ込められた。」と手を撥ね退けながら言う。

すると看護師男Bは「ミルク缶って何?」と拘束しようとする力をいれたまま言う。私は「ドラム缶のようなもの」と言ったが、私を拘束することだけを考えていて「何か分らない」と言って、拘束を一向に止めようとしない。俺は犯罪者ではない。こいつらは俺を殺そうとしている。楽しげに殺人行為を行っている。私は「こんな処で殺されるのか、何故、こいつらは拘束することを止めないのか。」と思いつつ空しい抵抗を続けた。一向にやめる気配はないのである。


このような時はどうしようもない。逃げることもできない。


実際、私は、そういったテレビのニュースがあるときに幾度か「僕が手錠を掛けられたり 鉄格子に繋がれたり、牢の中に入れられたりしたら 発狂してしまうよね。死ぬかもしれない。」と 妻に日頃から話していた。

たとえば、MRのような長い診察は3分位でトラウマ状態となり、麻酔等の処置を施さずには耐えられないのである。だから拘束されるのを嫌がるのである。

これに相当することを脳閉塞二日目の患者にしているのである。この看護師らが殺そうとしているのである。私は抵抗をしながら「こんなことして訴えてやる」と叫んだが 奴らは犯罪者を取り押さえるように、拘束することに必死である。犯罪者でもここまで拘束されない。手や体は拘束されても、足は自由である。こいつらは、身体は自由に動けないのに、暴れる精神病患者を力ずくで拘束するように、まるで捕えた獲物を窒息させて拘束するように。2人がかりで脳梗塞で入院したばかりの患者を押さえつけているのである。


奴らは、拘束行為を中止することも、トイレに車椅子で連れて行くことも、睡眠注射で眠らせるのとも、拘束をしないでそのまま説得することも、医者を呼び相談することもできた筈である。拘束せず何か別の手段を考えるべきであった。この病院は何とひどい病院だ。どのような教育をしている病院だ。


 奴らは奴らだけで拘束できないと思ったのか、「xxさんを呼んできて、応援を呼んできて!」と言う。私はきつかった。抵抗するのに疲れ、肩で呼吸をしていた。抵抗はしていても大人しくしていた筈の患者を力ずくで拘束しようとすることを止めようとしない奴らが憎らしかった。「私はこのまま殺される。」と思った。


手足を掴まれて肩で息をしている私は 足を上にされた状態のまま応援が来るのを待たされた。悪いことは何にもしていないのに不自由な体を拘束されようとしている、この空しい気持ちが分かるだろうか?


それからややでっかいおっさん看護師男Cと小さめの看護師女Dとが応援(何が応援かわからない)に来た。私を見るや看護師女Dは小さな声で「こんなことやる必要があるの?」、と言いながら拘束することを始めた。まるで。犯罪者のように。無抵抗だった患者を暴力で抑え込もうとするのである。殺すように、今度は4人で私を拘束しようとする。私は抵抗して暴れたが、看護師女Aの「静かにしたらすぐ離す」と言う騙し言葉にやられ、また疲れ果て半ばあきらめ状態で、拘束されてしまった。

すると、45位のおっさん看護師男Cが「背中も拘束しましょうか?」と進言すると、死んだ犯罪者をさらに動けなくするように私をがんじがらめに拘束した。私は「本当に殺される」と思った。「もう皆に会えないのか」と思い、悲しかった。「命を助けてもらう筈の病院で殺される。」と思うと残念だった。くやしかった。

 手も足も背中も拘束してベットに縛りつけて応援と称するやから2名は去って行った。

看護師女Aは「私を拘束した」ことを関係個所、警察を含め必要なところへ電話で連絡していた。「暴れたから縛り上げた。」と都合のいい話をするためにだろうが、半身不随の 体の不自由な私が抵抗し、暴れさせられたのは、あくまでも手に拘束具が嵌められていて恐怖を覚えたからだった。拘束されるのを許したのは、あきらめ と疲弊からだった。 

