王子様の花嫁が見つからない! ~ナトリ―の結婚相談所~
「ゼローテ伯爵に命じる。俺にふさわしい花嫁を探してほしい」
――私にふさわしい花嫁を、もしくは花婿を。
伯爵家当主となってから何度も聞いた言葉だ。ただそれを目の前の人物が口にしたことは意外だった。ナトリ―が目を見張ると、対面に座った青年が首をかしげる。光の加減が変わり、彼の特徴的な黒髪が蒼い艶を帯びた。
「どうした? それがお前の家業だろう」
ナトリ―が生まれたゼローテ伯爵家は、政争に明け暮れていた時代に諜報活動でのし上がった一族だ。今も豊富な人脈と情報収集能力で世間からは一目を置かれている。
『結婚相手を探すなら、まずゼローテ伯爵の結婚相談所へ』
地位、名誉、財産……さまざまな要因が絡む貴族の結婚は情報戦だ。いつの頃からか、ゼローテ家は結婚にまつわる相談事を請け負うようになっていた。
爵位を継いだばかりのナトリ―も、これまで名に恥じない成果を上げてきた。橋渡しをした結婚は、いずれもその後の関係が良好と聞いている。
……ただ一回の失敗を除いては。
ナトリ―は伊達眼鏡を軽く指先で押し上げてから言った。
「突然訪ねて来て何の用事かと思ったら……。確かに当家は結婚相談所とか結婚請負人などと呼ばれていますが、家業ではなく厚意で行っていることです。お忘れかもしれませんが、うちが王家から正式に賜っている家職は歴史学者です」
「さすがにお前の専攻くらい覚えてる」
目の前の青年はナトリーにとって、上級学術院時代の同級生であると同時に、主君となる立場でもある。彼の名はルシアス。このイストア王国の王太子だ。
高貴な立場でありながら、やたらと気さくなこの青年は、ナトリ―にとってアカデミアで唯一親友と呼べる存在だった。
ごく親しい人間をのぞいてナトリ―は基本的に口下手だ。ただし議論の場になると白熱するあまり、余計な部分にまで舌が回り過ぎてしまう悪い癖があった。とにかく敵を作りやすく、『生意気でかわいげの欠片もない女』と陰口を叩かれていたナトリ―は、男社会のアカデミアでは浮いた存在だった。
一方、ルシアスは王太子にふさわしい高潔で実直な性格でありながら、誰にでも寛大で学友たちの人望も厚かった。彼は孤立しがちなナトリ―が困らぬよう、いつも気に掛けてくれていた。誠実で面倒見のいいルシアスに、ナトリ―もいつしか無二の信頼を置くようになった。
そんな王子が前触れもなくナトリ―の居城を訪ねてきたのは、本日の早朝のこと。勝手知ったる友人同士とはいえ、今は互いに王太子と伯爵という立場がある。さすがに学生時代のように、寝癖がついたまま王子の御前に上がるわけにはいかなかった。
早朝から支度に追われる羽目になったナトリ―は、ルシアスに対する不満を隠さず素っ気なく言った。
「私はあなたの臣下ですからね、拝命とあらば謹んで承りますよ。でも花嫁探しならば私などではなく、しかるべき方々と相談すればいいでしょう。王太后陛下は何と仰せなのですか?」
「お祖母様からは、『あなたの望み通りになさい』とだけ言われている」
ルシアスが呼ぶお祖母様とは、先王の母である王太后のことだ。今は亡き先王、つまりルシアスの父に代わり孫の後見人を務めている。この国の法ではルシアスが二十ニ歳になるまで戴冠はできない。まだ数年は王位が空座となるこの国にとって、王太后が実上の君主だ。
「ただ国外から妃を迎えることには懸念があるようだ。俺の母が隣国の王族だったせいで、かの国から何度も干渉されているからな。不安があるのは同感だ」
「では国内の女性から選びたいと考えているんですね。他に除外したい条件はありますか?」
ルシアスは面倒なことを思い出したように、うんざりした表情を浮かべた。
「実はこの件で大臣たちに意見を求めた。そうしたら、いい年をした年寄りたちが俺の目の前で取っ組み合いだ。……あれでは誰の意見を立てても遺恨が残るだろうな」
「一生にそう何度もない機会ですからね。必死にもなりますよ」
身なりのいい老人たちがかつらのむしり合いをする光景を想像し、ナトリ―は口の端を上げる。野心ある貴族たちが、国王の外戚の座を狙うのは世の常だ。
「そういうわけで、面倒な貴族の息のかかった女性は避けたい」
「王侯貴族なんて面倒でない人間の方が珍しいし、家系図をたどればほとんど親戚ですよ。そもそも王太子に嫁げるのは、王族に連なる女性のみと定められていますよね」
――王族は王族以外とは番わず。
王家の血を引く古い名家の中には、この教えをいまだに守り続けている者たちもいる。当然そうなれば、王族同士で数少ない相手を取り合う形になるわけで、競争にあぶれて一生独身を貫く者も少なくない。
彼らが血筋について妥協できていれば、ナトリ―の元に持ち込まれる相談事はもっと少なかっただろう。
「女性当人、もしくはその直系二親等――両親か祖父母が、王子王女以上の地位であること。王太子に嫁ぐにはこれが絶対条件だったはずです。さらに国内のみとなると、そう多くの候補は挙げられませんよ」
「別にかまわん。どうせ結婚するのは一人だ」
「あなたにだって女性の好みはあるでしょう。……そういえば」
青春時代をともに過ごしながら、ルシアスに浮いた話があったかどうかはもちろん、女性の好みについてすら話題にしたことがなかったと気づく。
