ある魔物の記憶
私は今、とても悲しい。
キッチンに立って、昴の好きなハンバーグを作りながら、何度もため息をついてしまう。玉ねぎをみじん切りにしていると、涙が出てきた。玉ねぎのせいじゃない。最近、すぐに涙が出る。
昴はもうすぐ帰ってくる。高校生になって、部活もあるから帰りは遅い。でも、ちゃんと手作りのご飯を食べさせてあげたい。それが、母親としてできる、数少ないことだから。
昔はもっと簡単だった。
小さな昴は、私の膝の上に座って、絵本を読んでもらうのが大好きだった。「ママ、これ読んで」と、お気に入りの絵本を持ってきて、私の膝の上でじっと聞いてくれた。
「すごいね、昴ちゃん」と言えば、嬉しそうに笑ってくれた。
「ママ、見て見て」と、折り紙で作った花を見せてくれた時も、「上手だね」と言えば、満面の笑みを浮かべてくれた。
あの頃は、昴が何を考えているか、手に取るように分かった。
でも、今は違う。
昴が中学に入った頃から、全てが変わってしまった。
ある日突然、昴は髪を短く切って、男の子みたいな服を着るようになった。最初は一時的なものだと思っていた。思春期の子は、色々なことを試したがるものだから。
でも、それは一時的なものではなかった。
昴は完璧に、男の子になってしまった。歩き方、話し方、すべてが男の子そのもの。まるで、女の子だった頃の昴は、幻だったみたいに。
私は戸惑った。
どう接すればいいのか、分からなくなった。
昴のことは愛している。夫を失って、女手一つで育ててきた大切な娘。でも、その娘が突然、息子になってしまったような感覚。
「昴ちゃん」と呼んでいいのか、「昴」と呼ぶべきなのか。
「可愛いね」と言っていいのか、「かっこいいね」と言うべきなのか。
分からない。分からないから、何も言えなくなってしまった。
ハンバーグをひっくり返しながら、私は考える。昴は何を思って、男の子の格好をするようになったんだろう。
性同一性障害というものがあることは知っている。テレビでも時々取り上げられる。もしかしたら、昴もそうなのかもしれない。
だとしたら、私は理解してあげるべきだ。受け入れてあげるべきだ。
でも、どうやって?
昴は何も説明してくれない。ただ黙って、男の子として振る舞っている。私が何か聞こうとすると、「別に」とか「普通だよ」としか答えない。
私が無理解な母親だから、話してくれないのかもしれない。
そう思うと、さらに悲しくなる。
夫がいてくれたら、どうしただろう。夫は昴のことを溺愛していた。いつも昴を膝の上に乗せて、絵本を読んでくれた。昴が泣けば、すぐに駆けつけて抱きしめてくれた。
夫なら、昴の気持ちを理解してくれたかもしれない。適切な言葉をかけてくれたかもしれない。
でも、夫はもういない。
交通事故で、昴が小学生の時に亡くなった。それから、私一人で昴を育ててきた。
最初の頃は大変だった。仕事と家事と育児の両立。でも、昴がいたから頑張れた。昴の笑顔が、私の支えだった。
それなのに、今は昴とどう接していいか分からない。
ハンバーグが焼けた。昴の好きな、デミグラスソースをかける。付け合わせは、昴の好きなポテトサラダとコーンスープ。
昴の好みは、ちゃんと覚えている。男の子の格好をするようになっても、食べ物の好みは変わらない。ハンバーグが好きで、カレーが好きで、甘いものも好き。
せめて、食事だけは昴の好きなものを作ってあげたい。それが、今の私にできる、愛情表現の全て。
玄関のドアが開く音がした。昴が帰ってきた。
「お帰りなさい」
私は振り返って、昴に笑いかける。
「ただいま」
昴は短く答えて、靴を脱ぐ。相変わらず、男の子そのものの仕草。
「ハンバーグよ。昴の好きな」
「ありがとう」
昴は素っ気なく答えて、自分の部屋に向かおうとする。
「あの……」
私は昴を呼び止める。
「何?」
昴が振り返る。整った顔立ち。夫に似ている。でも、私にも似ている。
「今日、学校はどうだった?」
私は恐る恐る聞く。
「普通」
昴は短く答えて、また歩き始める。
「昴……」
もう一度呼び止める。昴が、少し面倒そうな表情で振り返る。
「何かあったら、お母さんに話してね。どんなことでも」
私は精一杯の気持ちを込めて言う。
「別に何もないよ」
昴はそう言って、階段を上がっていく。
一人残された私は、キッチンに立ったまま、また涙が出そうになる。
昴は嘘をついている。何もないはずがない。
昴の学校生活のことも、友達のことも、何も知らない。昴が何を考えて、何に悩んでいるのかも分からない。
私は、昴の母親なのに。
夕食の時、昴はいつものように黙々とハンバーグを食べる。
「美味しい?」
私は聞いてみる。
「うん、美味しい」
昴は短く答える。でも、その時だけ、少し嬉しそうな表情を見せた。
