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藤崎一

 私は、目の前の青年――根倉眠に向かって、ゆっくりと語りかけていた。


 窓の外には、夕暮れの空が広がっている。オレンジ色に染まった雲が、ゆっくりと流れていく。


 この部屋は、八罪管理局の局長室だ。まだ新しい建物の匂いが残っている。


 青年は、ソファに座ってこちらを見ている。眠たそうな目だが、しっかりと話を聞いているようだ。


「彼女が来てから、もう三十年になるか」


 私は、コーヒーカップを手に取る。


 もうすっかり冷めてしまったコーヒーを、一口飲む。


「私も希も、もう六十。そろそろ体がキツくなってきた、彼女との約束の歳までは頑張らないとね」


 青年が、小さく頷く。


「それを終えたら、希と海外旅行に、国内旅行に、温泉、遊園地、どこにでも行こう。目が見えなくても楽しめるものが、この三十年でたくさん増えた」


 私は、笑う。


 希の笑顔を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれる。


「そう、彼女の話だったね。この年になると考え事が口に出ちゃうことが増えてねぇ。ごめんねー」


 私は、窓の外を見る。


「昴はとても優秀だよ。この組織、八罪管理局の創設から手伝ってもらっていてねぇ」


 青年が、興味深そうにこちらを見る。


「この組織は、君のような人間でありながら魔物のような力を使える者たちを保護し、同時に魔物や魔物集団に対応していく組織なんだ」


 私は、コーヒーカップを置いた。


「これも彼女が決めたことなんだけどね。どうやらこの先、魔物も徒党を組んで人類を脅かすようになる日が来るかもしれないってことらしいよ」


「……徒党を? そんなことあるんですか」


 青年が、初めて口を開く。


「あんな本能のまま動く奴らがって思うだろ?」


 青年は、頷く。


「それがねぇ、魔物って強くなると、特殊な力が使えたり、人と同じように喋ったり思考したりするようになるのさ」


「……マジですか」


「マジだよ。だから、それに備えるための組織でもあるんだ」


 青年が、難しい顔をする。


「それにねぇ、彼女は無理だと思ったこともやってのけた」


「無理だと思ったこと?」


「世界に魔物を認知させているのに、魔物被害は認知させていない」


「……どういうことです?」


「正確にはちょっと違うけどね」


 私は、立ち上がる。


 窓際に歩いていき、外を見る。


「ネットを使って、魔物のことを少しずつ広めてねぇ。魔物は見たことはないけど確かにいるって存在にまですることができたんだよ。お化けと一緒だね」


「……すげぇな」


「すごいだろう?」


 私は、振り返る。


「表向きは、事務局員として働いているんだ。地味な仕事だよ。書類整理とか、データ入力とか」


「地味ですね」


「でも、裏では違う」


 私は、青年の目を見る。


「普通の半魔では処理しきれない強力な魔物を倒したり、政府直轄組織になるために能力を見せたり、暴力装置として脅したりしていた」


「……脅したり?」


「そう。政府の偉い人たちに、ね」


 私は、苦笑する。


「彼女がいなければ、この組織は今頃、ただの民間団体だっただろうね」


「そんなに強いんですか?」


「強いよ。とんでもなく」


 私は、ソファに戻る。


「でもね、彼女は自分の力を誇示しない。いつも控えめで、裏方に徹している」


「なんでです?」


「さあ、本人に聞いてみないとわからないけど」


 私は、また笑う。


「多分、目立ちたくないんだろうね。それに、自分の力を見せびらかすのは、彼女の美学に反するんだろうね」


「美学……」


「そう、美学」


 私は、コーヒーカップを手に取る。


 もう一口飲む。やっぱり冷めている。


「昴に会う時は、びっくりして惚れちゃわないようにね」


「……は?」


 青年が、きょとんとした顔をする。


「昔も今も、別嬪さんでねぇ。モテモテだったんだけど、絶対靡かないんだよ」


「……靡かない?」


「未来に決めた人がいるんだってさ」


 私は、笑う。


「ふふふ、笑っちゃうだろ? 心に決めた人じゃなくて、未来に決めた人だなんて。彼女らしい」


「未来に……?」


「正直、妻がいなかったら私もアタックしていたかもねぇ?」


 私は、ウインクする。


「あ、これは希には内緒だよ。昴も別嬪だけど、希より素敵な存在はいないからねぇ」


「……存在?」


 青年が、首を傾げる。


「そう、存在」


 私は、真面目な顔をする。


「僕からしたら、希は神だからね」


「神……」


「だからこそ、彼女のためにこの組織を作ったんだよ」