「王子はどういった女性が好みなんですか?」
「苦楽を共にすることをいとわず、俺の幸福を心から願ってくれる女性」
「何だか抽象的ですね。気持ちはわからなくもないですけど」
国王とは唯一絶対の存在であるがゆえに、ともに並び立つ者がいない孤独な存在だ。ルシアスの妻がせめて彼の心の癒しとなってほしいと、友人としても思う。
「そこは期待に添えるように努めます」
「ぜひそうしてくれ。花嫁探しはお前に一任するからな」
「もっと適任者はいると思いますけど、本当に私でいいんですか?」
「誰よりも信頼しているから任せたいんだ」
くつろいだように放り出していた長い足を正し、ふいにルシアスは真面目な口調で言った。
「これを機にお前には名誉を取り戻してほしいと思っている。……あの時は大変だったな」
どうもこれは例の一件についての話を振られているようだ。適当にごまかそうとも思ったが、ルシアスの真剣な表情を見て諦める。
「俺が地方巡啓に出ている間に、ナトリ―が結婚したと聞かされて驚いた」
「厳密には結婚していませんよ。式が中止になると同時に申請を取り下げましたから」
――結婚請負人ゼローテ伯爵が、よりにもよって自分の結婚式で花婿に逃げられた。
ナトリ―のただ一回の失敗は自分の結婚だった。この一件は瞬く間に国内中の話題になり、おかげでいい笑い物だ。
ナトリ―の花婿になるはずだった青年はさる公爵家の次男だ。彼は王家の親戚であり、それこそ女性に生まれていれば、ルシアスの有力な妃候補に挙げられていただろう。
王侯貴族の結婚に恋愛感情は必須な物ではないし、温厚そうだが少し気弱な彼に、ナトリ―もそういう感情を抱けそうになかった。同時に、伯爵家の運営に口を挟みそうもない、控えめな性格は悪くないとも思えた。
ナトリ―は名家との縁と強大な伝手を手に入れられる。公爵子息は爵位と財産を手に入れられる。互いに大きな利点があり、相手もそれを理解しているはず――。そう合理的に判断したからこそ誤算となった。
結婚式の当日に現れなかった彼は女と逃げた。相手は身分も財産もない村娘だ
彼が気に掛けている幼なじみの娘がいることは、事前調査で承知の上だ。それも決定的な男女関係には至っていない、目をつぶれる程度の物だった。まさか駆け落ちに走るとは想定外だった。
名家の男子に生まれようと、基本的に爵位と財産は長子の物だ。ナトリ―との結婚は、次男以下に生まれた者なら喉から手が出るほど欲する物を得る、一世一代の好機だったはず。それらを蹴ってまで村娘を選ぶなど理解できなかった。
ナトリ―は眼鏡のつるに両手を添えて外した。若さゆえに舐められまいと、貴族との面会時には年かさに見えるよう伊達眼鏡をかけている。今朝は自分も侍女も慌てていたため、来客時の装いの癖で眼鏡をかけてしまったが、この王子の前では必要ないものだ。
素の顔で改めて王子と向き合うと、その口元がかすかに笑みを作った。きっとアカデミア時代を思い出しているのだろう。
高名な学者であった先代に似た若き女伯爵。世間ではそう誉めそやされているが、どんなに取り繕ったところでルシアスは、ナトリ―の未熟さや稚拙な部分を知っている。今も結婚に失敗した友人を憐れむような感覚なのだろうか。
大人になった今でも、学生時代のように気を遣われている事実に、悔しくなったナトリ―は投げやりに言う。
「その話はどうでもいいです。別に彼に恋していたわけではありませんしね」
「そうか……」
ルシアスが少しほっとしたように息をついた。
そう、別に特別な感情はなかったのだ。だからあの子息が夫としての義務さえ果たしてくれれば、愛人を持つことくらい黙認できた。だが彼は正々堂々と権利を勝ち取ることをせず、約束を反故にして逃げた。
自分の見込み違いは認めざるを得ないし、世間の笑い種になったことは屈辱だが、割を喰ったのが自分でよかったとも思っていた。己の失策のせいで他家に恥をかかせれば、それこそ取り返しがつかない。
「そうそう、来年の誕生祝いには婚約者を皆に紹介する予定だ。それまでに手はずを整えてくれ」
「そういうことは早く言ってください。もう半年もないじゃないですか……」
文句を言いながら、ナトリ―はすっと右手を横に差し出す。今までずっと黙って壁際に控えて執事が、心得たように一冊の大きな本を手渡してくる。これは国内外の王侯貴族にまつわる、ありとあらゆる情報が詰まった物だ。ページをめくりながらナトリ―は思案する。
ルシアスは言及しなかったが、婚約者となる女性が安全に、しかもできるだけ早く世継ぎを設けられる年齢であることは必須だろう。とはいえ数年で王妃の座につくことを考えれば、あまり若すぎる女性にも不安がある。
「王子と釣り合う年齢となると――」
言いかけてから、ナトリ―は肝心なことを思い出す。
「……そうだった。あなた今度の誕生日でようやく十九歳でしたね」
「今更どうした」
(妙に老成してるんだよなあ、この人……)
次期国王にふさわしい見栄えのいい長躯と、堂々たる立ち振る舞いのせいで忘れそうになるが、ルシアスは現時点ではまだ十八歳なのだ。
「年上の女性でもいいですか?」
「もちろん。まったく問題ない」
