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DEATH NOISE

作者: r.crues
掲載日:2026/04/10

 魔王である。

 生まれた瞬間からそうだった。名を呼ばれる前から、周囲の者たちは膝をついていた。乳母は震える手で産着を着せ、侍女たちは顔を上げることができなかった。泣き声すら、あの頃から違ったのだと後に語られた。ただの産声が、石造りの城壁をびりびりと震わせたのだという。


 自分ではよく覚えていない。

 ただ、物心ついた頃には既に「そういうもの」だった。自らが部屋に入れば空気が変わる。廊下を歩けば前方が自然と開く。命令したわけでもないのに、誰もが道を空けた。恐れからではない、と最初は思っていた。だが違う。恐れだ。純粋な、本能に根ざした恐れ。それが心地よかった。

 これが正しい秩序というものだ。

 魔の頂点に立つ者が、全てを統べる。それ以外の在り方を、ヴァルゴス=クロウディアス三世は想像したことがなかった。想像する必要もなかった。


 世界とはそういう構造をしている。強い者が上に立ち、弱い者が従う。

 そして魔王である余が「世界を獲る」

 その欲求は、生まれながらに魂に深く縫い付けられた絶対の理であった。シンプルで、美しく、揺るぎない。

 だから人間どもが攻めてくることも、余には理解できた。頂点を獲ろうとするなら、頂点に挑むしかない。それだけのことだ。



 今日で何度目になるか。

 魔王城の正門前、積み上げられた瓦礫の上に立ち、ヴァルゴスは押し寄せる軍勢を眺めた。鎧の軋む音、馬の嘶き、金属と金属がぶつかり合う硬質な響き。兵士たちの絶叫が波のように押し寄せては、砕ける。

 悪くない。

 この音が、好きだった。理由を考えたことはなかった。ただ、血が騒ぐ。本能の奥の、言語化できない何かが、この混沌の音響に反応する。静寂よりも、この不規則な轟音の方が、どこか——


 「行くぞ、勇者よ!魔王を討ち取れ!」


 考えが途切れた。

 先頭に立つ騎士が剣を掲げた。鎧は傷だらけで、それでも目だけが燃えている。何度叩き潰されても来る。ヴァルゴスは密かに、この男のことを気に入っていた。もちろん顔には出さない。


 ヴァルゴスは口を開いた。

 言葉ではない。叫びでもない。

 ただ、声を出しただけだ。


 最前列の兵士たちの足が、止まった。

 「な、なんだ……これは」騎士が呻いた。「魔法か?闇魔法による畏怖の声か」

 「魔法陣の展開は確認できません」後方の魔法使いが震える声で答えた。「魔力の流れが……ない」

 「では、なぜ」

 「ただの、声、です。魔法を使った形跡が、まったく」

 騎士は奥歯を噛んだ。鎧の下で膝が笑っているのを、意地だけで堪えていた。


 「ただの声で……これだけの」


 ヴァルゴスには、その会話が聞こえていた。

 ただの声。そうだ。それ以外に何がある。

 魔王は右手を持ち上げた。


 そして、その日の夜。

 謁見の間の玉座に一人座り、ヴァルゴスは今日の戦いを反芻していた。鉄の音。炎の音。そして悲鳴と、歓声と、崩れる瓦礫の音。


 あの音の混ざり合いの中に、何かがある。

 うまく言えない。ただ、戦いが終わった後も、この耳にあの響きが残っている。残滓のように。なぜだろう。別に不快ではない。むしろ——


 玉座の間の扉が勢いよく開いた。

 「魔王様!大変でございます!勇者一行が再び!今度は女神の加護を受けた聖なる——」

 「わかった」

 ヴァルゴスは立ち上がった。

 また、あの音が聞けるか。



 それが最後の戦いになるとは、思っていなかった。

 女神から与えられた聖剣で、時空を切り裂いたゲートで異世界に飛ばされたのだ。





 東京、下北沢。

 午後十一時。

 ライブハウス「GATE」のステージに、田中タケシは一人残っていた。

 客席には誰もいない。さっきまでそこにいた三十数人の熱気が、もう跡形もなく消えている。折りたたみ椅子が雑然と並んだままの空間は、人が去った後の独特の虚無感を漂わせていた。アンプの電源は入ったまま。スタンドに立てかけたギターが、蛍光灯の白い光を鈍く反射している。


 三十二人。

 今日の動員数だ。

 タケシはステージ端に腰を下ろし、セットリストが書かれたA4の紙を見ていた。見ていたが、読んでいなかった。

 六年だ。このバンドを組んで六年になる。最初はもっと少なかった。十人、二十人と増えてきた。二十代の半ばには一度、五十人を超えた夜もあった。あの時は本気で「来た」と思った。それが今、三十二人。