 私は、立ち上がる。


 窓の外を、また見る。


「希が笑ってくれるなら、僕は何でもする。世界を敵に回してもいい」


「……」


「だから、君も気をつけるんだよ。絶対、惚れたらダメだよ?」


「……なんでです?」


「男の子にはこれ言っても無理なこと多いんだよねぇ」


 私は、苦笑する。


「でも、彼女には決めた人がいる。だから、君が惚れても無駄なんだ」


「……別に惚れませんよ」


 青年が、むっとした顔をする。


「だって、ババァでしょ? 五十六十のババァに惚れるわけないじゃないですか」


「ふふ、そう思うよね」


 私は、笑う。


「でも、彼女を見たら、その考えは変わるかもしれないよ」


「……どういうことです?」


「彼女は、三十年前から一切歳を取っていないんだ」


「……は?」


「見た目は、三十年前のまま。十代の少女のまま」


 青年が、呆然とする。


「だから、君が惚れないように気をつけるんだよ」


 私は、また笑う。


「まあ、惚れても無駄だけどね」


「……」


 青年が、黙り込む。


 私は、窓の外を見る。


 夕暮れの空が、だんだん暗くなっていく。


「彼女は、本当に不思議な人だよ」


 私は、呟く。


「三十年間、ずっと一緒にいたけど、未だに謎だらけだ」


「……」


「でも、それがいいんだろうね」


 私は、笑う。


「謎だらけだから、飽きない。いつも新鮮だ」


「……藤崎さん」


「ん?」


「本当に、昴さんに惚れてないんですか?」


 青年が、真剣な顔で聞く。


「惚れてないよ」


 私は、即答する。


「希がいるからね」


「……」


「でも、希がいなければ、惚れていたかもしれない」


 私は、正直に言う。


「それくらい、魅力的な人だ」


「……そうですか」


「でも、希以上に魅力的な人はいない」


 私は、笑う。


「だから、僕は大丈夫だよ。僕はね?」


「……」


 青年が、また黙り込む。


 私は、時計を見る。


 もうすぐ、希が来る時間だ。


「さて、そろそろ終わりにしようか」


 私は、青年を見る。


「君は、明日から正式に八罪管理局の一員だ」


「……はい」


「頑張ってくれ」


「……はい」


 青年が、立ち上がる。


 そして、頭を下げる。


「ありがとうございました」


「いいよ、いいよ」


 私は、手を振る。


「これからよろしくね」


「はい」


 青年が、部屋を出ていく。


 私は、また窓の外を見る。


 もう、すっかり暗くなっていた。


 星が、少しだけ見える。


「昴……」


 私は、呟く。


「君は、本当に不思議な人だ」


 そして――。


「ありがとう」


 私は、笑った。


「君がいてくれて、本当に良かった」


 そう言って、私はコーヒーカップを持ち上げる。


 冷めたコーヒーを、最後の一口まで飲み干した。


 苦い。


 でも、それがいい。


 人生は、苦いものだ。


 でも、甘い瞬間もある。


 希との時間。


 昴との時間。


 そして、これから始まる新しい時間。


 全部、大切だ。それがこの年になってやっと分かった気がする。


「さあ、帰ろうか」


 私は、立ち上がり部屋を出た。


 廊下を歩きながら、私は思う。


 三十年前、昴が来た時のことを。


 あの時は、本当に驚いた。


 未来から来たなんて、信じられなかった。


 でも、希が言ったんだ。


「彼女は、本物よ」


 それで、私は信じた。それだけで十分だからだ。希が言うなら、間違いない。


 そして、三十年間、一緒にやってきた。


 大変だったけど、楽しかった。

 昴は、いつも真面目で、一生懸命だった。


 でも、時々、ふっと笑う顔が可愛かった。


 そして――。


 いつも、どこか寂しそうだった。

 未来に決めた人のことを、思っているんだろう。


 その人に、会いたいんだろう。

 でも、会えない。

 だから、寂しい。


 そんな顔をしていた。


「頑張れよ、昴」


 私は、呟く。


「君の未来が、幸せでありますように」


 そして――私は、家に帰った。


 希が、待っている。


 きっと笑顔で、待ってくれている。


 それだけで、幸せだ。


 私の人生は、希と共にある。


 そして、昴と共にある。


 大切な仲間たちと共にある。


 それが、私の幸せだ。


「ただいま」


 家のドアを開けると、希の声が聞こえた。


「おかえりなさい」


 その声を聞くだけで、心が温かくなる。


 私は、笑った。


 そして――今日も、幸せな一日が終わる。

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