「それならば現時点で十七歳から二十二、三歳程度の女性がいいかと思います。条件の中でもっとも高貴な方は二十二歳のライエ公女殿下。次いで二十歳のリバーク公爵令嬢ですね。ただ両名とも王子にとっては従姉妹なので、血が近いのが少し引っ掛かりますね」
「幼少の頃から姉のように接してきた女性はちょっとなあ」
「妾腹の方なら他にも数名挙げられるのですが、さすがに大臣たちから反対されるでしょうか」
自分たちが推挙する姫君を押しのけて、ルシアスの婚約者に収まった女性を彼らが快く迎えるはずがない。出自に少しでも粗があれば、絶対に難癖を付けてくるに決まっている。婚約者が中傷されれば、性根が優しいルシアスはひどく胸を痛めるだろう。
「過去の男性遍歴は気になりますか? 男性との交際経験のある方や未亡人も含めていいのなら、もう少し候補を広げられそうですが」
「そこは一切気にならん」
「――あっ! ちょっと待ってください」
唐突にあることが閃いた。慌ててページをめくり、目的の記述にたどり着くと隅々まで視線を走らせる。
「ありかもしれない……」
「どうした?」
「未亡人で思い出しました。夫君を亡くされたのは母君の方ですが、その方にちょうど年頃の娘がいます。もちろん出自は申し分ありません」
「誰だ?」
「ケイロス王国のメリレーヌ王女殿下です」
その名を口にすると、少し前のめりになっていたルシアスが深々と椅子に座り直す。あからさまに意気込みが削がれた態度だ。
「あのな、ナトリー」
「外国の姫は嫌だと言うんでしょう? ひとまず聞いてください」
一国の王の娘でありながら、世間からは忘れさられてしまった姫君。それがメリレーヌ王女だ。
メリレーヌはケイロスという小国の王の長女として生を受けたが、すぐに父王を亡くしている。陰謀による暗殺などというきな臭い情報もあるが、どのみちケイロス王家において女性は王座につくことができない。
成長後は政略の駒として利用されることが目に見えていたため、母である王妃は王女とともに、遠く海を越えたこのイストア王国に亡命を果たした。
現在メリレーヌはイストア王家に庇護される立場であるが、王都から離れた片田舎で暮らしていた。望めばイストアの支援で贅沢な暮らしもできる立場だが、祖国から持ち出したわずかな私財で慎ましく生活しているようだ。
現在母娘は宮廷に顔を出すことはなく、亡命時の助けとなったごく親しい友人以外とは付き合いもない。この国ではすでに忘れ去られた存在だ。
現に王太子であるルシアスですら、メリレーヌの名に首をひねっている。
「確かに子供の頃、亡命した遠国の王女を預かっていると聞いたことがあったような……」
「ケイロスは歴史のある立派な国ですが、我が国にとって国交もないに等しい遠方の国です。干渉を受ける恐れは少ないでしょう。王女当人は今年十八歳。大変お美しく聡明で、近隣の民にも慕われているそうです」
いかがですか、と聞けば、ルシアスは無言のままナトリ―を見つめ返して来た。
その瞳の色はどこまでも深い紺青だ。凪いだ春の海にも似た、静かな眼差しからは何の感情も伝わってこない。せっかく有力な候補を見つけたというのに、あまり乗り気には見えなかった。
「それがお前の出した結論なんだな」
「……はい」
「わかった」
穏やかにうなずくと、ルシアスは立ち上がった。
「手配を頼む。彼女に会ってみよう」
「あの王子」
「ん?」と振り返ったルシアスに、ナトリ―は慌てて言い繕う。
「心配しないでください。あなたは友人のひいき目抜きでも、とても魅力的な人です。あなたが誠意を尽くせば、応じない女性などいるはずがありません」
つくづく忘れそうになるが、この王子はまだ十八歳で、向こうも失念している節があるが実はナトリ―よりも一つ年下だ。
立場上しかたないとはいえ、男性が結婚を考える年齢としてはずいぶん若い。義務として行動しているものの、妻を持つことに本音は不安があるのかもしれない。
そう思い、ナトリ―はせめてもの励ましで伝えたが、ルシアスは一瞬大きく目を見開いたあと急に吹き出して笑い始めた。
「よりにもよって、お前の口からそんな言葉が出るとはな!」
「私だって褒め言葉くらい口にしますよ」
ルシアスはますます腹を抱えて笑った。笑い声は少年のように軽やかなのに、なぜかその表情はひどく大人びて見えた。
※※※※※※※※※※
――花嫁探しの依頼を受けてから、時間はあっという間に経過した。
この日ナトリ―は貴族の一員として王宮に招かれていた。これから王太子ルシアスの十九歳の誕生日を祝う舞踏会が開かれる。祝賀行事は毎年のことだが、今年は来賓の興味と熱量が例年とは一味違っていた。
今夜、王太子は一人の女性を伴って登場することになっていた。正式な婚約式はまだ先になるが、その女性こそが未来の王太子妃であり、宮廷人たちの前での事実上の初披露目となる。
あれからルシアスとメリレーヌ王女の関係は、ナトリ―が拍子抜けするほどとんとん拍子に進んでいった。
王太子との面会の約束を取りつけるため、ナトリ―は直接彼女の元へ足を運んでいた。
『初めましてゼローテ伯爵。わたくしと同世代の女性の伯爵がいると聞いて、ずっとお会いしたいと思っておりましたの』