拘束された後「すみません。誰かこれをほどいてください。」「すみません。誰かこれをほどいて、」と泣きながら訴える70才の私に、鬼畜看護師女Aは睡眠薬と思われる注射をして、私の視界から去って行った。注射を打たれたとき「私はこんなことで死ぬもんか。殺されるもんか!」と思った。正気でいるとき、私はずっと「誰かこれを解いて下さい!」「拘束を外して!」と何百回も叫びつづけた。私の一生でもっとも苦しい 辛い想いをさせられた。

そして、薬が効いて眠ったのだろう気づいたとき背中と足に痛みを感じた。当初、開放されていた私のベットが、目が覚めた時、そのときは四面をカーテンで仕切られ薄暗くされていた。空しく叫びつづけていると、鬼畜看護師女Aがやって来たので「右の足が痛いので結束バンドをゆるめて」と言ったとき、その鬼畜は「痛いのはあたりまえでしょう。かたく結んでいるンだから!」と言うだけで緩め様としなかった。この足の痛みは14日たって、熊本の病院に代わってからも2週間くらい長く続いたほどだった。またこの鬼畜看護師は、私が結束されているとき「騒いでも家族はこないよ。」とも言っていた。私はまだ面会時間じゃないから来るわけないだろうと思ったのだが・・・。私が叫び続けるのを止めさせようとしたのだろう。


 この拘束は鬼畜看護師Aのうその言葉とはうらはらに鬼畜看護師らが次の担当チームに引き継ぐ、正午近くまで、私の気持ちでは8時間位続いた。

その間、私は息子の名を呼び続けた。「□□□□!これを解いて!」早くこれを外して~!」と叫び続けた。と言うのもカーテンの外で、息子、一郎に似た声がこだましたからである。私は、息子を呼ぼうと大声で幾度も叫び続けたのだが、「よほどひどく暴れたのかね?」と、カーテンの向こうからその声は小さく独り言をつぶやく。「私は、少しも暴れていなかったのに。」「暴れさせたのはあの鬼畜看護師らなのに。」と私は思ったが疲れ果て 声にはならなかった。。

そう言った息子に似た声は 少ししてその場を去って行った。

「まだ夜も明けていなく息子が面会に来る筈がない。」と悟った。


2度目か3度目の睡眠薬の注射の後、私は背中に痛みを感じながら歯がゆい夢を見た。拘束された私の拘束具の鍵を外そうと試みるのだが、鍵が背中に5個、足に5個、手に5個あって、一つ外れても次を外さなければならず、次のロックを解こうとすると、鍵が多数あるため、束の中から選ぼうとしても。合うキイがなかなかわからず、またキイがあっても鍵が壊れていてハサミでひもを切らないといけなく、ひもを切ろうとしてもなかなか切れない。そんなもどかしい状態がつづいた。そんな夢を見た。


昼近く、ふと気付くと、チーム交代のときがやってきたのか、鬼畜看護師女Aが拘束を外しにかかっている。「暴れるとまた縛るよ!」と言いつつ拘束を解いていく。「初めから少しも暴れていなかったじゃないか!私を暴れさせたのは、おまえだろ!」「俺を拘束して殺そうとしたのは、てめーだろ!」と思ったが、私はへとへとに疲れ果ててもう抵抗する力はなくなっていた。痛んでいた足と背中がやや楽に感じた。私は動けなかった。拘束されて、そのうえ叫び続けて、力が完全に抜けきっていた。私は鬼畜看護師女Aらが交代するまで8時間位ベットにきつく縛りつけたままに放置された。鬼畜看護師女Aが「大人しくしていたらすぐ外すから、」と言ったことは、嘘であった。


もともと静かにしていたのを拘束しようとしたのはこいつらだった。こいつらは患者の辛さなど何にも気にしていない。自分勝手なヒステリー集団、患者がどうなろうと一切気にしないストレスの溜まった殺人集団に思えた。