ああ、昴はまだ、私の作ったご飯を美味しいと思ってくれているんだ。
それだけで、私は少し救われる。
でも、食事が終わると、昴はまた自分の部屋に戻ってしまう。リビングで一緒にテレビを見ることもなくなった。
私は一人で、食器を洗う。
昴が小さかった頃は、食器洗いを手伝ってくれた。背の届かない昴が、踏み台に乗って、一生懸命お皿を拭いてくれた。
「ママ、きれいになった?」
昴は、拭いたお皿を私に見せて、得意そうに笑った。
「とてもきれいよ、ありがとう」
私は昴を抱きしめて、頬にキスをした。昴は照れながらも、嬉しそうに笑ってくれた。
あの頃に戻りたい。
昴ともっと話したい。昴のことをもっと知りたい。昴を抱きしめたい。
でも、今の昴は、私のことを避けているような気がする。
私が何か間違ったことをしたんだろうか。昴を傷つけるようなことを言ったんだろうか。
でも、思い出せない。昴が男の子の格好をするようになってから、私は何も言えなくなってしまった。何を言っていいか分からなくて、黙ってしまった。
それがいけなかったのかもしれない。
昴は、私に話しかけて欲しかったのかもしれない。理解して欲しかったのかもしれない。
でも、私はどう理解すればいいのか分からなかった。
夜、昴が勉強している気配を感じながら、私はスマホをいじる。
最近、スマホばかり見ている。昴と話すことがなくなって、時間を潰すものがスマホしかない。
ネットで、性同一性障害について調べたりもする。でも、昴がそうなのか確信が持てない。昴は何も話してくれないから。
SNSを見ていると、同世代の女性たちが、子どもとの楽しそうな写真を投稿している。
娘と一緒にショッピングしている写真。息子と一緒にキャッチボールしている写真。
みんな、子どもとの関係が良好そうで、羨ましい。
私は昴と、いつから写真を撮らなくなったんだろう。昴が男の子の格好をするようになってから、カメラを向けることもなくなった。
昴が嫌がるような気がして。
でも、本当は昴も嫌がっていないのかもしれない。私が勝手に遠慮しているだけかもしれない。
時計を見ると、もう11時を過ぎている。昴の部屋の電気は、まだついている。
昴は夜更かしが多い。何をしているのか分からない。勉強? それとも、スマホでゲームでもしているのか。
注意した方がいいんだろうけど、最近は昴に何かを言うのが怖い。
また素っ気ない返事をされるのが怖い。昴との距離が、さらに広がってしまうのが怖い。
だから、何も言えない。
私は、ダメな母親だ。
昴が小さかった頃は、もっとしっかりしていた。昴のために、強くなろうと思っていた。夫を失った悲しみも、昴のために乗り越えようと思っていた。
でも、今は何もできない。昴のことを理解してあげることもできない。
昴は、私のことをどう思っているんだろう。
愛想のない母親だと思っているんだろうか。理解のない母親だと思っているんだろうか。
それとも、もう私のことなんて、どうでもいいと思っているんだろうか。
そう考えると、胸が締め付けられる。
昴は私の宝物なのに。昴がいなければ、私は生きていけないのに。
でも、その宝物との間に、厚い壁ができてしまった。
どうやったら、その壁を壊せるんだろう。
昴と、また普通に話せるようになるんだろう。
分からない。
最近、仕事にも集中できない。パートの事務の仕事をしているけれど、昴のことばかり考えてしまう。
同僚に相談したこともある。でも、うまく説明できなかった。
「思春期だから、そのうち落ち着くんじゃない?」
そんな風に言われたけれど、これが思春期の一時的なものなのか、それとももっと深刻な問題なのか、私には判断がつかない。
昴に直接聞けばいいんだろうけど、聞く勇気がない。
もし、昴が本当に性同一性障害だったら、私はどうすればいいんだろう。
昴のことを息子として受け入れるべきなのか。
でも、私には昴は娘にしか見えない。愛しい娘。
その娘が、息子になりたがっているなら、私は理解してあげるべきなんだろうけど。
ああ、でも私は昴のことを愛している。昴がどんな格好をしていても、昴は昴。私の大切な子ども。
それなのに、なぜうまく接することができないんだろう。
なぜ、昴は私に心を開いてくれないんだろう。
12時を過ぎても、昴の部屋の電気はついている。
私は昴の部屋の前まで行って、ノックしようかと思う。でも、手が止まる。
昴が迷惑そうな顔をするのが目に浮かぶ。
「何?」って、面倒そうに言われるのが分かる。
だから、ノックできない。
私は自分の部屋に戻る。
ベッドに横になっても、眠れない。昴のことばかり考えてしまう。
昴が小さかった頃のことを思い出す。
昴が風邪をひいた時、私は一晩中看病した。熱で苦しそうな昴の額に、冷たいタオルを当ててあげた。
