星の輝きと黄昏の詩
暗闇の中から、夜の闇よりさらに黒い影が現れる。
異質な気配を纏っているのは、人の背丈程も高さのある大蜘蛛だった。深紅の眼は、不思議と怒りの感情を見る者に伝える。それは大蜘蛛が妖だからだろう。
夕詩は脇差の柄に手をかけ、いつでも刀を抜けるようにと体勢をわずかに低くする。
すぐ近くの春雪も、雰囲気が変わっている。凪いだ湖の水面のようだ。だがそれは、嵐の前兆にも似た静けさだ。雨に荒れ狂う川の気配をはらんでいる。
「ここには入らせねぇぜ」
「うむ。ここは通さぬ」
夕詩と春雪はそれぞれ村の方へ背を向け、かばうようにして並び立つ。
「――――!」
声のないはずの大蜘蛛が、叫びを上げる。それは本能的な怒りを響かせていた。並の人間ならば、怯んでいてもおかしくないものだった。
それが合図だったかのように、夕詩と大蜘蛛が同時に動いた。互いに刀、鎌に似た形状の右脚を構えて走り出す。
「はあっ!」
横に大きく薙いだ大蜘蛛の右脚を躱し、体勢を低くした夕詩は大蜘蛛の懐へと飛び込む。左下から右上へ切り裂くと、確かな手応えが影断から伝わる。
小柄な身体を活かして、最小の動きで最大の損害を与える。それが夕詩の戦法の一つだ。
これならば、前回より春雪が援護をしやすい。夕詩はそこまで考えてこの戦法をとったのだ。
夕詩は変わった。春雪は確かにそれを感じる。
「夕詩、下がれ!」
「おう!」
夕詩が大きく後方に下がるのを確認し、春雪が術を使う。
「天昇水龍!」
噴き上げた水流が、龍の形をとって大蜘蛛を襲う。弾き飛ばされた大蜘蛛が、身体を起こしてまた声をあげる。威嚇の色が滲むそれを、夕詩はものともせず再び妖へ飛びかかる。
瞬間、大蜘蛛が左脚を振り上げた。本来ならば、夕詩には防げない攻撃のはずだった。
「皐月息吹!」
大蜘蛛の下の地面から芽吹いた蔓草が、その動きを封じた。一つ一つの茎は脆く細くとも、幾重にも絡み付き強固な戒めとなり、大蜘蛛を拘束する。
その隙を逃さず、夕詩の影断が大蜘蛛に突き刺さる。少し狙いから外れ、いくつかある脚の付け根の一つを傷つけたそれを引き抜くと、大蜘蛛が反撃をしてきた。
「しまっ……!」
大蜘蛛の脚による攻撃は、夕詩には当たらなかったもののその手から影断を奪った。宙を舞った影断が、銀の軌跡を残して地面に落ちる。夕詩からも春雪からも離れたそれを取りに行くことは、この状況では困難だ。
反射的に影断を追って視線を動かしたせいで、夕詩の注意が大蜘蛛から逸れた。その無防備になった背中を、大蜘蛛の脚が狙う。
「波紋氷花壁!」
波紋がそのまま凍りついたかのような、繊細な花模様の氷の壁が大蜘蛛の攻撃から夕詩を守った。美しい氷が力強く大蜘蛛の脚を防ぎ、わずかに欠片が散る。
「静水鏡面」
今度は春雪の言葉と共に、辺りで水が鏡となって夕詩を映した。その中に、夕詩の姿も紛れる。
眼でまわりを認識しているのは定かではないが、大蜘蛛は夕詩を見失ったらしい。振り上げた脚がぶるりと震えた後、動きを止めた。
「春雪、助かった! ……悪ぃな、影断。待っててくれ」
身をひるがえして、夕詩は大蜘蛛に向き合う。影断を地に残したまま、もう一振の刀に手を伸ばす。
月明かりを反射した刃が鞘から抜かれた。星の輝きが宿ったかのような銀の刀身が美しい刀だった。
「真打登場、だ。おれが輝星を抜いたからには、あんたは朝陽を見られない」
夜の闇と同じ色の夕詩の瞳と、星明かりの刀身を持つ刀が大蜘蛛に向けられる。そうして、妖の時間である夜を書き換えてゆく。