 メンバーたちは打ち上げに行った。タケシは頭痛がすると嘘をついて残った。

 「トレンドのせいだよ」とベースの山口が言っていた。「メタル自体が今厳しいんだって。俺たちの問題じゃない」

 「そうそう」とドラムの竹内が続けた。「わかる客が少ないだけで、音楽は絶対に間違ってない」


 間違ってない。

 タケシはギターのネックを指先でなぞった。

 間違ってないのはわかってる。六年かけて積み上げてきた。音楽理論も、テクニックも、アレンジも。このバンドの演奏クオリティは本物だ。自分で言うのもなんだが、そこに迷いはない。


 でも。

 それじゃ、足りないんだ。

 なんというか——「引力」がない。演奏が終わって、拍手をもらって、でも客の目に「また来たい」という光がない。満足はしてる。でも、求めてない。あの、ステージに惹き寄せられるような、目が離せないような、あの感覚を客に与えられていない。


 カリスマ、という言葉が頭に浮かんで、タケシはすぐに打ち消した。

 安易すぎる言葉だ。でも他に言いようがない。

 技術で補えるものじゃない。理論で説明できるものじゃない。ステージに立った瞬間に空気が変わる、あの「何か」。生まれ持った者と、そうでない者がいる。タケシは後者だった。六年かけて、ようやくそれを認められるようになってきた。

 認めたからといって、どうにもならないのだが。


 「はあ」

 誰もいないステージで、タケシは声に出してため息をついた。

 その瞬間だった。


 どん、という音がした。

 音というより、衝撃だった。床が揺れた。いや、空気が揺れた。ライブハウスの薄い壁がびりびりと震え、スタンドのギターがわずかにぐらついた。


 天井から何かが降ってきた。

 人間だった。

 黒いローブを纏った、長身の人間が、ライブハウスのど真ん中に着地した。埃が舞い上がった。折りたたみ椅子が二脚、吹き飛んだ。


 タケシは固まった。

 その人間は、ゆっくりと立ち上がった。身長は百九十センチを超えているだろう。ローブの裾が床を引きずっている。長い黒髪が乱れていた。顔が見えた。

 整っている、という言葉では足りない。人間離れした造形だった。彫刻のように動かない表情。瞳は暗い紅色で、ライブハウスの蛍光灯の下でも、どこか違う光源から照らされているように見えた。


 その人物は、周囲を一度だけ見回した。

 タケシの存在を確認した。

 そして、口を開いた。


 「おのれ、勇者どもめ」


 タケシの頭の中で、何かが弾けた。

 声だった。

 ただの声のはずだった。怒りの言葉を吐いただけのはずだった。でも。

 その声の底に、心臓を内側から引き裂かれるような、聞いた者が目を離せなくなる得体の知れない引力が折り重なっていた。恨みでも嘆きでもない、もっとドス暗い何か。大地の底から滲み出てくるような、人間の言葉では名前のついていない感情の残滓。


 ライブハウスの壁が共鳴した。アンプが、電源を入れたままのアンプが、勝手に唸った。床の振動がタケシの足の裏から背骨を伝って頭まで突き抜けた。


 低い。異常に低い。でも潰れていない。輪郭がある。ザラついていて、それでいて芯がある。まるで地獄の最下層に無理やり頭を突っ込まれたような、死の匂いのする声(デスボイス)。まるで——

 まるで。


 「これ、だ」

 タケシは気づいたら立ち上がっていた。


 男がこちらを向いた。表情は変わらない。ただ、紅い瞳がタケシを真っ直ぐに見た。それだけで足がすくむ。膝が笑う。でもタケシは下を向かなかった。


 「なんだ、貴様は」

 「た、田中タケシです、ギタリストです、あの、えっと」


 言葉がうまく出てこない。当然だ。天井から人間が降ってきた直後だ。

 タケシはとっさに手を伸ばした。

 スタンドのギターを手に取った。指が勝手にコードを押さえた。震えていた。震えていたせいで、ピッキングのタイミングがずれた。


 歪んだ音が、ライブハウスに響いた。

 エフェクターのメタルゾーン、踏みっぱなしのやつ。重くて、荒くて、ザラザラした、ディストーションサウンド。


 男が、止まった。

 「……なんだ、今の音は」


 声のトーンが変わった。変わった、というより——わずかに、前のめりになった。表情はそのままだ。でも体が、ほんの少しだけ、音の方へ向いた。

 「こ、これはですね、メタゾネといって、BUSSというメーカーの、エフェクターで、ギターの音を歪ませる機材で——」

 「いいからもっと聞かせてみよ」


 タケシは弾いた。

 震えながら弾いた。いつものリフだ。六年間弾き続けてきたリフ。でも今夜はアンプのボリュームが上がったままで、空間が狭くて、だから音が壁に跳ね返って、いつもより重く、いつもより速く、心臓が煩くて、ドラムがいないのにビートが体の中で鳴っていて——