メリレーヌは初対面のナトリ―に向かって気さくに微笑んで見せた。女性らしい淑やかな言動の端々に深い知性を感じさせ、同時に相手の気持ちを解す愛嬌もある。
ナトリ―はやはりこの女性しかないと確信した。海神の化身と称されるルシアスと、花の女神のように優美で可憐なメリレーヌ。二人が王城の広間に並び立つ姿は神々しいほどに美しく、さぞ人々の心を打つだろうと思った。
そうして実際に会うことになったルシアスとメリレーヌは、初対面から互いに好感を持ったらしく、その後もたびたび面会を重ね、ついに婚約を決めた。
報告を受けたナトリ―はルシアスの要請に応じ、今日の舞踏会の準備のためにメリレーヌの補佐を務めてきた。今夜の舞踏会までの数ヶ月間を、ナトリ―は一時的な指南役としてメリレーヌと共に過ごした。
華やかな光景とは裏腹に、お披露目の舞踏会は初陣を飾る戦場も同然だ。中には粗を探そうと、談笑を装って意地の悪い質問をぶつけてくる者もいるだろう。
王太子妃にふさわしい品格と作法。政治や時事に関する見識。人々に対する機知や配慮。そういったことを会話やダンスの端々から吟味されることになる。
メリレーヌはほとんど社交の場に出たことがない上、母親や周囲のお付きの人間は祖国からともに亡命してきた者たちだ。イストア宮廷のしきたりに馴染めるか心配ではあったが、持ち前の聡明さでもってメリレーヌはあらゆることを習得していった。
ゆっくり会話できる最後の晩、メリレーヌはナトリ―の手を取って潤む瞳で告げた。
『ナトリ―、わたくしはあなたの友情を生涯忘れません。どこにいてもあなたの幸せをずっと願い続けるわ』
いずれ彼女もナトリ―にとって主君となる身。手の届かぬ存在になる前の、対等な友人として告げられる手向けの言葉――。そう思い込んでいたが今ならわかる。あれは間違いなく今生の別れを覚悟したあいさつだったのだ。
「――メリレーヌ王女殿下がいなくなった!? 」
「申し訳ございませんっ! わたくし共がほんの少々部屋を空けていた間に……」
すでに大広間で待機していたナトリ―は、突然ルシアスの遣いから呼び出された。宮殿内にあるメリレーヌに宛がわれていた部屋にやって来たが、すでに彼女の姿はなかった。侍女として配置されていた女官たちが、真っ青な顔で立ち並んでいる。
ナトリ―の脳裏に暗い予感がよぎる。この日の準備のために多くの人間が関わってきた。王太子の婚約者となるメリレーヌの情報を、事前につかんでいる者は少なくないだろう。
自分たちが推挙する娘を押しのけたメリレーヌが、一部の者にとっては目障りなのは明らかだ。彼らが王宮で暴挙に及ぶとまでは考えにくいが、何らかの方法でメリレーヌを誘いだした可能性はある。
「王子、すぐに城内の捜索を! まだ遠くには行っていないはずです」
ルシアスはナトリ―よりも先に部屋に到着していた。当然彼もこの状況を理解しているはずだが、慌てる様子もなく女官たちに向き直る。
「――ゼローテ伯爵と二人で話がしたい。女官たちは全員下がってくれ。この件で君たちの責任は問わないが、見たことは口外はしないように」
「王子?」
とまどいながら女官たちが退室して行く中、ナトリ―は怪訝の目をルシアスに向ける。
「何を悠長にしているのです!? 早く――」
ナトリ―の呼びかけにも、ルシアスは無言のままだった。
今日の晴れの日にふさわしい礼典衣装を身に着けていたルシアスは、首元から大ぶりのブローチを取りはずし、近くのテーブルに置いた。すみれ色にきらめく宝石は、メリレーヌの瞳の色と同じアメジストだ。
瞳と同じ色の宝石は、本人とその伴侶にとって守り石となる習わしがある。ルシアスとメリレーヌは今日の装いに、互いの瞳の色を模した宝石を使うと決めていた。
ルシアスの行動に悪い予感がふくらむ。もう取り返しのつかない事態になってしまったのだと、否が応でも察せられた。
「……何があったのですか?」
「部屋に来たときにこれを見つけた」
ようやくナトリ―と視線を合わせたルシアスは、折りたたまれた一枚の紙を差し出した。開いてい見ると、ここ数ヶ月の間で見慣れたメリレーヌの流麗な筆跡が現れる。
それはメリレーヌから二人に宛てられた手紙だった。彼女自らの足でこの場から逃げた謝罪に始まり、さらにはっきりとこう記してあった。
『――つきましては、わたくしケイロス王女メリレーヌはルシアス王太子殿下よりの求婚を辞退申し上げます』
ナトリ―は呆然と天井を仰いだ。
(逃げた……この土壇場で……)
よりにもよって、これでは自分の結婚式のときと同じではないか。いや、一貴族に過ぎない自分よりも遥かに事態は深刻だ。
ルシアスは一国の王太子なのだ。非公式ではあるが今日は婚約発表の席も同然。賓客の中には諸外国の外交官もいる。こんな事態が明るみになれば、ルシアスは国内外の笑いものとなり、王家の威信にも傷がつく。
この件を一任されているナトリ―も、当然責任を追及されるだろう。
(せめて宮廷追放くらいでどうにか……)
ナトリ―は沈痛な思いで、最悪は胴体と泣き別れの可能性もある、細い金鎖で飾られた首元をそっと撫でた。
「ナトリー」
「何ですか!?」
なぜか平静な顔をしたルシアスに、苛立ちを隠さず振り向く。
「手紙にはまだ続きがあるだろう」