このチームが私に合格の判定を下した筈がない。テストを行おうともしなかった。トイレに行けるように判断したのは院長先生だった。昼過ぎにベットの処に来て、「何でこの人はここにいるの?もうOKだよ。」と担当看護師に言った一言でトイレOKになった。また部屋が変わった。

おむつは、縛られているときにはめられ、縛られたまま大小を一度せざるを得なかっただけで、トイレOKのとき外れた。看護師男Bが「パンツは邪魔だからとりましょう。」と言って横に外したままになっていたが、そのときから私はパンツをはく普通の人に変った。



拘束されて疲れ果てた私は、あちこちに痛みを覚えたまま、しばらく点滴を見ていた。そうすると交代した女性看護師がやってきて「これからMRIの検査をします。」と言う。呂律のまだ定まらない、やっとの声で「私は閉所恐怖症でMRは耐えられません。」と言うと、「MRIだからMR程ど長くないから、大丈夫です。」と言う。「何分くらいかかるの。」言いたいのだが声になったのかどうか答えは返ってこなかった。それまで、私は、MRとMRIは同じものと思っていたが、ここでは別物らしい。その後分かったことだが、15分て済むものをMRIといい、30分かかるものをMRというらしい。


そうこう考えているうちに、私はそのまま4階から1階の検査室へ車椅子で運ばれてしまった。そこの検査員には、最初看てくれた先生が告げていてくれたのか「この人はMRがダメだからこれ大丈夫かな?」と言う。私はほっとした。MRとMRIはやはり別物らしい。実は、前日、「MRを取ろう。」と言われた時に、「MRは、私が熊本の赤十字病院で人間ドックをうけるときダメで、途中で中止にしました。」「閉所恐怖症です。」と告げていたのである。

「MRIはMRと違うから、・・・もし駄目だったらこのボタンを押して。」と言われ、検査が始まった。頭だけを装置につっ込んで両肩を装置の縁にあて、MRIは15分で終わった。普通だったらこんなに我慢できないのに、私は15分も装置に入れられたまま耐えた。というより、拘束されたことで検査を中止する体力が残っておらず、やるがまま、されるがままになっていたのだろう。15分も耐えたのは奇跡である。と言うのも、熊本の病院に移ってからMRを再トライしてみたが、私の気持ちでは10分位に感じたのに 実際は、3分しかもたなかった。

拘束が解かれたとき、拘束具は嵌めたままであった。面会時間に妻が来てから、拘束具が手首に嵌められているのに気付き「これを外して、」と言って外してもらった。外す力も残っていなかったからである。外した拘束具はしばらくベット脇に置かれていたが、見るのも嫌だったことと、再度拘束される怖さから、妻に看護師詰所に返してもらった。

拘束された疲れは3日でとれたが、動けなかった1日を思うと通常より1日回復が遅れたようである。体のあちこちに残った痛みは心の痛みに比べると数段に軽い。


入院した日から、妻や、長女夫婦や孫たち、次女の夫婦や、息子の家族が見舞いに来た。入院した日には息子の家族が付き添い、妻は2日目から毎日、2時からの見舞時間の前から病院には着いてくれたらしい。4日目から宇都宮の息子のうちからバスを使って来てくれた。長女夫婦と孫たちは2日間そして7日目に退院するとき、電車で埼玉から来てくれた。次女夫婦は4日目と退院の時、車で埼玉から来てくれた。息子は会社の勤務時間のあと妻の迎えを兼ねて毎日、車で来てくれた。私は見舞いを受ける度に泣いた。悲しかったのではなく、拘束された自分のみじめさがくやしいあまり、家族がベットに来てくれたときまた帰るとき、無念さに涙がしぼり出た。

