天才剣士と陰陽師
そこそこの広さを持つ道場の中、移動する荒々しい足音と木刀を激しく打ち合う音が響いている。時に交ざるのは気合いの声だが、それもさして多いわけではない。
今試合をしているのは二人。他の者たちは皆それを見ている。鍛え上げられた巨体の男性に向かっていくのは、まだ十代の半ばだろう少年。
だがその太刀筋に迷いはなく、彼が横一文字に木刀を振ると、男性の手から大太刀を模した木刀が飛んでいった。
道場から出てきた少年が、一つ息をついて空を見上げる。どこか不満げにそれから目を逸らし、近くにある長椅子に座った。
鳶色の短髪に風が戯れる。同じ風に、近くの小さな草花もさわさわと揺れている。
長くは留まらず、彼はすぐにそこをあとにした。往く先には、木造の一軒家のような建物がある。
しかしそれが人の暮らす家ではないのは、一目見ればわかるのだ。なぜなら、その玄関にあたる部分に看板がかかっているからだった。
『相談処 八百万』
この辺りで長年、人々のあらゆる困り事などを解決してきた寄合所がここだ。
最初の頃はただの万という名前だったが、解決した依頼は万どころではないということから、八百万となった来歴を持っている。
「あら星影さん、朝から練習していたようですから、もう三時間程ですか。お疲れさまです」
竹箒で建物のさらに前にある入り口である、門の前を掃除しながら少年――星影に朗らかに挨拶をした女性は、『八百万』を取りまとめる管理人だ。いかにも事務仕事に従事していそうな、落ち着いた洋装をしている。
見た目こそ穏やかな女性だが、いざという時は容赦がない。『八百万』には、彼女をはじめとして一筋縄ではいかない者たちが多く所属している。もちろん星影もその一人だ。
「ん」
対して星影の返事は無愛想でそっけない。目も一瞬合わせるだけのものだ。
それを聞いて、管理人はぴたりと箒の動きを止めた。かと思うと、ずいと迫って星影の顔を両手で挟み強引に目を合わせる。
「星影さん? 挨拶くらいは、きちんとできるようになっていただかないと。うちは客商売ですからね。ではもう一度。お疲れさまです」
「お、お疲れさまです……」
星影が挨拶を訂正すると、彼女は満足げに頷いた。
彼女に逆らっても、いいことは一つもない。下手をすればこの地から遠く離れでもしない限り、一生路頭に迷うことになりかねない。
幼い頃から面倒を見てもらった恩もあり、星影は管理人に勝てないのだった。
「よくできました。後でお菓子でも差し上げますね」
「……子供扱いすんじゃねぇよ」
「あら。子供にお菓子をあげられるのは、年上の特権なんですよ? 楽しみなのですから、奪わないでくださいな」
くすりと上品に笑った管理人が竹箒を掃除用具入れにしまうと、奥の方から彼女を呼ぶ声がした。
「お客様のようですね。では星影さん、また後で」
桜色のスカートをひるがえし、彼女は奥へと向かっていた。基本的に客から相談を受けるのは、管理人の仕事だからだ。
特にすることもなくなった星影は、同じように奥へ往く。
『八百万』は広大な敷地を誇っていて、いくつかの施設がある。先程まで星影が剣術を練習していた道場もその一つだ。
中には星影のように住み込みで働く者もいて、彼らのための住宅である屋敷も存在する。
今星影が向かっているのもそこだ。やはり稽古用の木刀では物足りないので、自分の刀を取りに行くつもりだ。
歩いて二分とかからない時だろうか。
「星影くん、管理人がお呼びです」
ついさっき管理人を呼んだ事務員の女性――正確には大人と子供の中間の年頃だ――が星影に声をかけた。
「んだよ。何か用なのか?」
「もちろんですよ。さ、急いでください」
先導するように彼女が歩き出すと、ブーツが石畳を軽やかに叩き、椿の花弁のように赤い袴が揺れる。管理人とは対照的な格好だが、この『八百万』ではありふれた光景だ。和洋が混在しつつも、互いに干渉しない。
「ああ星影さん。お待ちしていました」
管理人がソファから立ち上がり、ふわりと微笑む。対面には、依頼人だろう和装の青年が座っていた。
薄氷色の着物と紫がかった青の袴に紺の羽織という、色合いの違う青だけで統一された格好のせいか、顔の外見年齢より落ち着いて見える。ただ、一つに束ねられた銀の長髪が人目を引く容姿だった。