「今はそんな場合では……」
どうせ謝罪や言い訳が書き連ねてあるのだろう。やはり置手紙を残していった自分の婚約者もそうだった。白いレースのグローブ越しに握りつぶした、あの手紙の感触は今でも覚えている。
「いいから読んでみろ」
促され、ナトリ―はしぶしぶ手紙の続きに目をやる。
『――わたくしはずっと旅商人になりたかったのです。ナトリ―から妃教育を受けるかたわらで、密かに資金や仲間集めを進めてまいりました』
「旅商人!?」
まさかの理由に目を剥く。
確かにメリレーヌ自ら呼び寄せた、ダンスや語学の講師と名乗る者たちが、彼女の館に出入りしていたことは知っていたが。彼らがメリレーヌの協力者だったのだろうか。
さらに続きにはこう書かれていた。これまでの籠の鳥のような人生に絶望していたと。
メリレーヌの母は王族としての誇りは捨てられず、けれど自国の貴族に手のひらを返された恐れから、イストア宮廷とも関わることをせず、娘にも他者との交流を制限していた。
閉ざされた変化のない日常と、いつか祖国に帰る日を夢見続けるだけの母親。メリレーヌは鬱屈した思いをずっとため込んでいたらしい。
『母のことは愛しております。命がけでわたくしを祖国から連れ出してくれたことにも感謝しております。それでもわたくしは不遇な王女としての人生をまっとうするのではなく、自分の人生を生きたいのです』
ナトリ―は深く溜息をついて手紙を折り畳んだ。
「……王太子妃になれば、外の世界を見る機会などいくらでもあったでしょうに」
「だかそれは彼女の望む形ではなかった」
「のんきなものですね。状況がわかっていますか?」
「こうなることを想定してなかったわけじゃないからな。レイエーヌ王女から『わたくしを妃として所望されるならお断り申し上げます』と、はっきり言われていたし」
「はぁ?」
そんな話は初めて聞いた。
ナトリ―は信じられない物を見る目をルシアスに向けた。
「……求婚したんじゃなかったんですか?」
「求婚はしたし、命じるまでした。『あなたは我が国の庇護下にある身なのだから、俺の命令に従って結婚してもらう』と」
「ウソですね」
間髪入れずナトリ―は言った。
「あなたは王太子の立場を利用して、愛した女性に結婚を強いるような真似は死んだってしません」
「そうありたいとは思ってる」
ルシアスは小さく肩をすくめて見せた。
「話の続きだが、メリレーヌ王女から『わたくしを利用されるおつもりでしたら、わたくしも王太子殿下を利用いたします』と、笑って返されたんだ。……妃になる準備を隠れ蓑に俺たちや母親をあざむき、逃走の準備をしていたとはなかなかやってくれる」
「何が『やってくれる』ですか、しらじらしいっ!」
ようやくこの一件の全貌がつかめてきた。つまりメリレーヌが逃走することを予想し、ルシアスはなかば彼女に協力するつもりで、今日までの予定を進めさせたのだ。
「ご自分が何をやったかわかっていますか!?」
「言っておくが、彼女にその気があれば俺はちゃんと結婚していたぞ」
この男が生み出した危機から、この男を救わなければならないやるせなさに眩暈がしそうだ。
しかし今はルシアスに文句を言う余裕も、真意を問い詰める暇もない。舞踏会が行われる大広間では多くの客人たちが、今か今かと王太子とその婚約者の登場を待っているのだ。
ナトリ―は考えを巡らせるため、うろうろと部屋の中を歩き回る。
(――今日はひとまずメリレーヌ王女が急病になったことにするしかない。後日その病気が重篤だったことを理由に婚約の話をなかったことにすれば……いや、これはダメだ。あとで王子を窮地に追い込むかもしれない)
メリレーヌは二度と表舞台に姿を現すつもりはないだろう。婚約のうわさがあった女性がお披露目直前に姿を消し、その後の動向は誰も知らないなど、いくらなんでも不自然だ。
メリレーヌが婚約を嘆いて自害、もしくは何らかの事情で仲たがいをしたメリレーヌをルシアスが亡き者にし、王家がそれを隠ぺいしたなどと噂されれば目も当てられない。
「……こうなったらメリレーヌ王女のうわさは、本命を隠すための偽情報だったということにするしかありません」
邪魔を防ぐため本命の婚約者を隠し、ギリギリまで別の女性に注目を集めておく。ルシアスの母を妃に立てるときも、このような一悶着があったと聞いている。横槍が入りそうな人事を通すときにはよくある手だ。
「それで本命とやらはどう用意するつもりだ?」
「さすがにその場しのぎの人間を、あなたを結婚させるわけにはいきません。この場だけの代役を立てましょう」」
「『あとでなかったことにするから、今だけ婚約者の振りをしてくれ』と? そんな都合のいい頼みを引き受けてくれる女性がいるとは思えないが」
「わかっています。それでも見つけるしかありません……」
婚約破棄という形を取れば、その女性によくない風評が立つかもしれない。それはナトリー自身が身に染みてわかっていることだ。見返りもなしに、若く未来ある女性が偽装婚約など受け入れるはずない。
「本当に結婚する確約があるなら、急な話に承諾する女性もいるかもしれません。ただそんな話に乗ってくる人なんて…」
「まず、まともじゃないだろうな」