 男は動かなかった。

 ただ、聴いていた。

 目を閉じていた。

 タケシが弾き終えても、しばらく沈黙が続いた。


 「……本能の音だ」男がぽつりと言った。「戦場の音に似ている。だが違う。もっと、純化されている。余計なものが削ぎ落とされた、音の暴力だ」


 タケシは息を飲んだ。

 「こ、これがデスメタルです」


 男はゆっくりと目を開けた。

 「デスメタル」

 反芻するように、その言葉を繰り返した。


 「……悪くない名だ」




 それから三ヶ月後、タケシはあの夜のことをよく思い出した。


 あの男——ヴァルゴスが「ひとまずこの世界を把握する」という名目でバンドに加入したのは、転移から三日後のことだった。住む場所もなく、金もなく、この世界の文字は読めず、コンビニの自動ドアに毎回驚いていた男が、なぜかタケシの六畳間に転がり込んだ。経緯は今でもよくわからない。気づいたらそうなっていた。


 最初の練習の日、ヴァルゴスはマイクの前に立って、三十秒黙った。

 「これに向かって声を出せばいいのか」

 「そうです」

 「なぜ棒の先にこんなものが必要なんだ。声は届くだろう」

 「いや、届かないんで」

 ヴァルゴスは納得していない顔で、でも言われた通りにした。

 音を聴いたメンバー全員が、練習を止めた。


 ヴァルゴスの咆哮が地下を震わせた。それはもはや歌ではなく、魔界の呪詛そのもの。

その凄まじい叫びは、古びた換気扇を伝って地上にまで漏れ出した。


下北沢を歩く若者たちが足を止める。

「何これ、地獄の門が開く音してるんだけどw」

「ヤバい、脳が揺れる」


 SNSで拡散された「#下北沢にガチの地獄出現」という投稿は瞬く間に広がり、野次馬とマニアが『GATES』の階段に殺到した。



 バンド名を変えたのは、二ヶ月目のことだった。

 ヴァルゴスが唐突に「名を変えろ」と言った。

 タケシたちが案を出した。ヴァルゴスは全部「ふん」で却下した。しびれを切らしたタケシが「じゃあアンタが決めろよ」と言った。


 ヴァルゴスは少し間を置いた。

 「魔War」

 「……読み方は?」

 「好きに読め」

 それで決定した。



 初めてのライブは、転移から二ヶ月後だった。

 下北沢の、同じライブハウス「GATE」。

 結局、動員数は口コミだけで百八人に達し、七十人キャパの会場は異例の混み具合をみせた。


 ヴァルゴスがステージに出た瞬間、客席の空気が変わった。

 何もしていない。ただ歩いてマイクの前に立っただけだ。それだけで、百八人が黙った。

 タケシはギターを構えながら思った。

 これだ。

 俺が六年間、探していたものだ。

 キャパオーバーの会場は阿鼻叫喚の酸欠地獄と化した。



 半年後。

 「魔War」のワンマンライブは、渋谷の千五百キャパのホールで即日完売した。

 ヴァルゴスは楽屋で鏡の前に座っていた。何もしていない。ただ座っている。メイクもしない。必要ないからだ。あの顔でそのままステージに出れば、それで十分だった。

 「今日は何人だ」

 「千五百」

 ヴァルゴスは何も言わなかった。

 タケシも何も言わなかった。


 ライブが終わった後、SNSにこんな投稿が流れた。


「最初の一声で、逃げようとした。本能的に。足が動かなかった」

「気づいたら泣いてた。悲しいとかじゃない。わからない。ただ泣いてた」

「戦場って、こんな感じなのかと思った。生きるか死ぬかの場所に突然放り込まれた感じ。でもステージから目が離せなかった。怖かったのに、終わった後にもう一回聴きたいと思った。自分でも意味がわからない」


 音楽メディアが騒ぎ始めた。令和の時代にデスメタルが、という論調だったが、それは少し違う、とタケシは思っていた。デスメタルが復活したのではない。

 長い歴史の中で尖り続けてきたこのジャンルが、ついに「本物の地獄」という最高の相棒を見つけ、未知の領域へ踏み出したのだ。

 それは単なる流行の話ではない。デスメタルという強靭な音楽の枠組みと、ヴァルゴスという規格外の咆哮が共鳴し、新たな伝説が始まったという話だ。


 ライブが終わった後、ヴァルゴスはいなかった。

 ステージにいた。

 また、一人で。

 誰もいなくなった客席を、見ていた。


 タケシには見えなかった。

 ヴァルゴスの口元が、ほんの少しだけ——

 上がっていた。

 タケシは楽屋に引き返した。それでいい。それで、十分だ。

 明日、マネージャーから武道館の話が来る予定だった。


 魔王が世界を獲る。


 その意味は、もう変わっていた。


文章校正にAIを使ってます

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