「春雪!」
短く春雪の名を呼ぶと、視線が返される。黒と緑が無言の会話を交わし、夕詩は今度は輝星を手に大蜘蛛に斬りかかる。
「乱鎖炎舞!」
連なる鎖の炎が、春雪の右手から空を走り夕詩の持つ輝星へと届く。声なき言葉で夕詩が伝えたことに、春雪は応えてくれたのだ。
炎を纏った打刀が、暗闇を紅く照らす。それを見上げる大蜘蛛の眼よりなお赤く。
夕詩の攻撃を防ごうと動かされた大蜘蛛の右脚を、横一文字に薙いだ輝星が断ち斬る。その軌跡は流星の如き速さだった。
「――――!!」
怒り狂った大蜘蛛の叫びが響き渡る。振り下ろされた左脚は、これまでにない程の勢いで夕詩を襲う。
「く……っ!」
かろうじて輝星で受け止めたものの、夕詩の方が力負けしている。いきなり逆方向に力を加えられ、その小柄な身体は宙に浮いた。
「風翼!」
ふわりと吹き抜けた風に、夕詩は春雪の銀の髪を視界の端に捉える。まるで道しるべのようだと思ったそれが、闇の中でも春雪の存在を教える。
為す術なく地に叩きつけられるはずだった身体は、空中で誰かに柔らかく受け止められた。覚えのある暖かさだった。
「夕詩、無事か?」
「ああ! このまま決めるぜ!」
春雪の腕に降ろされ、落ちながら夕詩は輝星をまっすぐ下へと構える。流星の軌跡を描いた輝星が、ずぶりと大蜘蛛の頭に突き立てられた。
一度びくりと痙攣した後、どうと音をたてて大蜘蛛の身体は崩れ落ちた。眼に灯っていた深紅も、光を失っている。
「やった、のか?」
「うむ、これで終いだ」
春雪の言った通り、大蜘蛛の身体は砂か何かのようにさらりと風に溶けていった。後には何も残らない。
「夜が明けたら、村長殿へ報せねばな」
ぽん、と夕詩の頭の上に手が置かれた。見上げると、春雪の淡い緑の瞳と目が合う。いつものように柔らかく微笑む春雪に、わしわしとなおも撫でられた。
「な、何だよ……?」
「私を信頼してくれたな、夕詩。ありがとう」
「別に、礼言われることじゃねえし。……あんたのおかげなんだから」
後半だけは消えそうな小さな声で告げられたそれを聞いた春雪の表情が、とても幸せそうになる。
目を逸らしてみても、まるで移ってきたかのように暖かい感情に胸が満たされた。
「帰るか」
「ああ」
夜道を二人で往きながら、夕詩は春雪の整った横顔を盗み見る。歩くのに合わせて揺れる銀髪は、濃紺の狩衣によく映える星明かりの道しるべだった。暗い夜の闇を、月ほど明るくはなくとも照らす光だ。
それに導かれ、春雪を信じて夕詩は今ここにいる。選べる道が他にあっても、この道を選んだことを夕詩は後悔していない。
これこそがきっと、縁というものなのだろう。そう思える相手に、出会えることが。
「君と出会えて良かった」
ぽつりと呟かれた言葉が、夜風に乗って夕詩に届く。
「おれも、あんたと縁があって良かったよ」
今度は横を見ずにいたため春雪の表情はわからなかったが、声は聞こえたらしくふわりとした気配が伝わってきた。
翌朝、春雪と夕詩は大蜘蛛を退治したことと、すぐにこの村を発つことを村長に知らせた。そのことは村中に伝わり、あの商店の少女や八百屋の少年、他にも何人もが二人を見送るため村の出口に集まった。
「お二人共、ありがとうございました。是非またお越しくださいね」
「いつでも待ってるぜ。ここに遊びに来たら、ウチにも寄ってくれよ」
昨日も見せた笑顔で、二人は手を振る。
「ああ、また来るぜ。じゃあな!」