ナトリ―は近くのソファに座ると、顔を両手で覆ってうつむいた。幾人かの姫君や令嬢たちの名前と顔が次々に浮かぶが、その中に心から信用できる者はいない。どう考えても八方ふさがりだ。
その時、ナトリ―の前でじっと立ち尽くしていたルシアスが、わざとらしく咳払いをした。
「あー……ところでだ。ミアータ王女はご息災か?」
「今日も王宮に来ているはずですよ。母は華やかな場に目がない人ですから。……何ですか急に」
「俺の大叔母……だったか? 一応親族だからあとであいさつしておこうかと」
厳密には彼の父の大叔母だ。ミア―タ王女ことゼローテ伯爵夫人はナトリーの実母に当たる。ルキアスの高祖父にあたる王が退位した後、七十を過ぎてから若い後妻との間に儲けた娘だ。
ミアータは王族の一員として生まれたが、大きな責任を課せられることなく伸び伸びと育ち、あげくとんでもなく奔放な女性へと成長した。数々の男性と浮名を流し、十八歳で当時四十過ぎだった先代ゼローテ伯爵の妻に収まったという経歴の持ち主だ。
「どうして今そんな――」
はっと嫌な予感がよぎった。ルシアスが物言いたげな眼差しを向けてくる。……母もまた王家傍系の王女で、年齢はかろうじて三十代だ。
「ここまで言えばわかるだろう? ……そこまで嫌なのか?」
「嫌に決まってるでしょう!? 未亡人とはいえ私の母ですよ! あなたを義理の父と呼ぶのは絶対にごめんです!」
「どうしてそうなる……」
額を抑えてうなだれるルシアスに、ナトリ―は困惑する。
「いったい何の話をしてるんですか?」
「忘れているのかと思ってな。お前はどうしてこんな状況になっても、王女の娘という条件を満たしていて、誰よりも俺が信頼している人物の名を挙げる気がないんだ?」
ナトリ―は長い沈黙のあと、「……え?」と低い声を漏らした。
この花嫁探しを頼まれたとき、ルシアスはナトリ―に向かって『誰よりも信頼している』と言った。彼の意図を察したナトリ―は、頬に熱が集まるのを感じる。
「な、何を言ってるんですか!? だいたいあなたは私のことを女性として見てないでしょう!」
「見ていたが?」
「はい?」
「アカデミア時代からずっと見ていた」
しれっと言ってのけたが、少し視線をそらした彼もまた赤くなっていることに気づき、ナトリ―は居たたまれなくなってくる。
「えっ……いや、でも――」
通常十五、六歳で入学するアカデミアに、ナトリ―とルシアスは三年ほど早く入学した。年が近いこともあって自分たちは自然と友人になった。そして入学から半年ほど経過した頃、突然青い顔をした彼から謝罪されたことがあった。
『すまない。お前のことをずっと年下の男だと思っていた。伯爵家の跡継ぎと聞いていたし、『ナートレイデ』というのが女性名とは知らなくて……』
その名前は歴史学者であった父が、古代の魔女にあやかり娘に授けた物だ。現代女性の名前としては確かに馴染みはない。
身分によらない学問を重んじるアカデミアでは、王族も庶民も全員黒いローブの着用を義務付けられていた。女性らしく着飾ることはできない環境に加え、あの当時はまだ十三歳。ルシアスが性別を勘違いするのもしかたがない。……年下とまで思われていたのは心外だったが。
その後、彼は自分のことを『ナトリ―』と呼ぶようになったが、それ以外に何一つ態度を変えなかった。他の同級生にするように気軽に肩を叩いたり、町に繰り出しては屋台の食べ物を分けあったり、彼の課題を仕上げるのに真夜中まで付き合わされたりしたこともあった。
ナトリ―は首をひねる。
「あなたから女性らしい扱いを受けた覚えはないのですが」
「そんな扱いをしたら、お前は俺が側にいることすら許さなかっただろう」
アカデミアに入学してから二年ほどがたった頃のことだ。『生意気なガキ』とにらみ付けられることは慣れてきたが、妙にねっとりとした視線を向けられることが増えた。
それが異性を対象にした物だと気づいたとき、学びの場に情欲を持ち込む者への怒りを抱くと同時に、自分が男の劣情を駆り立てる存在であることにひどく傷ついた。
今なら割り切れることもできるが、少女だった当時は相当に落ち込んだし、信頼できる人間に相談することすら惨めに思えてできなかった。もちろんルシアスにもだ。それでも彼の出会ったときと変らぬ、さっぱりとした裏打ちのない態度にはずいぶん救われていたように思う。
(ずっとこの人に気遣われていたのか……)
ナトリ―の悩みに気づいてたからこそ、変わらぬ態度で接してくれていたのだ。……自分の感情を押し殺して。
思えば最初からそうだった。『お前を頼りにしてる』と言いいながら課題の手伝いをさせ、孤立しがちなナトリ―が他の学生の輪に加われるよう、裏から手を回してくれていた。
豪胆で大ざっぱと見せかけて、本当は誰よりも他者の気持ちを大切にする。そういう人間だとわかっていたのに――わかっていなかった。
ルシアスはいつも快活な彼らしからぬ、ひどく疲れた様子で言った。
「条件は十分に満たしているのに、どうしてお前自身について話題にすらしないのかと不思議に思っていたんだ。灯台下暗しとは言うが、まさか自分を女性のうちに勘定していないとはな」
「あなたを拒絶していたわけではありません。本当に考えも及ばなくて……」
