歯のない歯車
これは特に行間を読んでいただきたい作品です。
一度だけ読むだけでなく、ぜひ幾度か読み返してみてください。
これは私が大学生だった頃の話です。それはとても昔のことでありますが、私には忘れたくても絶対に忘れられない出来事です。しかし、きっと彼はそれをとっくの昔に記憶から抹消してしまっているでしょう。それは私にとって非常に恥ずかしい事件でありましたが、彼にとってはどうとでもない話なのです。それでも私は、ずっと一緒にいて、相棒とさえ思っていた彼のことを、一生忘れることができません。
ある日、私は食堂で昼食を取っていました。食べていたのはカツ丼です。それはあまり美味しいものとは言えませんでしたが、なぜか癖になるような味であり、私が食堂に行ったらほとんど必ず食べていました。
私がガツガツとそれをかっこんでいると、誰かが向かいの席に座ったのに気が付きました。それが例の彼です。彼の手元には、ほくほくと湯気の立っているうどんがありました。私もそれを二度三度だけ注文したことがあります。味は若干薄いように感じましたが、ネギが驚くほど美味しかったです。彼の話によれば、そのネギは食堂のおばちゃんの近所に住む農家から直接購入しているものらしいです。
私は意外に思いながら「なんだ、お前か」と呟きました。彼から私に近づいてくるのは珍しかったからです。彼は私が話しかけない限りは全く孤独な人間でした。
しかし彼は特に発言することもなく、うどんをすすり始めました。私の問いかけをしかとしたのです。それでも、この彼の行為は、彼にとって異様なものではありませんでした。彼はいつでも私の予測することと全く別のことをするのです。心の中を読み取ることがほとんどできないのです。ですが、私は逆にそれが面白くて堪りませんでした。彼の斜め上を行く言動は私の興味を掻き立て、気付けば私はいつでも彼と行動するようになっていました。
私も彼の話す気配がないと感じ取ると、それ以降は何も言葉を発することなく、再びカツ丼の味を堪能し始めました。
すると彼は突然話し出しました。「うどんは頼まないのか?」
「は?」私はつい不躾な反応をしてしまいました。しかし急にそのような質問をされてはこう返事してしまうのも仕方のないことでしょう。それに、彼はどんなことを言われてもほとんど動じないような人間でした。反応が悪くても全く落ち込まないのが彼だったのです。
彼は黙々とうどんを食していました。それから何も喋りませんでした。まるでうどんをすするだけの機械かのように。
私も彼と同じようにカツ丼をしたためようと思いましたが、さすがに問いかけに対し何も答えないのは私の心がいたたまれないものになるので「明日頼む」とだけ返しておきました。そんなつもりは一切ありませんでしたが。
その後も彼は顔色一つ変えずにうどんと向き合っていました。さっきの返答は聞こえていたのだろうか、と私は不安になりましたが、きっと聞こえていたでしょう。彼は本当に心の読めない人間です。何はともあれ、私もようやくすっきりした気持ちでカツ丼を味わうことができるようになりました。
しかし、二人黙って向き合い食事をしているうちに、この空間が変な気体に侵されていくように感じ、次第にカツ丼の味もよく分からなくなってしまいました。
ついに私はこの空気に耐え切れなくなって、彼にこう尋ねました。「何を考えているんだ」と。
彼はうどんを一すすりして言いました。「何も」ただこれだけです。
何も考えていないわけがないだろう! と私は僅かな怒りを覚えました。どんな人間でも考えることはあるはずだ。
彼はうどんを食べ続けていました。あたかも、ついさっきの質問などなかったかのように平然と。私はすっかり食欲をなくしてしまいました。
一旦私は箸を器の上に乗せ、椅子の背もたれに寄りかかりました。そして深呼吸をして、残りのカツ丼をちらりと見ました。目を移して彼のうどんを一瞥しました。私より後に来たのに、そろそろ完食するくらいの量に減っていました。次に彼の顔を見ようとしました。しかし彼はうどんに視線を注ぐばかりで表情などさっぱり見えませんでした。仕方のないのでまた自分のカツ丼の方を見やると、彼が、ズーズーと鼻をすする音が聞こえました。まさか、すすり泣いているのだろうか。彼は孤独な人間だ。もしかしたら、他の誰にも言えない悩みを打ち明けに私の元へやって来たのかもしれない。きっと言い出そうとして声が詰まってしまったのだろう。私はそう思い、彼の様子を再び窺おうと顔を上げました。