「星影だ……じゃなくて、です。こんにちは」
視線だけだが確かに『きちんと挨拶をしろ』と言った管理人に負け、星影は依頼人に一礼する。
「では、こうして星影さんも来てくれたことですし、依頼についてお話しいただけますか」
「彼が、こちらの寄合所で最も腕が立つという剣士か」
「何だ。ガキじゃ不満かよ? ……ですか」
星影は反射的に言い返すも、二つのソファの間に置かれたテーブルの下で管理人に足を踏まれ、慌てて敬語をつけ足した。
「いいや、そのようなことはない。では」
居住まいを正して、青年は依頼の話を始めた。
「近くの村に妖退治を依頼されてな。元は私に来た依頼なのだが、人手が足りぬのだ。戦闘になるやもしれぬから、こちらで剣の腕が立つ者の力を借りれないかと思い、来た次第だ」
「妖退治の依頼、ですか……。失礼ですが、貴方は?」
「これは申し遅れてすまない。私の名は春雪、陰陽師のようなものだ」
陰陽師――古い時代から、主に妖怪に関連する案件を解決してきた者だ。その数こそ多くはないが、確かに人々に信頼されている。
「わかった。やってやる」
「星影さん? 珍しいですね、自分から依頼を受けるだなんて」
「おれのこと、見かけで判断しなかっただろ。見る目あんじゃねえか。そういう奴の依頼なら、受けてやってもいい」
星影は天才剣士だ。少しでも剣に関わりがあれば、その名を知らない者はいない。幼い頃から剣の才能を見せ、大人が相手だろうと渡り合う。だが彼の姿を見たという人は少ない。
『八百万』の中に一般人が立ち寄ることはまずない。そして星影は、自分の気に入らない依頼は受けない。よって星影が人前に姿を現す機会は極端に少ないのだった。
「星影さんもこう言っていることですし、そのご依頼、お受けします。星影さんをよろしくお願いします」
「感謝する。管理人殿」
「決まったなら、おれは準備してくるぜ」
手早く準備を済ませたらしく、それから数分もしないうちに星影は門に来た。年相応の洋装だが和柄なのは、彼の服を選んでいるのは管理人の彼女だからだ。
「それにしても、君は良い目をしているな。強い意志が見えるかのようだ。名は何と申すのだ?」
「ああ? ちゃんと名乗ったろ。星影だって」
「それは苗字だろう?」
「あー、そういうことか。ま、仲間内ではユウシって呼ばれてるよ」
星影は捨て子で、運良く『八百万』先代の管理人に拾われた子供だ。だから名前は彼らがつけてくれたのだが、名を書くことはめったにないため、苗字はともかく名前は文字までは考えられていなかった。
「では、私もユウシと呼んでもいいか?」
「好きにしろよ。依頼こそ受けたけどよ、おれは必要以上にあんたと馴れ合う気はねーからな」
言いつつ、星影は結局管理人に押し付けられるようにして貰ったクッキーを口に放り込む。さくりとした軽い音が、小気味良く鳴った。
「洋菓子か、洒落ているな」
目を留めた春雪が、星影の方へ顔を向けて話しかける。その動きに伴って、銀髪の一部がさらりと肩口から流れ落ちた。
「別に珍しくもねぇだろ。それにこれは管理人の趣味だ」
「ふむ、そうか」
じとりと黒色の瞳で星影は春雪を見る。何故これほどまで他愛ない話を投げかけてくるのだろう。
これまで接してきた大人は、良くも悪くも星影を子供扱いするか、子供だからといって舐めてかかってくるような相手ばかりだったからだ。
「時にユウシ、妖退治の経験は?」
「前に一、二度。そーいうのは、こっちの専門じゃねえからな」
妖退治は、陰陽師の専門分野だ。そのため星影が妖と遭遇したことがあるのは『八百万』で受けた依頼で、偶然原因が妖だった時だけだ。
「では、慣れぬ戦いになるだろうな。君の刀は彼らか?」
「そうだよ。おれの相棒たちだ」
星影は腰に一振、背にくくりつけもう一振刀を持っている。どちらも大きくない、脇差と打刀だ。
「よほど信頼しているのだな」
「当然だろ? こいつらは、おれを裏切らない。おれの腕も、こいつらを裏切らない。人間なんかより、よっぽど信用できるぜ」
どこまでもまっすぐな漆黒の瞳で、星影は言い切った。
かける言葉を思いつかなかったのか、春雪はそれに何か返しはしなかった。
それからしばらく、彼らが声を発することはなかった。
「……彼処だ。依頼のあった村は」
しなやかな指が、道の先にある村を指差した。