「そうみたいだな。友人としか思っていない相手から、急にこんなことを言われても困るだろう。気持ち悪いと思ったのなら、聞かなかったことにしてもいいぞ」
「そんなことで嫌悪をもよおす程度の仲なら、最初から友達とすら呼びません! だいたい私で間に合う話なら、普通に結婚してほしいと言ってくれれば――」
口にしてからはっと気づく。
『あなたは王太子の立場を利用して、愛した女性に結婚を強いるような真似は死んだってしません』
――つい先ほど、自分自身がルシアスに告げた言葉ではないか。
「……だから言わなかったんですか?」
「王太子である俺が伯爵であるお前に『結婚してほしい』と口にした途端、どんなに飾り立てた言葉であっても、それは命令になってしまう。そうしたらお前は、臣下として主君に従うほかないだろう」
「ルシアス……」
思わず口にしてから、久しぶりに彼の名前を呼んだことに気づいた。ルシアスもまた懐かしい物を見つけたように笑んだ。
「互いに面倒な立場になったな。こんなことならあの時に求婚しておくんだった。――それで、きれいサッパリ振られておけばよかったんだ」
あの時――。ナトリ―の脳裏によみがえる光景があった。
ルシアスの父である先王の急な訃報が届いたのは、ナトリ―がアカデミアを卒業する少し前、彼はまだ十六歳だった。
訃報の遣いは、たまたまナトリ―がルシアスの私室を訪ねているときにやって来た。使者を見送り、一人になりたいだろうとナトリ―も退室しようとしかけたとき、ルシアスが突然その手を引いた。
『行かないで、くれっ……』
伏せられた顔の下から絞りだすような声で懇願され、ナトリ―はをその場にとどまった。どうしていいのかわからず、やがて彼の背に手を回しゆっくりと擦ってやると、ルシアスは声を押し殺して泣き始めた。
あの頃のルシアスはすでにナトリ―より遥かに背が高く、王族にふさわしい立ち振る舞いを身に着けていた。だがあの時の、すがるように自分の両肩をつかむ手は怖れに震え、涙に濡れた横顔にはあどけなさが垣間見えた。
頼りにしていた父王を突然亡くした上、己にのしかかる途方もない重責を想像すれば当然だと思った。だが彼の絶望は、それだけではなかったのかもしれない。
少なくともルシアスはわかっていたのだ。これから自分が常人でなくなってしまうことを。感情のまま、愛する者を求めることすら許されない立場になるのだと。まだ少年だった彼の方が、今のナトリ―よりもよほど理解していた。
その後しばらく静かに泣き続けたあと、ルシアスは『みっともないところを見せた』と大人びた苦笑を見せた。きっとナトリ―から身を離したあの瞬間、彼は己に運命づけられた孤独を静かに受け入れたのだ。
あのときの自分の頬に零れ落ちた彼の涙の熱さがよみがえる――そう思っていたら、頬を伝っていたのは自分の涙だった。ルシアスが白いグローブに覆われた指を伸ばし、眼鏡の下に差し入れるとナトリ―の目元をぬぐう。
相変わらず年下らしからぬ態度と、諦観をにじませた眼差しに、ナトリ―は自分の無力を見せつけられようで悔しくなる。鼻をすすると、涙に歪む視界の中でルシアスをきつく見据えた。
「心配するな。少なくとも男としては振られたのだと……いや、始まる余地すらなかったんだと理解した」
「よく言いますよ。私が自分から『妃になる』と申し出る自信が、多少なりともあったんでしょう」
今思えば『自分にふさわしい花嫁を』という下命は、ナトリ―に結婚を命じたくない、彼のプライドが許すギリギリのわがままだったのだ。ルシアスの不自由な立場を憐れだと思うと同時に、そんな意地に振り回された怒りも込み上げる。
「お前は合理主義の塊で、いっそバカなんじゃないかと思うくらい理屈に忠実だからな。他に適任者がいないとなれば、恥ずかしげもなく自分を推挙するくらいのことはしてくるかと思った」
「……もしかして今、面と向かって悪口を言われてますか?」
「だからお前が自分を女性に分類していなかったことと、メリレーヌ王女の存在は完全に誤算だったよ」
「誤算も何も、王子はいつだって及第点ギリギリだったじゃないですか」
「確かにガラでもない小賢しい真似をした。だからせめてお前に選んでもらえないときは、相手が誰でも潔く添い遂げる覚悟だった」
その台詞にナトリ―は言葉を詰まらせる。
彼の言う通り、ナトリ―の選んだ相手が乗り気であったなら本当に結婚していたのだろう。何も言わず、すべてを感情を飲み込んで。結局そういう人間なのだ、ルシアスは。
ふいに鐘塔の方から時を告げる音が響いてきた。舞踏会が始まる時間だ。
「……もういいです。今は舞踏会を乗り切ることを考えましょう」
この部屋に呼ばれてから半刻もたっていないのに、徹夜したような疲労感がまとわりついていた。だが今夜の戦いはここからだ。ナトリ―は椅子のひじ掛けをつかんで、身を引き上げるように立ち上がった。
「わかっている。お前には処分が及ばないようにするから心配するな」
「何かお考えがあるのですか?」
「メリレーヌ王女が急病になったことにする。後日、後遺症で人前に出られなくなったことにすればいい。彼女も立場を失うことくらい覚悟の上で逃げたんだろう。俺もよからぬウワサの一つや二つ立てられるだろうが、完全に自業自得だ」