彼は単に鼻水が出たので鼻をすすっていただけでした。全く泣いてなどいませんでした。しかし、そのおかげで彼の表情は見て取れました。無表情です。まるで本当に何も考えていない風でした。
ふと彼と目が合いました。彼はすぐに目線を下にそらし、私は逆にそらしました。
「実のところ、一つだけ思うことがある」無彩色な声で彼は言いました。
私は一瞬驚きました。きちんと考えていたのか、と。「何だ」私は考えを言うように促しました。
それでも彼はなかなか答えませんでした。視線はずっと下を向いており、まるでうどんに話しかけているようにも見えました。しかしそこにうどんはもうありません。あるのはうどんのつゆだけでした。彼は長い間、水面上に映る彼自身の顔を見つめていました。それから突然器を持ち上げ、一口だけつゆを口に含み、飲み込むように胃へ流しました。器をまたテーブルの上に戻します。あまりにも急な動きだったため、液体が少し溢れてしまっていました。
それから彼は小さく息を吐きました。また沈黙。
「早く言ってみろ」私はつい厳しく言ってしまいました。あまりにも返答が遅いので、じれったく思ってしまったのです。
彼は未だに言いよどんでいるようでした。
「相談なら何でも聞くぞ」今度は優しく言いました。言い出せないのは何か深く悩んでいるせいだ。私はそう考えたのです。
彼は唇を軽く噛みました。そして「俺は」と言って言葉を切りました。
私は寛容な心持ちで続きを待ちました。しかし、彼の言葉は非情なまでに意外でした。
――「俺はお前が嫌いだ」刹那私の耳から全ての音が消えました。
彼は確かにそう言ったのです。単純な文章を言葉にする。いつもの彼でした。
しかし、そのような言葉が彼の口から発せられるとは、あまりにも衝撃的でした。ずっと一緒にいたのに、どうして彼は何も言わなかったのでしょう。私には見当もつきませんでした。
同時に、私は周りのものの動きが大変スローに流れるように見えました。彼と私との間から色彩が消滅しました。色彩のあるのは、残されたカツ丼と、つゆだけのうどんだけで、それ以外はグレーでもの寂しく、心無く描かれていました。ふと、私は胸に鋭い矢が刺さり、赤い血が垂れてくるという錯覚を起こしました。当然、実際にそんなものはありませんでしたが、痛みは本当に存在し、しばらくの痺れを私に与えました。
一方で、彼の唇は震えていました。彼の緊張した顔がこちらを見つめています。私は彼の目を直視することができず、目をそらしました。しかし、彼の視線は今もなお私に向いているように感じられました。その感覚が私の恐怖の念を異常なほどに刺激し、つい失神してしまいそうな気になりました。しばらくの間私はその感覚に堪えていました。しかし、ほんの一瞬でしたが、ついに私の意識が飛んでしまいました。そして我に返ると、私はいつの間にか彼の目を見つめてしまいました。同時に、私はあることに気付きました。
彼の目に光などありませんでした。あるのは曇りに濁った泥のような黒だけでした。夢も希望もない、無機物といっても過言ではない瞳が私を見つめていました。
私はその目に吸い込まれそうな気持ちになりました。それが彼の真の心を表しているように感じたのです。すると、彼は突然立ち上がりました。急な出来事に私はついびくっと体を跳ね上げてしまいました。それと同時に、私は彼の瞳を追いかけようと顔を上げました。
すると、彼のそれはこちらを睨んでいました。まるで、とんでもないものを発見したときのように。私はその勢いに圧倒されて、石にされたかのように固まってしまいました。
しばらく対峙していると、彼は早歩きで食堂を去って行きました。何よりも速い動きで、誰にも知られることなく去って行きました。
残されたのは、私と、私のカツ丼と、彼の完食したうどんだけでした。彼はうどんの器を片付けずに去るという無礼な行動を起こしましただ、私にはもはやどうでもいいことでした。
彼が私のことを嫌いだと思っていたということ。それが私を酷く辱め、深く心に傷を与えました。
その後は、彼から私に話しかけることも、こちらから彼の元へ訪ねることもありませんでした。私と彼は最後の会話によって、完全に分離したのです。
実はこれ「相棒」「すすり泣く」「衝撃」の題を折り込んだ三題噺なんですよね。読む上で気にすることはありませんが。
文フリの一次評価は「ポイント評価」と「アクセス数」を元に行うようなので、どうか評価してくださるようお願い申し上げます。