水面を揺らす雨の波紋
昼餉の片付けを終えると、何かすることでもあったのか春雪は別の部屋に向かった。星影のいるこの部屋には春雪の荷物は置かれていないから、おそらくそれに用があったのだろう。
しばらくしても、春雪が戻ってくる気配はない。星影は視線を巡らせて、部屋の隅に自分の荷物があるのをみつけた。そこには打刀と共に脇差の影断も置かれていた。春雪が持ってきてくれていたようだ。
もう一度この部屋に通じる廊下の気配を探っても、春雪の気配は感じられない。
星影は半身を起こした。まだ傷が痛みはするが、とりあえず今のところ動くのには支障がなさそうだ。そうして影断を手に取った。
廊下とは逆側の障子を開けると、その先は縁側があり奥は庭だった。近くに民家がないせいか、広々としている。
玄関ではなくこちらに靴があったのは、春雪が星影を運ぶ時にできるだけ急いだからだろうか。好都合だと星影は靴を履いて庭に出る。
中央あたりに出たところで、すらりと影断を鞘から抜く。星影の瞳の色にも似た黒鉄の刀身は、大蜘蛛との交戦で汚れていたはずが手入れをされていた。これも春雪がしたのだろう。
影断を握れば、手に馴染んだ感覚が伝わってくる。そのまま星影は刀を振るう。空を切る音がする。
いつもと変わらない太刀筋に安堵した。怪我などで、いちいち弱くなってはいられない。
昨夜の大蜘蛛との戦いを思い出しつつ、今度は動きを加える。負けるのは一度きりだ。次こそ仕留めると考えれば、それは刀にも伝わり、より力が加わる。
何度か影断を振った頃だった。
「く……」
左腕の、特に深かった傷がその存在を主張し始めた。無視して影断を持つ手に力を込める。それを皮切りに他の傷も熱を帯びてきた。
「夕詩? 刀を振るう音が聞こえたかと思えば……」
ちょうど廊下を通りがかったらしい春雪が、星影の方へと駆け寄ってきた。
耐えきれず、星影の身体は崩れ落ちる。その年齢の割に小柄な身体を春雪が受け止めた。
左腕の傷は開いたらしく、白の包帯に鮮やかな赤が滲みだす。じわじわと広がるそれを止めようと、春雪は自分の髪をまとめている髪紐を解いて星影の腕に巻きつけた。
横抱きにされると、さらさらした春雪の銀髪が頬に触れた。触れている腕は優しく、案じるように向けられる若菜色の瞳が暖かい。
「何故安静にしておらなかった。例え他人のために動けても、自分が傷つくのならば意味がないのだぞ」
きちんと正座をした春雪が、星影を見下ろしつつ怒るような声音で言う。整った顔立ちの分、威圧感がある。
いたずらがみつかった子供のように、星影は顔ごと目を逸らした。
「……刀、握らねえと弱くなるだろ。おれは、強くなきゃいけねえんだ」
「それが全てではないだろう? 君が理由のない行動をするようには、私には思えぬ。訳があるのなら話してはくれぬか、夕詩」
ちらり、と視線を戻す。春雪の淡い緑の目がまっすぐに向けられていた。それは星影の知っているどんなものとも違っていて、鋭いのにそれだけではなかった。色々な感情が混じり合って、その色になっているかのようだった。
雨の気配をはらんだ風が吹き抜ける。下ろされたままの春雪の銀髪に戯れ、星影の鳶色の髪を揺らす。
空がいつのまにか曇っていて、今にも雨が降りだしそうなのだ。
「おれに」
「うむ」
続きを無理にうながすでもなく、春雪はただうなずいた。それが逆に星影にとっては話しやすかった。
「おれにできるのは、それだけ……だから」
星影は、誰かを笑顔にできるような言葉を持っていない。寄り添っていられる暖かさを知らない。守る優しさに触れたことがない。
ただ、戦うことだけができた。刀を振るって初めて、誰かのためになれることを知った。
「……そう、か」
何かを押し込めたような声で、春雪はそれだけを呟いた。きっと、そうでもしないと感情がにじんでしまうからだろう。
「みんな言うんだ。おれのこと天才だって。おれが何したって、天才だからだって。違う、のに。何もしてないのに、強くなれるわけない」
言っていることが飛躍しているのは、思ってもみない言葉がこぼれているのは、傷でも痛んでいるからだ。さっき春雪が言ったように、子供にでも戻って弱気になっているからだ。
