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幕間 騒がしき日々は、かけがえなき日常 その一

「あれ……? 誰も居ない?」

 放課後。

 レナは、人気のない医務室に首を傾げた。

 ヒナコはもちろん、他の医者や看護婦の姿もない。騎士養成所という顔を持つ学園故に多い怪我人も、今は珍しく来ては居ないようだった。

 おそらく偶然に偶然が重なって、こんな状況になったのだろうが……

「これ、大丈夫なの? もしも急患が来たら、誰も対応出来ないじゃない」

 変な所で緩いこの学園らしいと言えばらしいかもしれない。しかし、さすがに問題がある気がして、レナは呆れを含んだ溜息を吐いた。

 キジムとの死闘から、三日。

 毒を受けたミヨは昨日復帰したばかりなので、今はヒナコに一週間は絶対安静を厳命されたフウガだけが、ずらっと並ぶベッドの一つに横になっている。

 そう、レナが医務室を訪れたのは、そのフウガの見舞いのためだ。彼が寝込んで以来、放課後には、毎日こうやって顔を出している。

 もちろん、それはレナだけではない。ライやゴウタ――さらにはウズメまでもが一緒なのだが、今日はたまたま彼女だけが先に来る事になったのである。

「さて」

 気を取り直して、一歩踏み出す。

 微かに外の喧騒の声が聞こえてくる以外、しんっと静まり返った医務室内。新鮮の空気を入れるために空けられた窓から入ってくる春の風が、清潔な白いカーテンを揺らしていた。

「…………」

 静寂の空間を、レナは無言で進む。

 そして、目的の人物のベッドの傍まで来て、彼女は気づいた。

「…………寝てるし」

 フウガは静かな寝息を立てて、眠っていたのだ。

 レナは、二度目の溜息を吐いた。

 手に持っていた紙包みを棚の上に置く。中身は、フウガが怪我で動けない事を知った食堂のおばちゃんにもらった林檎である。

 見舞いに行くならやっぱり林檎でしょ! ……という、わかるようなわからないような理屈で半ば無理矢理に渡されたのだ。

「だけど、肝心の渡す相手が寝てるんじゃあね」

 まだ誰も医務室にやって来る気配はない。

 フウガは寝ているし、他には誰も居ないしで、レナは完全に手持ち無沙汰になってしまう。

 仕方ないので、なんとはなしにフウガの寝顔を観察する。

 少年は、普段の悪人面と呼ばれる面影など全く感じさせない、穏やかな表情で眠っていた。むしろ、年相応のあどけなさすら感じさせる寝顔である。

(……なんだ。こうやって見ると、全然、悪人面なんかじゃないじゃない)

 なんとなく可笑しくなって、レナはくすりと笑う。

 微笑ましさと共に、無意識に手が伸びる。指が少年の頬をそっと撫でて――

「…………あっ」

 口元の近くを通ったときに少年の寝息が指に掛かった。

 どくんと心臓が高鳴った。

 途端、視線が規則正しい寝息を吐き出す少年の唇から離せなくなる。

 同時に脳裏を掠めたのは、三週間近く前の〈練技場〉での光景。

 ウズメが、フウガに突然の口付けをした――あの場面。

(…………駄目)

 咄嗟に己を制止する。

 必死に理性へと訴えかける。

(…………駄目よ、何を考えてるの、私は……)

 なのに。

 その意思に反して、彼女の身体は少年へと近づいていた。

 いけないと、そう思うのに。わかっているのに。

 一度、意識してしまったから、もう止まる事が出来ない。

 今、この場に自分と少年以外、誰も居ないという事実もそれを後押ししてしまっていた。

 ……少年の顔の向こう側に片手を置く。

 ……それを支えに、覆い被さるように顔を近づける。

 不意に、ぎしっとベッドが軋んだ。

「…………っ」

 反射的に、少年の顔を覗うが起きた様子はない。

 レナは、ほうっと安堵の息を吐く。

 もうすでに、少年の顔は目の前にある。

 あと数センチ、近づけば互いの唇は触れ合う。

「…………」

 誰か。

 どうせ誰か人が来て未遂に終わるんだ――

 そんな勝手で、確証などない期待。

 それがあるからこそ、こんな事が出来てしまっている。

 だけど――


 全てが終わるまで、医務室には誰も訪れなかった。


 徐々に恐る恐る近づいた少女の唇は。

 誰の邪魔も入る事なく少年のそれと触れた。

「…………っ!!!」

 だが、それも一瞬。

 弾かれるように少年から離れる。

 背後のベッドにぶつかって、そのままずるずると床に座り込む。

「あ…………」

 声が漏れる。

 顔はもう、茹で上がった蛸のように耳まで真っ赤。

(……しちゃ、った……)