「世話になった。再び来ると約束しよう」
振り返って声に応え、夕詩は大きく手を上げ春雪は礼儀正しく一礼して再び来ることを告げ、二人は村を後にした。
帰り道は、出会ったばかりの来た時と同じように沈黙が漂うときもあったが、それはけして不快なものではなかった。
足音や雰囲気で短い間とはいえすぐ近くにあったからか、何を思っているのかなんとなくわかるのだ。
八百万に着くと、変わらない景色が夕詩を迎える。過ぎゆく時の流れにより自然に馴染んだ『相談処 八百万』という看板、門から見える中では様々な和洋入り混じった格好の者たちが駆け回り、門近くを竹箒で掃除する管理人の姿。
夕詩と春雪が来るのをみつけると、穏やかに「おかえりなさい」と言ってくれる。
「ただいま」
そっけなくても、前より柔らかく夕詩がそう応えた。
『八百万』を発った数日前と、何かが変わっている。きっと良い出会いだったのだろう。彼にとって、今回の依頼は。
管理人の視線を受けて、春雪がほんのわずかに笑ってみせた。それが何よりの証拠だった。
夕詩たちが『八百万』を出立する直前のこと。
『春雪さん、頼みがあります。どうか、星影さんの信じられる人になっていただけませんか』
『それで、初対面である芝居をと言ったのか』
昔、管理人には春雪と組んでいた時期があった。その伝手で、春雪は『八百万』に依頼をしてきたのだった。
『ええ、その方が良いと思いまして。それに、私では駄目なのです』
星影は幼い頃から『八百万』にいた。その頃から所属している者は多く、星影を構う者もいたが、当の本人である星影自身にまわりの大人を信用する様子はなかった。
一番近くにいた管理人にさえそうだったのだ。何より肉親に捨てられたという事実が、星影に他人を簡単に信用させなかった。
『まったく。貴女の考えは時に的確だが、過程に悪戯心があって困る。しかし、他でもない貴女の頼みだ。承知した、花蝶』
『あら、久しぶりに呼ばれました。今となっては、皆さん管理人としか呼んでくださらないので』
今の星影の様子を見るに、春雪は管理人――花蝶との約束を果たしてくれたようだ。
彼ならば星影の良い縁になってくれる。花蝶の見立ては間違っていなかったらしい。幸せそうな星影にそう思う。
「管理に……花蝶、さん。おれ、名前もらったんだ。春雪から、夕詩って名を」
ああ。これまで彼が、花蝶を名で呼んだことはなかった。
家族などではないと言うように、自分に言い聞かせるように、物心ついた時から頑なに上司として役職名でしか呼んでいなかった。その彼が、今やっと花蝶と呼んでくれた。
「はい、素敵な名前です。よく似合っていますよ、夕詩さん」
「ありがと。……それでさ。おれ、八百万を辞めたいんだ。春雪についていく」
「夕詩!?」
春雪は驚いたらしいが、花蝶はこうなるような気がしていた。それに夕詩はもっと広い世界を見て、飛び立ってもいいはずだ。
「わかりました。いってらっしゃい、夕詩さん」
花蝶は「いってらっしゃい」と言った。ここに帰ってきてもいいのだと。夕詩の帰る場所はここにもあるのだと。
「花蝶さん、いってくる!」
緑の瞳をぱちぱちとさせる春雪に、夕詩はにっと笑ってみせる。
「ありがとう、夕詩」
「あんた、礼言ってばっかだな」
「減るものではあるまい。よいではないか」
数ヶ月後、妖退治専門にと新しくできた寄合を銀髪の陰陽師が率いていた。その隣には、二本の刀を携えた剣士がいるという。