笑顔と夕闇に想うこと
三日も経てば、夕詩の怪我はほとんど前と変わらない動きができる程に回復した。
「ま、こんな仕事すんなら、怪我が治りやすいのも売りになるからな。荒事専門のおれを舐めんなよ」
「うむ。だが、無理をしてはならぬぞ」
「わかってるよ」
春雪に答える夕詩の表情は、出会ったばかりの五日前よりずいぶん柔らかい。今では、春雪の隣をあたりまえのように歩いている。
春雪もそんな夕詩を彼に気取られないよう、緑の瞳を細めてどこか嬉しげに見ているのだった。
「でも、散歩ったってどこ行くんだよ」
「外の空気を楽しむだけでも、散歩になると思わぬか? それに、目的地はちゃんとあるぞ」
出発したのは数分前のことだ。それならば、さして大きくない村であるここでも、まだ目的地に着いていないことはうなずける。
並んで歩く夕詩と春雪の間を、午前の爽やかな風が吹き抜ける。今日はゆるく縛っている春雪の銀髪と、紺色の羽織が風になびいた。
その風を追うように夕詩が振り返ると、その先で草花や梢が揺れていった。
「今日は買い物がてら、君に、君が守った場所を見せたいと思ってな」
「おれが?」
「うむ」
一つうなずいて、春雪は視線を正面に戻した。珍しく、何かいたずらでも企んでいるかのような楽しげな笑みを浮かべている。和装や顔立ち故か落ち着いている雰囲気も、いつもとは違うが自然に馴染んでいた。
それは夕詩が知らなかっただけで、元からあった春雪の一面なのだろう。
そのまま歩いていくと、商店のような家屋の前で春雪が立ち止まった。実際にそこは商店らしく、壁と同じ色でわかりにくいものの看板があった。
「店主殿はおるか?」
「はーい。呼びましたぁ?」
春雪が中に声をかけると間延びした返事が聞こえ、棚と棚の間から夕詩と同じ年頃の少女がひょっこりと顔を出した。しゃがんで商品の陳列をしていたようだ。手にはまだ、生活用品を抱えている。
「昨日と同じ物を頼みたい」
「あー、あれですね。少々お待ちくださーい」
言い残して、少女は和服の裾をひるがえして軽やかにまた棚の間へと姿を消した。口調も動作も、蝶のように軽快で楽しげだ。愛想の面では、客商売には夕詩よりよほど向いているかもしれない。
「お待たせしましたぁ。あ、そちらの方がユウシさんですか?」
「うむ」
「じゃあお怪我が治ったんですね? よかったですねぇ」
している話から察するに、少女はこちらの事情を知っているらしい。春雪と親しげだから彼に聞いたか、このあたりで妖退治のことが噂になっているかのどちらかだろう。
店主の彼女は、夕詩の視線に気づくとにっこり笑った。
「ここの店主ですっ。お二人が妖退治に来てくださったことも、ユウシさんが大変だったことも聞いてます」
「店主殿には薬を売ってもらったのだ。私はこういった店は不得手でな、困っておったら彼女が手を貸してくれたのだ」
「いえー、お仕事ですからー」
少し幼い印象のある可愛らしい笑顔のまま、店主は春雪の言葉に謙遜してみせる。
なんでも夕詩の手当に使った包帯や薬は、全て彼女の店の商品だったらしい。しかも妖退治に来てくれた礼だと、かなり割引いてもくれた。
「よう、陰陽師の旦那。ウチの店にも顔出してくれよ」
「八百屋殿か。これはすまなんだ、つい話が長引いたな」
隣の店から声をかけてきたのは、春雪と夕詩のちょうど中間くらいの歳の少年。洒落た洋装――飲食店の従業員のような白の開襟シャツに、腰から膝までの丈の黒いエプロンが映える格好だった――がよく似合っている。
「今日もいいの入ってるぜ。おっと、あんたがユウシか?」
「あ、ああ」
「あんたのおかげで俺らは助かってる。感謝するぜ」
唐突に手を握られて夕詩は驚いたが、にっと笑った八百屋の少年には他意はないらしい。悪意なく、興味深そうに夕詩を見ている。
小柄な夕詩より、頭一つ分ほど背が高い彼に見下ろされても、それほど居心地が悪くはなかった。
「見るからに俺より年下なのに、すごいな」
「適材適所だろ。おれには戦うのが向いてただけだ」
「その通り。俺なら野菜を売ることだ。というわけでほれ、こいつはおまけな」
「うわっ」
およそおまけとは思えないほどの野菜が、夕詩の腕の中にどさどさと落とされる。
視線を送ると、春雪が買った分を持ってきていた籠に、さらに夕詩の渡された分も入れてくれた。
「では、これで失礼する。八百屋殿」
「おう。毎度ご贔屓に」
夕詩が振り返ろうとした間際、春雪が耳打ちをした。
「食事には、ここの野菜を使っておるのだ」
「…………。あんたのとこの野菜、うまい」
慣れない不器用な笑顔の夕詩の言葉は、まっすぐに八百屋の少年に伝わったらしい。さっきまでで一番嬉しそうに夕詩に笑いかけた。
