ある半魔の記憶
根倉眠は、自分の過去を思い出すことが苦痛だった。
それでも、時々夢に見る。幸せだった頃の夢を。
目が覚めると、涙が枕を濡らしている。その度に、眠は自分がまだ生きていることを呪った。
小さい頃から、眠はなんでもそつなくこなせた。
勉強も、運動も、芸術も。周りの大人たちは、眠を「神童」と呼んだ。
テストはいつも満点。スポーツ大会では優勝。絵画コンクールでも金賞。
でも、眠にとってそんなことはどうでもよかった。
ただ一人、自分のことを見てほしい人がいた。
幼馴染の彼女――美咲だ。
美咲は、眠の隣の家に住んでいて、物心ついた時からずっと一緒だった。保育園も、小学校も、中学校も。いつも一緒だった。
初めて顔を合わせた時から、眠の頭の中は美咲でいっぱいだった。
美咲の笑顔。美咲の声。美咲の全てが、眠にとっての世界だった。
眠は、美咲に褒められたかった。美咲に、認められたかった。
だから頑張った。何でも、完璧にこなした。
「眠くん、すごいね」
美咲が笑う。
その笑顔を見るためだけに、眠は努力し続けた。
どんなに辛くても、美咲の笑顔を思い浮かべれば頑張れた。
美咲のためなら、何だってできる気がした。
中学三年生の卒業式の日。
桜が舞い散る校庭で、眠は勇気を出して告白した。
「美咲、俺と付き合ってくれ」
心臓が、爆発しそうだった。
美咲は少し驚いた顔をした後、満面の笑みで答えた。
「うん。ずっと待ってたよ」
その言葉を聞いた時、眠は世界一幸せな存在になったと確信した。
美咲も、自分のことを見てくれていた。
自分のことを、待っていてくれた。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。
二人は、それから毎日手を繋いで歩いた。
朝も、昼も、夕方も。
どんな時も、一緒だった。
「一生、一緒にいような」
ある日の夕暮れ、眠はそう言った。
「うん」
美咲が頷く。
その笑顔が、夕日に照らされて輝いていた。
眠は、その約束を一生守ると決めた。
絶対に、美咲を幸せにする。
そう誓った。
眠の両親は、優しい人たちだった。
眠のやりたいことを、何でもやらせてくれた。
ピアノを習いたいと言えば、ピアノを買ってくれた。サッカーをしたいと言えば、サッカーチームに入れてくれた。絵を描きたいと言えば、画材を揃えてくれた。
そしてただやらせてくれるだけじゃなかった。
眠が結果を出すと、ちゃんと褒めてくれた。
「すごいね、眠」
「頑張ったね」
その言葉が、眠を支えた。
眠は、自分が恵まれた環境だと理解していた。
素晴らしい家族に、世界一の幼馴染の彼女。
これ以上、何を望むことがあるだろう。
眠の人生は、完璧だった。
高校を卒業する時、周りはみんな大学に進学した。
でも、眠は就職を選んだ。
「大学行かないの?」
友人たちは皆、驚いた顔で聞く。
「ああ。早く働きたいんだ」
「どうして?」
「美咲と、早く結婚したいから」
眠はそう答えた。
それを聞いた友人は、なるほどと言った顔で頷く。
「お前、本当に美咲のことが好きなんだな」
「当たり前だろ。そのためだけに生きてるんだから」
眠も笑った。
それは、冗談じゃなかった。
本当に、美咲のために生きていた。
美咲がいなければ、眠の人生には意味がなかった。
就職してから、眠は必死に働いた。
残業も、休日出勤も厭わなかった。
お金を貯めた。指輪を買うために。プロポーズするために。
毎日、通帳の残高を確認した。
少しずつ増えていく数字が、眠を励ました。
もう少し。もう少しで、美咲にプロポーズできる。
そう思うと、どんなに辛い仕事も耐えられた。
そして――美咲の二十歳の誕生日。
眠は、レストランを予約した。高級なレストランだ。
眠には少し高かったけど、美咲のためなら惜しくなかった。
むしろ、これくらいで美咲が喜んでくれるなら、安いものだと思った。
「美咲」
食事が終わった後、眠は立ち上がった。
手が、震えていた。
ポケットから、小さな箱を取り出す。
「結婚してくれ」
箱を開けると、指輪が光っていた。
美咲の目から、涙が溢れた。
「うん……うん……!」
美咲が、何度も頷く。
眠は、美咲の指に指輪をはめた。
完璧だった。サイズも、デザインも。
何度も何度も、店に通って選んだ甲斐があった。
「ありがとう、眠くん」
「こちらこそ」
二人は、抱き合った。
眠は、幸せだった。
これから、美咲とずっと一緒にいられる。
それだけで、十分だった。
これ以上、何も望むことはなかった。
婚約してから、二人は両親に報告することにした。
眠の両親も、美咲の両親も、大喜びだった。
「おめでとう」
「幸せにね」
みんなが、祝福してくれた。
眠の母は、涙を流して喜んだ。
眠の父は、眠の肩を叩いて笑った。
美咲の両親も、二人を温かく見守ってくれた。
そして、食事会を開くことになった。
眠の両親、美咲の両親、そして眠と美咲。
六人で、レストランに行くことになった。
眠が、運転することになった。
自分の車を買ってから、まだ数ヶ月しか経っていなかった。
でも、運転には自信があった。
「気をつけてね」
美咲が、助手席で笑う。
「任せろ」
眠も笑った。
後部座席には、眠の両親が座っていた。
美咲の両親は、別の車で来ることになっていた。
眠は、慎重に運転した。
大切な人たちを乗せているんだ。
絶対に、無事に送り届ける。
そう心に決めていた。
交差点に差し掛かる。
信号は、青だった。
眠は、左右を確認した。
何も来ていない。
だから、眠は進んだ。しっかりと確認して進んだんだ。
その瞬間――。
横から、猛スピードで車が突っ込んできた。
「っ!」
眠は、ハンドルを切ろうとした。
ブレーキを踏もうとした。
でも、間に合わなかった。
今までに経験したことのない衝撃。
世界が、回転する。
ガラスが割れる音。金属が軋む音。
美咲の悲鳴。
母の叫び声。
父の呻き声。
全部が、ぐちゃぐちゃになって聞こえた。
気がついた時、眠は病院にいた。
体中が痛い。
でも、一番気がかりなことがあった。
最愛の存在は、無事なのか?