4日目、点滴の箇所が赤く炎症したため、点滴の針を刺している腕の箇所を変更した。実はそれまでも状態が悪く4度ほど変更していて針を刺す場所が限られていたのだが、点滴が針を刺した場所から滴り落ちつづけたので、看護師に直して貰ったことがあった。 

5日目位から点滴が外れ、食事が許されるようになった。右手は箸をにぎることもできず、自由がきかない左手でスプーンを使って、米粒をこぼしながら何とか食べることができた。


食事を始めて二日目の夕食の刻、はす向かいに運ばれてきた私より年配と思われる老人がこちらを見ながら、私をばかにした仕草をしているのを感じる。私は食事に左手で悪戦苦闘していたので、そちらを凝視したわけではないが。両手の動きやあごを何度も突き出している気配が感じとれた。この人は私が拘束されていたのを見て、拘束されて叫んでいたのを聞いて、私を小馬鹿にしていたのだろう。次の朝、食事した後、若い医者がその人のベットに来て、寝ているその老人を見つつ、「死ぬ予定だったひとなの」と看護師に問い掛けている。「いいえ」と小声で看護師が答える。「とにかく下に運びましょう。」とう医者は言ってベットを移動させていった。この人は亡くなっていたのである。前日は私を小馬鹿にするほど元気だったのに、予定外で亡くなったのである。

7日目頃、「風呂が空いたからシャワーをあびますか?」とお腹の大きい看護師さんがいう。私は風呂の入り口まで車椅子で案内され、倒れて初めてのシャワーをあびる。そのときは、まだ足腰がしっかりしておらず、掴まるところがなく怖い思いをしたが、その看護師さんは私にやさしくお湯をかけてくれた。大きなお腹で面倒見てくれてありがとう。その後来た看護師も、リハビリ担当の看護師もみんないい人だった。あの鬼畜看護師らがいるだけでこのSS会宇都宮病院が怖い存在となっている。本当に罪な鬼畜看護師達である。

当初、車椅子を使って、看護師に介助されて往復していたトイレは。この頃には人に支えられて往復するようになっていた。看護師を呼ぶのに躊躇を覚えていたため、私は妻の面会の時までトイレを我慢し、面会のタイミングで妻に支えられてトイレに行こうと心掛けた。脚に力が入らず、おぼつかなかった。トイレの前に、 私はベットの脇に座り、脚を動かして、力が返ってくるのを待った。入院していることに疲れてきた私は、妻が来ると、隣の談話室まで壁伝いに歩き、1時間ほどそこにとどまり、何をするということはなく椅子に座って過ごした。


9日目頃、院長先生に会えたので、「熊本のリハビリ病院に予約が取れたので熊本へ移動したい。」と言ったとき、院長先生は快く承諾してくれた。私は「これで殺されることはない。あいつらは一生恨んでやる。」と思い、また安堵を感じた。


11日目退院した。1日は息子の家に寄り、翌日、新幹線で途中東京駅で乗り換え大阪までいった。私は「一気に熊本まで行こう」と言ったが、「無理はしないで大阪に予約したから」と言う長女の意見を尊重して、1日は大阪までにした。妻に長女が車椅子を押しながら付き添った。大阪駅でホテルの車椅子に乗り換えて、高架道をホテルに向かった。雨が降っていた。長女はそのまま東京へ引き返し、代わりに三女が熊本から合流した。ここから熊本の我が家まで三女が付き添い、熊本駅から私の車で送るという予定であった。熊本駅から三女の運転で一本道を我が家へ急いだ。


熊本の我が家へ着いて2日目、熊本のリハビリ病院に向かった。病院で面接のとき、私は入院予定を変更して日帰りのリハビリにしようと思った。結果的に担当医師の説得もあり、予定通りの入院になったのだが、それが後々私を苦しめた。我が家はすぐ近くなのに妻は毎日、車で通ってきているのに家に帰ることさえできない。担当医師にいちいち許可を得なければならない。入院20日までは外出NG,20日過ぎたころから、それも担当医師の判断で「日帰りはOK、外泊はNG、夕食までは病院に帰って」と実質昼食どきの5時間位の許可という始末である。病院に個室の空きはなく、ちょうど私の隣のベットに朝5時から夜11時まで騒がしい奴がいて、夜は拘束されたことが頭から離れず、殆んど眠れない日々が続いた。