 寝ている少年に、こっそりと勝手に。

 してしまった。

 羞恥心と背徳感で、しばらく動けなかった。

 その後、慌てて周囲を覗う。

 誰も居ない。誰も見ていない。

 それを確認して、改めて胸を撫で下ろす。

(…………私、最低だ)

 こんな事、本人が知ったら、どう言うのか。どう思うのか。

 ……いや、きっと。

 彼は動揺しながらも、結局、レナの事を許すのだろう。

 フウガは、そういう人間だ。

 そんな事は、もう呆れるくらい理解している。

 そんな少年だからこそ――自分は好きになったのだから。

 心臓の激しい脈動は未だ収まらない。

 こんなに動揺してるくせに、触れ合った唇の感触だけははっきりと覚えていた。

 レナは何度も頭を振って、なんとか平静を取り戻そうと努める。

 と、そこで。

「――――っ!」

 唐突に、とんでもない事実に思い当たった。

(あ、ああああああああああ!)

 あまりに迂闊。

 あまりに馬鹿。

 なんで、忘れていた!

 なんで、気づかなかった!

 レナは慌てて立ち上がると、誰も居ない空間にそうっと呼び掛けた。

「オ、オロチ……?」

 返事はない。

 もしかしたら、今は幻体で意識を飛ばしていて、少年の中には居ないのでは――と、そんな淡い期待が過ぎって。

『――おや、お前が私を呼ぶとは珍しい』

 当たり前のように、そんな返事があった。

「…………」

『む? どうした?』

「……………………」

『お前が呼んだのだろう? どうか言ったらどうだ?』

「…………………………………………」

『おーい? レナ?』

「………………………………………………………………見た?」

『は?』

「だから、さっきの見てたの?!」

 少年が起きないよう小声で――しかし、噛みつくような迫力で問い詰める。

 オロチは、数瞬ほど間を空けた後、思い当たったように言った。

『ああ、なるほど。うむ、見てない。私は、何にも見てないぞ。お前がフウガが寝ている所に、こっそりひっそり口付けする所なんて見てはいないぞ』

「思いっきり見てるんじゃないの!! ……あ」

 思わず怒鳴って、慌てて口を押さえる。

 幸い少年は、寝苦しそうに唸っただけで目は覚まさなかった。

 これにほっと息を吐いた後、改めてオロチの憑いた少年の身体を睨めつける。

「…………言う気?」

『言うとは?』

「だ、だから、フウガにキ、キスした事をよ……っ」

『なんだ、そんな事か。なに、安心すると良い。私は紳士なのだぞ? そんな告げ口などという低俗な真似はせんよ。まあ、そうだな……せいぜい無意識に鼻歌で歌うぐらいだ」

「十分、駄目でしょーがあっ!!!! ……あ」

 再び口を押さえる。

 しかし、またしても運良く少年は起きない。

『ぬはははっ、怪我人の前で発声練習はいかんぞ。ちなみにフウガは、今だけ私が〈妖術〉で目覚めないようにしておいたりするのだがな』

「…………はったおすわよ、本当に?」

 レナは、必死に怒りを抑え込んで、引きつった笑みを浮かべた。それでも抑えきれないものが、こめかみをぴくぴくと痙攣させる。

「う、ううーん……??」

 すぐ傍で立ち昇る怒気に当てられたのか、汗びっしょりになったフウガがうなされる。完全なる、とばっちりである。

 しかし、そんなものはどこ吹く風のオロチは、ひとしきり笑った後、

『――まあ、冗談さておき、あれだ』

 と、不意に声に僅かな真剣味を帯びさせて言った。

『本当に告げ口などせんから安心しろ。若気の至りは大いに結構。そういう失敗を重ねて、人は成長するものだろう?』

「……何よ、偉そうな事を言っちゃって」

 レナは腕を組んで、不満の表情を全く隠さない。

 何が楽しくて、妖魔に人生を語られなければならないのか。

 これに、オロチは心外だと言わんばかりに返してくる。

『おやおや、私はこれでもお前の何十倍も生きているのだぞ。偉そうな事の一つや二つ言うさ。……いや、しかし、いつの時代も若者が恋心に翻弄される姿は変わらんものだな』

 オロチの言葉の中に意外な一言聞いて、レナは訝しがる。

「おかしな事を言うわね。まるで、私以外の誰かの恋愛を見た事あるみたいな物言いじゃない」

『いや、実際あるのだ。もう随分前の話になるが、まさにお前と同じこの学園の候補生のものをな。普段は飄々としていた“あいつ”の酷い狼狽ぶりは、なかなか愉快――いやいや、微笑ましいものだったよ』

