表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/68

ある魔物の記憶

 私は今、とても悲しい。


 キッチンに立って、昴の好きなハンバーグを作りながら、何度もため息をついてしまう。玉ねぎをみじん切りにしていると、涙が出てきた。玉ねぎのせいじゃない。最近、すぐに涙が出る。


 昴はもうすぐ帰ってくる。高校生になって、部活もあるから帰りは遅い。でも、ちゃんと手作りのご飯を食べさせてあげたい。それが、母親としてできる、数少ないことだから。


 昔はもっと簡単だった。


 小さな昴は、私の膝の上に座って、絵本を読んでもらうのが大好きだった。「ママ、これ読んで」と、お気に入りの絵本を持ってきて、私の膝の上でじっと聞いてくれた。


 「すごいね、昴ちゃん」と言えば、嬉しそうに笑ってくれた。


 「ママ、見て見て」と、折り紙で作った花を見せてくれた時も、「上手だね」と言えば、満面の笑みを浮かべてくれた。


 あの頃は、昴が何を考えているか、手に取るように分かった。


 でも、今は違う。


 昴が中学に入った頃から、全てが変わってしまった。


 ある日突然、昴は髪を短く切って、男の子みたいな服を着るようになった。最初は一時的なものだと思っていた。思春期の子は、色々なことを試したがるものだから。


 でも、それは一時的なものではなかった。


 昴は完璧に、男の子になってしまった。歩き方、話し方、すべてが男の子そのもの。まるで、女の子だった頃の昴は、幻だったみたいに。


 私は戸惑った。


 どう接すればいいのか、分からなくなった。


 昴のことは愛している。夫を失って、女手一つで育ててきた大切な娘。でも、その娘が突然、息子になってしまったような感覚。


 「昴ちゃん」と呼んでいいのか、「昴」と呼ぶべきなのか。


 「可愛いね」と言っていいのか、「かっこいいね」と言うべきなのか。


 分からない。分からないから、何も言えなくなってしまった。


 ハンバーグをひっくり返しながら、私は考える。昴は何を思って、男の子の格好をするようになったんだろう。


 性同一性障害というものがあることは知っている。テレビでも時々取り上げられる。もしかしたら、昴もそうなのかもしれない。


 だとしたら、私は理解してあげるべきだ。受け入れてあげるべきだ。


 でも、どうやって?