当初、許可をもらって、家に帰ったとき、殆んどは昼食と昼寝で時間が過ぎた。そのうち外泊が許され始めたが、私は早く家に帰る、退院することを考え、そのように担当医師にも告げたのだが、担当医師からは「皆一緒です。皆早く退院したいと思っているのです。」と一般論を言うだけだった。私が病院にいるだけでストレスを感じていることを悟ってはくれなかった。


退院が決まったとき一度、朝、瞬間的に気を失ったことがある。時間を追いかけて一睡もできなかった朝、体を半分起こしたとき、瞬間的に、頭が真っ暗になり、全身から力が抜けて、そのままベットにドサッと倒れてしまった。話せば、退院が先延ばしになると思い、退院して6月まで誰にも話さなかった。夜、寝ようとベットに入ると決まってSS会宇都宮病院のおぞましい出来事が脳裏に浮かんでくる。

 起きてベットに横になっているとき、食事のとき、廊下を歩いているとき、トイレのとき、風呂に入るとき、窓から外を眺めているとき、夜、寝ようとベットに入るとき、決まってSS会宇都宮病院の殺人未遂の出来事がトラウマとなって現れ、気づいた時には拘束された出来事が頭に浮かんでいるのだった。なぜあの看護師達は、暴れてもいない私を拘束しようといたのか?なぜ拘束を途中で止めようとしなかったのか?看護師が患者を殺そうなんて何でするんだろう?いつもトラウマになって現れてくるのだった。


 鬼畜看護師らが行ったことは、殺人未遂に相当する。看護師をやってはいるが患者を看護する気持はさらさらない。病院へ事の顛末を告げるため、手紙を書いて、電話もしたが、担当者は「訓告はします。後は院長がどう判断するか、です。」と言う。このままでは奴らは何も反省していないだろう。


今はリハビリのため毎日、時々は隔日、運動を行っている。ジョギング、突き、正面蹴り、腕立て伏せ、横蹴り、空中での腹筋運動など、私は学生時代、唐拳法と、40歳を過ぎて空手をしていたのでその名残の運動を多く行っている。病気のせいか、筋肉の痛みが早くやってくる。アルコールは以前の6分の1程に減った。何も飲まなくても平気である。だが、お菓子やまんじゅうは欠かさず食べている。だから、血糖値とヘモグロビンA1cは少しも下がらない。こんな毎日を過ごしている、7カ月過ぎたいまでも殺そうとされた、縛り付けられた恐ろしい、悔しい出来事が目の前に現れてくる。 


子供たちが止めていなかったなら、鬼畜看護師らを殺人未遂で警察に告発しようと思っていた。子供たちが反対しないなら告発したかった。私は、奴らに、私と同じ目に合せたい。私と同じ苦しみを味あわせたい。できることなら、柱に縛りつけて3日間放置してやりたいと思う。。


てめーらまってろよ!

刑事事件で 殺人未遂事件で告訴してやる。

刑事が駄目だったなら民事で 死に目に合わせた慰謝料と回復を遅らせた損害賠償で争ってやる。

刑事も民事も駄目だったなら 週刊誌でおもしろおかしく暴露してやる。

それでもだめだったなら小説みたいに自費出版して事実を暴露してやる。

本当は俺と同じ苦しみを味あわせたい。退院して7カ月過ぎて、起きていても寝ようとしても眠れない あのトラウマに苦しんでいる老人の思いである。


この鬼畜看護師どもは、まだSS会宇都宮病院にいる。過去に何人殺しているのだろう。殺人を適当な病名で処理したのだろう。これじゃ患者が浮かばれない。


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