それは自分も一度は検討した内容とほぼ同じだった。ナトリ―は一蹴するように鼻で笑う。
「ご冗談を。あれほどの大胆さと行動力のある女性、どうしたってまた世間に姿を現しますよ。あの方は私をだましたのだから、大きな借りがあるはずです。せいぜい大商人にでもなればいい。きっちり取り立てさせてもらいますよ」
言って、ナトリーはつかつかと部屋の奥へと向かう。そこはメリレーヌ王女が使っていた衣装部屋だ。目当ての物を手に取るとルシアスの元に戻る。片手でかけていた眼鏡を取り外すと、持ってきた小箱と一緒にテーブルの上へ置いた。
ナトリ―はルシアスの首元へと片手を伸ばす。突然の行動に戸惑っているルシアスの襟元を引き寄せるようにつかんだ。
「ナトリ―!?」
「この状況を招いたのは王子なのだから、腹をくくってくださいね」
すごむように告げると、ナトリ―は結い上げた自身の髪から宝玉に飾られたかんざしを引き抜いた。流れるような動作で、ルシアスの上着のボタンホールへと差し入れる。
「……おい、今ちょっと刺さったぞ」
急いで取り付けたせいか、軽くルシアスの肌を突いたようだ。恨みがましく細められていた目がふいに大きく見開かれる。
その視線は、胸元に取り付けられた宝石に向けられていた。新緑の季節を閉じ込めたように淡く輝く宝石は、ナトリ―の瞳の色と同じペリドットだ。
「いいですか? あなたはメリレーヌ王女をおとりにしてまで、本命の婚約者であるこの私、ゼローテ伯爵ナートレイデの存在を今日この日まで隠し通した。――それが筋書きです」
ルシアスの瞳が向けられる。深く果てしない紺青がナトリ―を捉えた。ナトリ―はこの瞳の色が好きだ。遥か彼方の世界を想像させる、大いなる可能性を秘めた海原の色だ。
小箱から深い青色のブローチを手に取り、少し考えてから金鎖の首飾りに付けることにした。ナトリ―が細いブローチピンに苦戦していると、ルシアスがグローブをはずした手を差し出してきた。
「俺にやらせてくれ」
幼少時から剣術の鍛錬を続けているというだけあって、大きくて分厚い力強い手だ。その手にブローチを乗せると意外にも小さなピンを器用に外し、ナトリ―のネックレスに取り付けてくれた。
ルシアスが一歩後ろに下がり距離を取る。己の瞳の色と同じサファイアを身に着けたナトリ―を、その眼に焼き付けるように見つめていた。
ルシアスのまっすぐな眼差しがくすぐったくて、ナトリ―は自らの姿を確かめる振りで視線を下げる。
(でもまあ、さっきまで泣き別れを覚悟していた首にしては上出来――……ああ、だからあの方は)
ナトリ―がまとう淡いシャンパン色のドレスは装飾が少ないが、胸元に飾ったサファイアを主役として引き立てている。
このドレスはメリレーヌが自分の物を仕立てるとき、『ぜひあなたの舞踏会のドレスも用意させて』と、首飾りと一緒に見繕ってくれたものだ。大胆なリボンやドレープを好むメリレーヌの趣味らしくないとは思ったが、こうなることを最初から計算に入れていたのだろう。
呆れるべきなのか感心するべきなのか……。それでも『貸し』から、この分だけは割り引いてもいいかと思えた。
「ナトリ―」
視線を上げると、ルシアスがゆっくりと噛み締めるように訊ねてきた。
「本当に、俺と結婚してくれるのか?」
「王子の一世一代のわがままくらい叶えて差し上げますよ。そちらこそいいのですか? ご存知でしょうが私は社交が得意とは言えませんし、敵を作りやすい性分です。妃に向いている人間ではありませんよ」
「かまわない。お前に足りぬ部分は俺が引き受ける。だから俺に足りぬ部分はお前が助けてくれ」
「……あなたに恋をしていなくても?」
かすかに寂しげな眼差しを向け、だが一切の迷いのない口調でルシアスは言い切った。
「それでもいい」
「ただね、ルシアス」
今もまた己の願望を飲み込んだ青年に向けて、ナトリ―は苦笑を浮かべる。
「私にとって間違いなく、あなたは大切な人です。あなたのためにできることは、何だってしたいし、何を捧げても後悔はしません。それだけは忘れないでください」
その感情を友情と呼ぶのか、忠義と呼ぶのかはわからない。ただナトリ―がこの先どんな未来を歩もうと、常に己の心の中心にはルシアスがいるのだろうと確信していた。
「お前……それはもう……」
ルシアスはふいに口元を抑え、表情を隠すようにくるりと背を向けた。呆れたような、ひどく疲弊したような大きな溜息をつく。心なしかその耳はほんのりと赤い。
「ほら、そろそろ行きましょう。せいぜい大切な婚約者をこよなく愛する王子様をしっかり演じてくださいね」
「それは無理な注文だな」
扉へと進もうとすると、ルシアスから手を差し伸べられる。そっと指先を重ねると、大切な物を包み込むように握られた。紺青の瞳がやわらかく細められる。
「どうがんばっても演技にはならない」
【終】
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入り切らなかった設定でもう少々おまけの話も書ければなあと思っています。近々また新作短編の方で更新する予定です。こちらの前書きでもお知らせするので、ブックマークしていただける方はしばらく残してもらえるとうれしいです。