 昴は何も説明してくれない。ただ黙って、男の子として振る舞っている。私が何か聞こうとすると、「別に」とか「普通だよ」としか答えない。


 私が無理解な母親だから、話してくれないのかもしれない。


 そう思うと、さらに悲しくなる。


 夫がいてくれたら、どうしただろう。夫は昴のことを溺愛していた。いつも昴を膝の上に乗せて、絵本を読んでくれた。昴が泣けば、すぐに駆けつけて抱きしめてくれた。


 夫なら、昴の気持ちを理解してくれたかもしれない。適切な言葉をかけてくれたかもしれない。


 でも、夫はもういない。


 交通事故で、昴が小学生の時に亡くなった。それから、私一人で昴を育ててきた。


 最初の頃は大変だった。仕事と家事と育児の両立。でも、昴がいたから頑張れた。昴の笑顔が、私の支えだった。


 それなのに、今は昴とどう接していいか分からない。


 ハンバーグが焼けた。昴の好きな、デミグラスソースをかける。付け合わせは、昴の好きなポテトサラダとコーンスープ。


 昴の好みは、ちゃんと覚えている。男の子の格好をするようになっても、食べ物の好みは変わらない。ハンバーグが好きで、カレーが好きで、甘いものも好き。


 せめて、食事だけは昴の好きなものを作ってあげたい。それが、今の私にできる、愛情表現の全て。


 玄関のドアが開く音がした。昴が帰ってきた。


 「お帰りなさい」


 私は振り返って、昴に笑いかける。


 「ただいま」


 昴は短く答えて、靴を脱ぐ。相変わらず、男の子そのものの仕草。


 「ハンバーグよ。昴の好きな」


 「ありがとう」


 昴は素っ気なく答えて、自分の部屋に向かおうとする。


 「あの……」


 私は昴を呼び止める。


 「何?」


 昴が振り返る。整った顔立ち。夫に似ている。でも、私にも似ている。


 「今日、学校はどうだった?」


 私は恐る恐る聞く。


 「普通」


 昴は短く答えて、また歩き始める。


 「昴……」


 もう一度呼び止める。昴が、少し面倒そうな表情で振り返る。


 「何かあったら、お母さんに話してね。どんなことでも」


 私は精一杯の気持ちを込めて言う。


 「別に何もないよ」


 昴はそう言って、階段を上がっていく。


 一人残された私は、キッチンに立ったまま、また涙が出そうになる。


 昴は嘘をついている。何もないはずがない。


 昴の学校生活のことも、友達のことも、何も知らない。昴が何を考えて、何に悩んでいるのかも分からない。


 私は、昴の母親なのに。


 夕食の時、昴はいつものように黙々とハンバーグを食べる。


 「美味しい?」


 私は聞いてみる。


 「うん、美味しい」


 昴は短く答える。でも、その時だけ、少し嬉しそうな表情を見せた。


 ああ、昴はまだ、私の作ったご飯を美味しいと思ってくれているんだ。


 それだけで、私は少し救われる。


 でも、食事が終わると、昴はまた自分の部屋に戻ってしまう。リビングで一緒にテレビを見ることもなくなった。


 私は一人で、食器を洗う。


 昴が小さかった頃は、食器洗いを手伝ってくれた。背の届かない昴が、踏み台に乗って、一生懸命お皿を拭いてくれた。


 「ママ、きれいになった?」


 昴は、拭いたお皿を私に見せて、得意そうに笑った。


 「とてもきれいよ、ありがとう」


 私は昴を抱きしめて、頬にキスをした。昴は照れながらも、嬉しそうに笑ってくれた。


 あの頃に戻りたい。


 昴ともっと話したい。昴のことをもっと知りたい。昴を抱きしめたい。


 でも、今の昴は、私のことを避けているような気がする。


 私が何か間違ったことをしたんだろうか。昴を傷つけるようなことを言ったんだろうか。


 でも、思い出せない。昴が男の子の格好をするようになってから、私は何も言えなくなってしまった。何を言っていいか分からなくて、黙ってしまった。


 それがいけなかったのかもしれない。


 昴は、私に話しかけて欲しかったのかもしれない。理解して欲しかったのかもしれない。


 でも、私はどう理解すればいいのか分からなかった。


 夜、昴が勉強している気配を感じながら、私はスマホをいじる。


 最近、スマホばかり見ている。昴と話すことがなくなって、時間を潰すものがスマホしかない。


 ネットで、性同一性障害について調べたりもする。でも、昴がそうなのか確信が持てない。昴は何も話してくれないから。


 SNSを見ていると、同世代の女性たちが、子どもとの楽しそうな写真を投稿している。


 娘と一緒にショッピングしている写真。息子と一緒にキャッチボールしている写真。


 みんな、子どもとの関係が良好そうで、羨ましい。


 私は昴と、いつから写真を撮らなくなったんだろう。昴が男の子の格好をするようになってから、カメラを向けることもなくなった。


 昴が嫌がるような気がして。


 でも、本当は昴も嫌がっていないのかもしれない。私が勝手に遠慮しているだけかもしれない。


 時計を見ると、もう11時を過ぎている。昴の部屋の電気は、まだついている。


 昴は夜更かしが多い。何をしているのか分からない。勉強? それとも、スマホでゲームでもしているのか。


 注意した方がいいんだろうけど、最近は昴に何かを言うのが怖い。


 また素っ気ない返事をされるのが怖い。昴との距離が、さらに広がってしまうのが怖い。


 だから、何も言えない。


 私は、ダメな母親だ。


 昴が小さかった頃は、もっとしっかりしていた。昴のために、強くなろうと思っていた。夫を失った悲しみも、昴のために乗り越えようと思っていた。


 でも、今は何もできない。昴のことを理解してあげることもできない。


 昴は、私のことをどう思っているんだろう。


 愛想のない母親だと思っているんだろうか。理解のない母親だと思っているんだろうか。


 それとも、もう私のことなんて、どうでもいいと思っているんだろうか。


 そう考えると、胸が締め付けられる。


 昴は私の宝物なのに。昴がいなければ、私は生きていけないのに。


 でも、その宝物との間に、厚い壁ができてしまった。


 どうやったら、その壁を壊せるんだろう。


 昴と、また普通に話せるようになるんだろう。


 分からない。


 最近、仕事にも集中できない。パートの事務の仕事をしているけれど、昴のことばかり考えてしまう。


 同僚に相談したこともある。でも、うまく説明できなかった。