眠は、ベッドから起き上がろうとした。
「動かないでください」
看護師が止める。
「美咲は……?」
眠は聞いた。
看護師が、目を伏せる。
「……主治医が説明に来ますのでお待ちください」
「美咲は!」
眠は叫んだ。
看護師が、何も言わない。
その沈黙が、全てを物語っていた。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
考えたくない。
認めたくない。
しばらくして、医師が来た。
「根倉さん……」
医師が、重い口を開く。
「お連れ様は……全員、亡くなられました」
「……え?」
眠の頭が、真っ白になった。
「美咲さん、そしてご両親……即死でした」
「嘘だろ……」
眠の声が、震える。
「本当に、申し訳ございません」
医師が、深々と頭を下げる。
眠は、何も言えなかった。
信号は、青だった。青だったんだ。
確認もした。
だから進んだ。それだけなのに。
なんで。
なんで、こんなことになるんだ。
なんで、俺だけ生きているんだ。
葬儀が終わった後、眠は何もする気になれなかった。
三つの棺。
その中に、眠の全てが入っていた。
美咲。
母。
父。
全部、失った。
仕事も、辞めた。
友達にも、会いたくなかった。
誰とも、話したくなかった。
ただ、家に引きこもった。
何も食べない。何も飲まない。
ただ、ベッドに横たわっているだけ。
天井を、じっと見つめる。
何も考えたくない。
何も感じたくない。
絶望ってのは、こういうことなんだな。
眠はそう思った。
何もしたくない。何もする気にならない。
生きている意味が、わからない。
体が、スライムみたいに溶けていく気がした。
力が入らない。動けない。
何日経ったのか、わからない。
時間の感覚が、なくなっていた。
そして――。
ある日、鏡を見た。
自分の顔が、映っている。
でも、何かが違う。
体の一部が――スライム状になっていた。
「……なんだ、これ」
眠は呟いた。
触ってみると、ぬるりとした感触。
気持ち悪い。
でも、痛くはない。
むしろ、何も感じない。
眠は、鏡から目を離した。
もう、どうでもいい。
何もかも、どうでもいい。
化け物になってもいい。
どうせ、もう人間じゃない。
大切な人を守れなかった、ただの抜け殻だ。
数日後、部屋のドアがノックされた。
「根倉さん、いらっしゃいますか?」
女性の声だ。
眠は、無視した。
でも、ドアが開いた。
「失礼します」
部屋に入ってきたのは、若い女性だった。
黒髪のロング。整った顔立ち。
「誰だ……」
眠の声は、かすれていた。
「鏡昴と申します。八罪管理局という組織の者です」
「……宗教なら間に合ってる。出ていけ」
「出ていきません」
昴が、笑う。
「あなたは、特別な存在。半魔という存在なんです」
「半魔……?」
「人間でありながら、魔物の力を持つ者です」
「……」
「あなたの体がスライム状になっているのは、怠惰の半魔だからです」
昴が、近づいてくる。
「私たちの組織に、来ませんか? その体の制御の仕方もお教えできますよ」
「断る」
「どうしてですか?」
「生きる意味が、ないからだ」
眠はそう言った。
昴が、少し悲しそうな顔をする。
「生きる意味は、これから見つければいいんです」
「……見つからないよ」
眠の目から、涙が溢れた。
「俺の人生は、全部美咲のためだった。美咲がいない人生なんて、意味がない」
「……」
「両親も、失った。もう、何もない」
眠が、声を震わせる。
「何もないんだ……」
「一人で、ここにいても何も変わりません」
「変わらなくていい……」
「でも」
昴が、眠の肩に手を置く。
「私たちと一緒なら、変われるかもしれません」
昴が、手を差し伸べる。
「来てください。お願いします」
眠は、その手を見る。
長い沈黙の後――。
眠は、その手を取った。
「……わかった」
どうせ、もう失うものは何もない。
このまま死ぬのも、何かを始めるのも、どちらでもいい。
ただ――。
この女性の目が、本気だった。
それだけが、眠を動かした。
「ありがとうございます」
昴が笑う。
眠は立ち上がった。
体は、まだスライム状のままだった。
でも、動ける。
それだけで、十分だった。
業務を終えてひと段落ついている時間。
寮で一人でいる時間。
そんな時、ついつい思い出してしまう。
幸せだった日々を。
美咲の笑顔を。
両親の声を。
全部、もう戻らない。
「そんで俺は、ここに来たってわけか」
眠は呟いた。
すると、背後から声が聞こえる。
「はい。そして、これからです」
咄嗟に振り向くと、昴が立っていた。
「これから……?」
「あなたの新しい人生が、始まります」
昴がまた笑った。
眠はその笑顔を見て――。
少しだけ、心が軽くなった気がした。
ほんの少しだけ。
でも、それで十分だった。
生きる意味は、まだわからない。
でも、探してみてもいいかもしれない。
そう思えた。
美咲も、両親も、もう戻らない。
でも彼らは、きっと眠に生きてほしいと思っているはずだ。
そう信じたかった。