うまくなんて話せなくていい。思うまま、言の葉を紡いでいく。
「剣術の才能はあったけど、それだけじゃない。おれはちゃんと努力して強くなって、なのにただの『天才』じゃ、そんなことしなくても強いって言われてるみたいで」
「うむ……」
「おれはそれが……どうだったんだろうな。嫌なのとも、悔しいのとも違って……」
そう言った星影の表情が寂しげに見えて、春雪はその頭を撫でていた。額が熱いから、熱で弱っているだけなのかもしれないが、星影はその手を振り払わなかった。
そしてもう一つ、春雪にはわかったことがある。
この子供はただ、誰かに認められたかっただけなのだ。認められないから、自分のことも信じられない。信じられないから、誰かが認めたところでそれに気づけない。
この強固な檻のような論理式を壊すための鍵を持っているのに、彼一人では開け方がわからないのだ。
「君が努力をしてきたことは、君の手を見ればわかる」
春雪に、その手助けができればいい。ただのお人好しや自己満足に過ぎないかもしれないが、縁があったからには力になりたい。
「頑張ってきたのだな。努力を続けるというのは、凄いことだぞ」
「……本当に?」
「ああ」
春雪がうなずいてみせると、ほっとしたような表情で星影が笑った。細められた黒の瞳から、ひとしずく涙が零れた。
「あれ……? おれ、なんで」
慌てて星影は目元を拭う。布団の中に顔をうずめて、春雪を見上げてくる。
その仕草はようやく年相応のものに見えた。星影は大人びているというわけではないが、子供らしくもないのだ。周囲が大人ばかりだったのか、背伸びをしている印象がある。
ぽんぽんと春雪は、もう一度星影の頭に手を置いた。
ほんの少しだけ震えている星影のそばから、春雪はしばらく離れなかった。
外では雨が降りだしていた。銀糸のような細かい雨は、地面に落ちてはあっというまに吸い込まれるそばから、水溜まりを作っていく。その水面に落ちた雨が、丸い波紋を描いていた。
さわりと時折風が吹くたびに、春雪の銀の髪が揺れる。その風は、しばらくして灰色の雲を吹き飛ばした。
「なあ。……春雪」
「……! 何だ、夕詩」
相変わらず春雪の方には顔を向けないまま、だが星影は初めて春雪の名を呼んだ。
星影はあまり他人の名を呼びたがらない。短い仲で終わる依頼人と親しくなることに、意味はないと考えていたからだ。だから春雪の名も、最初から一度も呼ばなかった。
今春雪を呼んだことは、星影なりの歩み寄りの姿勢なのだ。
そしてそれは春雪にも伝わったのだろう。表情こそ見えないが、声がこれまでにないほど嬉しげだった。
「……名前、ありがとう。あのさ、つけたからには責任持って呼べよな。あんただったら、応えてもいいって思ってんだからな」
これからは、名で呼び合うような関係になりたいという言葉にしなかった願いは届いただろうか。今はこれが精一杯だが、いつかまっすぐに伝えられるようになりたい。
「もちろんだ。君が望むのなら、私は何度でも君の名を呼ぼう」
あたりまえでありふれた幸せは、いつだって遠いものだった。縁がなかったはずのそれに、やっと手が届きかけていた。
「夕詩、か」
呟いて、星影――夕詩はとても幸せそうに微笑んだ。
『黄昏の詩』などという風流な名が似合う性格ではないし、その文字の持つ響きほど綺麗というわけでもないのは百も承知だ。それでも夕詩は、春雪がつけたこの名を悪くないと思った。
「良い名だろう? 君によく似合っている」
「おれはそんなに綺麗じゃねえよ」
「いいや、そのようなことはない。戦っている時の君の姿には、刹那的な美しさがある」
あまりに凛とした表情で春雪が言い切ったからか、夕詩にもそうなのかもしれないと思えてくる。少なくとも春雪にそう見えているのなら、夕詩にはこの名が似合っているのだ。
「ほら、熱もあるようだし眠ってはどうだ」
「……ん」
春雪にうながされ、夕詩は素直に目を閉じた。
それを確認してから、春雪は外に視線を向けた。淡い緑の瞳が見つめるその先で、空は沈みゆく陽に合わせ赤から橙、紫へと様々な色に染まっていく。
空が藍色になる頃、ふと春雪の表情が優しく綻んだ。
「ああ……。やはり、綺麗だ」