 「思春期だから、そのうち落ち着くんじゃない?」


 そんな風に言われたけれど、これが思春期の一時的なものなのか、それとももっと深刻な問題なのか、私には判断がつかない。


 昴に直接聞けばいいんだろうけど、聞く勇気がない。


 もし、昴が本当に性同一性障害だったら、私はどうすればいいんだろう。


 昴のことを息子として受け入れるべきなのか。


 でも、私には昴は娘にしか見えない。愛しい娘。


 その娘が、息子になりたがっているなら、私は理解してあげるべきなんだろうけど。


 ああ、でも私は昴のことを愛している。昴がどんな格好をしていても、昴は昴。私の大切な子ども。


 それなのに、なぜうまく接することができないんだろう。


 なぜ、昴は私に心を開いてくれないんだろう。


 12時を過ぎても、昴の部屋の電気はついている。


 私は昴の部屋の前まで行って、ノックしようかと思う。でも、手が止まる。


 昴が迷惑そうな顔をするのが目に浮かぶ。


 「何?」って、面倒そうに言われるのが分かる。


 だから、ノックできない。


 私は自分の部屋に戻る。


 ベッドに横になっても、眠れない。昴のことばかり考えてしまう。


 昴が小さかった頃のことを思い出す。


 昴が風邪をひいた時、私は一晩中看病した。熱で苦しそうな昴の額に、冷たいタオルを当ててあげた。


 「ママ、ありがとう」


 昴は熱でぼんやりしながらも、私に感謝の言葉を言ってくれた。


 その時の昴の笑顔が、忘れられない。


 昴が運動会で転んで泣いた時も、私が駆け寄って抱きしめてあげた。


 「痛くないよ、大丈夫よ」


 私は昴を抱きしめて、頭を撫でてあげた。昴は私の胸で泣きながらも、安心したような表情を見せてくれた。


 あの頃の昴は、私を必要としてくれていた。私がいなければ、昴は不安になった。


 でも、今は違う。


 昴は、もう私を必要としていない。一人で何でもできるようになった。


 それは、昴が成長した証拠なんだろうけど、私は寂しい。


 昴が男の子の格好をするようになってから、昴はさらに自立した。まるで、私から離れようとしているみたいに。


 私は、昴に嫌われているんだろうか。


 昴が男の子の格好をし始めた時、私が戸惑ったのが分かったんだろうか。私が受け入れられずにいるのが、昴に伝わってしまったんだろうか。


 だとしたら、私は最低な母親だ。


 子どもが自分らしく生きようとしているのに、それを理解してあげられない母親。


 でも、私だって戸惑って当然じゃないか。


 愛しい娘が、突然息子になってしまったんだから。


 どう接すればいいか分からなくて当然じゃないか。


 でも、その戸惑いが、昴を傷つけてしまったかもしれない。


 私は涙が出てきて、枕に顔を埋める。


 昴ともう一度、ちゃんと話したい。昴の気持ちを聞いてあげたい。


 昴が何を考えているのか、何に悩んでいるのか、知りたい。


 そして、昴を支えてあげたい。昴がどんな道を選んでも、応援してあげたい。


 でも、そのためには、まず私が勇気を出さなければならない。


 昴と向き合う勇気を。


 明日、昴と話してみよう。


 夕食の時に、勇気を出して話しかけてみよう。


 昴の気持ちを聞いてみよう。


 私はそう決意して、ようやく眠りにつく。


 でも、翌日の夕食時、やっぱり私は何も言えなかった。


 昴が黙々とご飯を食べている姿を見ていると、どう話しかけていいか分からなくなってしまう。


 そして、また一日が過ぎていく。


 そんな日々が続いて、私の心は少しずつ沈んでいく。


 昴への愛情は変わらない。でも、その愛情をどう表現すればいいのか分からない。


 昴と話したいのに、話せない。


 昴を理解したいのに、理解できない。


 昴を支えてあげたいのに、支えてあげられない。


 そんな自分が情けなくて、悲しくて、私は毎日泣いている。


 昴に気づかれないように、一人でこっそりと。


 仕事から帰ってきて、昴のためにご飯を作って、一緒に食べて、昴が部屋に戻った後で、私は一人でリビングで泣いている。


 昴のことを思って、どうしようもなく悲しくなって、涙が止まらなくなる。


 この悲しみは、いつまで続くんだろう。


 昴と、また仲良くなれる日は来るんだろうか。


 昴が、また私に笑いかけてくれる日は来るんだろうか。


 分からない。


 でも、私は昴を愛している。昴がどんな格好をしていても、昴がどんな道を選んでも、私は昴を愛し続ける。


 それだけは、絶対に変わらない。


 たとえ昴が私のことを嫌いになっても、私は昴を愛し続ける。


 それが、母親というものだから。


 でも、できることなら、昴ともう一度笑い合いたい。


 昴と、また楽しく話したい。


 昴を抱きしめて、「愛してる」と言ってあげたい。


 そんな日が来ることを、私は祈っている。


 毎日、毎日、祈っている。


 でも、その祈りが届くことはなく、時間だけが過ぎていく。


 そして、私の心は少しずつ、少しずつ、沈んでいく。


 愛する娘への想いと、どうすることもできない現実との間で、私の心は引き裂かれている。


 この苦しみは、いつまで続くんだろう。


 この悲しみから、いつか解放される日は来るんだろうか。


 私は知らない。


 ただ、昴への愛だけを胸に、毎日を生きている。


 それ以外に、できることがないから。


 昴が幸せになってくれることだけを願いながら、私は今日も一人で涙を流している。


 私はいつの間にか、深い絶望の淵に沈んでいく。


 昴への愛が、いつしか深い絶望感へと変わり、涙がポタポタと垂れる。

 いつからかそれは目からではなく、全身から滴り落ちる水滴に変わっていた……。

 

-----


 (あー、なんかめっちゃよく寝た気がする)


 《アホづらこいてよく寝てたぞ》

 

 目が覚めたとき、俺はやけに爽やかな気分だった。

 夢を見たような気もするけど、思い出せない。

 でも、なんとなく暖かい気持ちになっている。


 (こんなにスッキリした目覚めだし、きっと乙葉ちゃんとの夢でもみてたんだろうな。覚えていないのがもどかしい)


 《今日も朝から通常運転で安心だよ》

補足

ポン吉、昴にこの記憶は無いです。

知ってたら正気でいられないよ。お母さん……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