「ママ、ありがとう」
昴は熱でぼんやりしながらも、私に感謝の言葉を言ってくれた。
その時の昴の笑顔が、忘れられない。
昴が運動会で転んで泣いた時も、私が駆け寄って抱きしめてあげた。
「痛くないよ、大丈夫よ」
私は昴を抱きしめて、頭を撫でてあげた。昴は私の胸で泣きながらも、安心したような表情を見せてくれた。
あの頃の昴は、私を必要としてくれていた。私がいなければ、昴は不安になった。
でも、今は違う。
昴は、もう私を必要としていない。一人で何でもできるようになった。
それは、昴が成長した証拠なんだろうけど、私は寂しい。
昴が男の子の格好をするようになってから、昴はさらに自立した。まるで、私から離れようとしているみたいに。
私は、昴に嫌われているんだろうか。
昴が男の子の格好をし始めた時、私が戸惑ったのが分かったんだろうか。私が受け入れられずにいるのが、昴に伝わってしまったんだろうか。
だとしたら、私は最低な母親だ。
子どもが自分らしく生きようとしているのに、それを理解してあげられない母親。
でも、私だって戸惑って当然じゃないか。
愛しい娘が、突然息子になってしまったんだから。
どう接すればいいか分からなくて当然じゃないか。
でも、その戸惑いが、昴を傷つけてしまったかもしれない。
私は涙が出てきて、枕に顔を埋める。
昴ともう一度、ちゃんと話したい。昴の気持ちを聞いてあげたい。
昴が何を考えているのか、何に悩んでいるのか、知りたい。
そして、昴を支えてあげたい。昴がどんな道を選んでも、応援してあげたい。
でも、そのためには、まず私が勇気を出さなければならない。
昴と向き合う勇気を。
明日、昴と話してみよう。
夕食の時に、勇気を出して話しかけてみよう。
昴の気持ちを聞いてみよう。
私はそう決意して、ようやく眠りにつく。
でも、翌日の夕食時、やっぱり私は何も言えなかった。
昴が黙々とご飯を食べている姿を見ていると、どう話しかけていいか分からなくなってしまう。
そして、また一日が過ぎていく。
そんな日々が続いて、私の心は少しずつ沈んでいく。
昴への愛情は変わらない。でも、その愛情をどう表現すればいいのか分からない。
昴と話したいのに、話せない。
昴を理解したいのに、理解できない。
昴を支えてあげたいのに、支えてあげられない。
そんな自分が情けなくて、悲しくて、私は毎日泣いている。
昴に気づかれないように、一人でこっそりと。
仕事から帰ってきて、昴のためにご飯を作って、一緒に食べて、昴が部屋に戻った後で、私は一人でリビングで泣いている。
昴のことを思って、どうしようもなく悲しくなって、涙が止まらなくなる。
この悲しみは、いつまで続くんだろう。
昴と、また仲良くなれる日は来るんだろうか。
昴が、また私に笑いかけてくれる日は来るんだろうか。
分からない。
でも、私は昴を愛している。昴がどんな格好をしていても、昴がどんな道を選んでも、私は昴を愛し続ける。
それだけは、絶対に変わらない。
たとえ昴が私のことを嫌いになっても、私は昴を愛し続ける。
それが、母親というものだから。
でも、できることなら、昴ともう一度笑い合いたい。
昴と、また楽しく話したい。
昴を抱きしめて、「愛してる」と言ってあげたい。
そんな日が来ることを、私は祈っている。
毎日、毎日、祈っている。
でも、その祈りが届くことはなく、時間だけが過ぎていく。
そして、私の心は少しずつ、少しずつ、沈んでいく。
愛する娘への想いと、どうすることもできない現実との間で、私の心は引き裂かれている。
この苦しみは、いつまで続くんだろう。
この悲しみから、いつか解放される日は来るんだろうか。
私は知らない。
ただ、昴への愛だけを胸に、毎日を生きている。
それ以外に、できることがないから。
昴が幸せになってくれることだけを願いながら、私は今日も一人で涙を流している。
私はいつの間にか、深い絶望の淵に沈んでいく。
昴への愛が、いつしか深い絶望感へと変わり、涙がポタポタと垂れる。
いつからかそれは目からではなく、全身から滴り落ちる水滴に変わっていた……。
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(あー、なんかめっちゃよく寝た気がする)
《アホづらこいてよく寝てたぞ》
目が覚めたとき、俺はやけに爽やかな気分だった。
夢を見たような気もするけど、思い出せない。
でも、なんとなく暖かい気持ちになっている。
(こんなにスッキリした目覚めだし、きっと乙葉ちゃんとの夢でもみてたんだろうな。覚えていないのがもどかしい)
《今日も朝から通常運転で安心だよ》
補足
ポン吉、昴にこの記憶は無いです。
知ってたら正気でいられないよ。お母さん……