「そりゃどうも、光栄だぜ。また来てくれよ、ユウシ」
「ああ。また」
帰路につきながら、夕詩はまた春雪の隣を歩く。二人共、両手には買い物をした品の入った籠や風呂敷を持っている。
「なんか、笑った顔のよく似合う人だったな。どっちも。それに……優しいんだな。おれみたいな通りすがりにも」
「うむ。だが彼らは、君があの日大蜘蛛を退けなければ、今日あのようには笑わなんだ。夕詩が、守ったのだぞ」
来た道を振り返り、夕詩は商店と八百屋を見つめる。その黒の瞳には、何が映っただろう。
視線を戻した夕詩は、自分でも名のわからない――知っているものがいくつか混ざっているような、それともまったく違うような――感情の表情を浮かべた。
「……おれは今まで、そんなこと考えもしなかった」
ぽつりと、それだけを呟いた。それでもそれは、けして暗いものでも後悔しているものでもなかった。新しいことを初めて知った、幼子のものにもどこか似た響きだった。
「今度は依頼だからとかじゃなく、ここのために戦う。あんたとも、戦うことを通してでもちゃんと向き合いたい。信頼したいんだ、あんたのこと」
春雪の淡い緑の目を見据えて、夕詩は言い切った。決意の宿った瞳は、まるで黒曜石のように輝いている。
「うむ。私もだ」
短い言葉で春雪は答えて、その綺麗な顔を綻ばせた。
「早いが、帰って昼餉としよう。決戦は今宵だ、体力をつけねばな」
「ああ」
夕詩が大蜘蛛を追い払ったあの夜、春雪はこの村に結界を施した。あくまで大蜘蛛を寄せ付けないだけのもので、数日もすればその効力はなくなるらしい。それが今日なのだ。
何度か春雪が様子を見に行ったところ、大蜘蛛は村に入れず相当腹を立てていたという。結界が消えた途端に村を襲おうとするだろう。
そこを叩くというのが、夕詩と春雪の出した結論だった。
*
村はずれの、民家もほとんどない場所。夕闇があたりを覆う頃、夕詩たちはそこにいた。
結界が消え、大蜘蛛が入ってくるのならばここの可能性が高いと春雪が言ったのだ。
確かに、ここから入れば最短距離で大蜘蛛は自身の築いた巣にたどりつける。もっとも、それは春雪がすでに滅している。
「君の戦装束は和服なのだな」
まだ大蜘蛛が現れるには少し早い時間だ。手持ち無沙汰なのは夕詩も同じで、大蜘蛛が来るであろう方向に注意を向けたまま、春雪の言葉に応える。
「こいつらも連れてくなら、この方が楽なんだよ」
夕詩は自分の腰帯に差した二本の刀に視線を落とす。打刀と脇差、どちらも長い間夕詩と共に戦ってきた相棒だ。
道着のように裾や袖が邪魔にならない、すっきりした意匠の黒い和服。それが今の夕詩の姿だった。
「あんたはいつも通りだけど、なんか時代錯誤だな」
春雪は普段と変わらず和装だが、今夜のものはより古風だ。闇に溶け込みそうな濃紺の狩衣。ゆったりした袖は纏められている。
和装自体は世間でもとりたてて珍しくないが、春雪のは端的に言うと古い型なのだ。今そのような格好をしている者は多くない。
「正装なのだ、一応。私の所属する陰陽師の寄合は、あまりに型を重んじ過ぎていてな。それだけでは、いずれ立ち行かなくなる。近々独立でもしようかと考えておる」
「ふうん。大変なんだな、陰陽師も」
春雪たちのような陰陽師は、並の人間では対処できない人外のモノと渡り合う力がある。そのため人々には尊敬されるが、彼らが普段どうしているのかなどといったことを知る者は少ない。
「そこでだ。その折には、私は君の力を借りたいのだが」
「おれに? あんたの相棒にでもなれってことか?」
「いや、無理にとは言わぬ。ただ、考えてくれれば良い」
今夜が、大蜘蛛を倒す最後の機会である大事な決戦の前に、春雪はそう語る。先のことを話されると、今度こそあの時追い払うことしかできなかったあの大蜘蛛にも、勝てるような気がしてくる。
いや、きっと勝てる。前とは違い、春雪がいるのだ。夕詩さえ彼を信じることができれば、おそらく優位に立てるはずだ。
それを実感した途端、墨を一滴落としたように不安が広がった。
信じられるだろうか。今まで他人を信用しようともしなかった自分に、出会って数日しか経っていない春雪を。
信じようとはしているつもりだ。しかしいざというとき、春雪を信じられずに判断を誤ってしまったら。また前回の二の舞だ。それだけは嫌だった。
「悪ぃけど、今は先のことなんか考えられねえよ」
「……そうだな。それに、そろそろ頃合いだ」
結界を張った春雪には、何時それが消えるかもわかるらしい。淡い緑の瞳が向けられた先で、薄い水の膜に似たものが弾けた。