 どこか楽しそうに、オロチは過去の記憶を語る。その声には、懐かしむ感情と一緒に、不思議と優しい響きが在った。

「…………」

 レナは不可解に思う。

 オロチは五十年前に〈八尺瓊勾玉〉に封印されて以来、ずっとこの学園の〈極・重要宝物庫〉へと押し込まれていたはずだ。あの場所は、レナのときのように無断で鍵でも持ち出さない限りは、滅多に人が立ち入る事はない。そんな所で、一体どうやって、誰の恋愛を知る事が出来るというのだろう。

(……相変わらず……よくわからない奴……)

 あまりに掴み所がなくて、思わず相手が妖魔だという事を忘れそうになる。

 フウガほどではないにしろ、レナにだって妖魔へ対する嫌悪や警戒の感情はある。だと言うのに、このオロチという妖魔は、話している内にそんなものをまるで無意味だと思わされそうになるのだ。

『……と、私が昔話をしても仕方なかったな』

 ふと、我に返ったようにオロチが言う。

『それよりも、一応は長生きな私から、お前に一つだけアドバイスしておこうか』

「アドバイス?」

 そして、オロチは少女へと告げた。

 からかうのではなく、本当にただ助言するというような物言いで。

『恋敵が強敵だから、自分を卑下してしまいそうな気持ちはわかるがな。一度、そういうものを全部忘れて、ウズメと同じように自分の気持ちを正直にフウガへと伝えてみる事だ。こいつは、きちんとお前達の気持ちを考えた上での答えを返してくれるだろう。スサノ・フウガは、そういう男だ。お前とて、それはわかっているのだろう?』

「…………!」

 レナは、目を見開いて絶句する。

 見事なまでに本心を見透かされていたからだった。だから、反論の言葉も出てこない。

 ただ呆然と、オロチの宿る少年の横顔を見つめた。

『もちろん、素直に自分の気持ちを伝えるというのが口にするほど簡単ではないのもわかってはいるがな。だが、それでも、お前はそれが出来る女だと私は思っているよ』

「……っ! か、勝手に人の事をわかった風に言わないでよね!」

『ぬはは、すまんすまん。これ以上、怒られては堪らんな。フウガに掛けた〈妖術〉を解いて、さっさと退散するとしよう』

 その言葉を最後に、その場からオロチの気配が消える。

 少年の奥底に潜ったか、意識を別の場所に飛ばしたのだろう。

「…………」

 再び、静けさを取り戻した医務室。

 気づけば、もう随分と日が傾いていて、橙色の光が医務室へと差し込んでいた。さすがに、そろそろライ達もやって来る頃だろう。

 レナは、ぼんやりと少年の寝顔を見る。

「素直に、か……」

 ぽつりと呟く。

 オロチは、自分にはそれが出来るとは言ってはいたが、レナ自身はとてもそうは思えなかった。

 いざとなると恥ずかしさが先行して、怒鳴ったり、目を背けたり。

 いつだって逃げてばかりだ。

 でも……

「逃げっぱなし、負けっぱなしは確かに性に合わないのよね」

 両手で自分の頬を叩く。

 うん、と誰へでもなく頷いてみせる。

「今は無理でも、そのときが来たら私だってやってやるんだから」

 そう。

 今はそのときじゃない。

 オロチの呪いやシラユリの事。そして、今も少年を苦しめ続ける、あまりに辛い九年前の出来事。

 これ以上、この少年に何か背負わせるような事はしたくはないのだ。

 伝えるのならば――そう、せめて、オロチの呪いとシラユリの件が片付いた後。

 そのときまでには、自分もウズメに負けないくらい強くなろう。勇気を持とう。

「でも、とりあえず今は……」

 すっと視線を隣に滑らせる。

 棚の上には、紙包みから零れ落ちた林檎が一つ。

 鮮やかな紅色のそれは、夕陽に照らされて、見た事ないような不思議な色合いを見せていた。

 それを手にとって、少女は淡く微笑む。

「起きる前に、一つぐらい剥いておいてやろうかな。せっかくだしね」

 ……今は、こんな形でしか表せないけれど。

 いつかきっと、この想いを確かな言葉にして、この少年に伝えてみせる――

 そんな決意をした、少女の午後の一幕であった。

お読み頂きありがとうございました。

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