表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/69

ある魔物の記憶5

 腹が鳴った。

 

 生きろという命令の、ただの残響だ。


 最初に腹が鳴った日を、私は覚えている。


 まだ、私の心がまだ人間だった頃。

髪は肩まで伸び、爪は短く、言葉を持っていた頃。


 都は乾いていた。田は割れ、井戸は底を見せ、空は透明で、すべてを見捨てるかのような色をしていた。


 道の端に、倒れた人がいる。


 倒れたまま起き上がらない人がいる。


 起き上がらない人の周りを、まだ生きている人が避けて歩く。


 都では、死体が風景と化していた。



 門の下――高い門の影。


 雨を防ぐには十分だが、寒さと飢えを防ぐには何も足りない場所。


 そこに、私たちは集まっていた。


 門は、羅生門と呼ばれていた。


 かつては都の顔だったらしい。けれど今は、瓦は剥がれ、柱は黒ずみ、獣の糞と人の吐瀉物が同じ匂いで固まっている。


 誰も都の顔とは呼ばない。ただの穴だ。人が落ちて、這い上がれない穴。


私の名は、伊都(いと)。そう名付けられた

母がつけた。糸のように細くても、切れずに生きろ、と。


 私はその名が嫌いだった。細いものは、絡まった末に切れる。私の人生も、絡まりそして切れた。


 父は早くに死んだ。疫病だったか、飢えだったか、もう覚えていない。


 弟の名は、春。


 まだ乳の匂いが抜けきらないのに、いつも私の背中に張りついて歩いた。


 「姉ちゃん、米のにおいがする」そう言って笑った顔を、私はたびたび思い出す。


 思い出すたびに、口の中に何もないのに唾が湧き、次の瞬間には腹が鳴る。


 その音が、春の声を押し潰す。私はそれが怖くて、思い出を噛み砕くみたいに飲み込んだ。


 母は糸を紡いでいた。指先に血の線を何本も作りながら糸を紡ぎ、布を織り、私と弟の口に粥を運んだ。


 その粥が、覚えてる限りで最後のまともな食事だった。


 飢饉は突然始まったわけでは無い。


 最初は値段が上がり、次に人の顔が険しくなり、笑いが消え、最後に米が消えた。

 米が消えたあと、祈りが増えた。祈りが増えたあと、死人が増えた。


 そして死人が増えたあと、私たちは門の下に集まった。


 泣き声は出なかった。


 泣くための水分が、もう体に残っていなかったからだ。


 誰かが言った。


「食うものがない」


 誰かが返した。


「いや、食えるものはそこらじゅうにある」


 その言葉の意味を、私は理解してしまった。


 理解した瞬間に、私は私の中の人間性を半分失った。


 そうしないと、立っていられなかったからだ。


 一度気付けば死体は、宝の山になる。


 髪は売れる。布も売れる。骨は砕けば粉薬になる。

 肉体は――肉は、肉だ。


 都は人を簡単に見捨てる。

 故に私は、人間性を捨てた。


 それを初めて口にした時、私はすぐに吐きだした。

 喉が拒絶した。心が拒絶した。


 けれど胃は、拒絶しなかった。


 一口食らえば腹が鳴った。

 腹が鳴って、私を立たせた。

 腹が鳴って、私を歩かせた。

 腹が鳴って、私の手を死体へ伸ばした。


 これは、罪だ。

 これは、生だ。


 飢えは倫理を溶かす。

 倫理は人間の心の鎧だ。鎧は食えない。

 食えないものは、捨てるしか無い。


 一度捨てたものは、戻らない。


 人は、空腹の前では平等だ。

 そして空腹を満たせる者だけが、生き残る。

 生き残った者は、飢えていた感覚を忘れない。

 飢えを忘れない者は、もう元の人間性には戻れない。


 それが私だ。


……私は、本当は戻りたかったんだ。


 弟の名を口に出したかった。母の手の温かさを思い出したかった。


 けれど思い出すたびに腹が鳴る。思い出は腹を満たさない。そのくせ思い出は空腹を呼ぶ。


 だから私は、思い出すことをやめた。


 門の上には、死体が積まれていた。


 都は、死体を片づける力も失っていた。


 誰かが「上に置けば獣が持っていく」と言った。

 獣が持っていく前に、人が持っていく。私はそれを見て、目を逸らした。


 けれど、ある晩だけは逸らせなかった。


 門の上に登る影があった。腰の曲がった婆が、死体の髪を一本ずつ抜いていた。


 黒い髪が、乾いた指の間でぷつりと切れる。抜かれるたびに、死体の頭がわずかに揺れる。


 私は吐き気を覚えた。吐き気は贅沢だ、そう頭によぎるが、それでも胃がせり上がった。


「なにをしてる」


 声が掠れた。自分の声が、生きていることに驚く。

婆は振り向かず、髪を抜く手も止めずに答えた。


「売るんだよ。女の髪は金になる。都の女は飾りを捨てても、髪は捨てられないからね」


「死んでるんだぞ」


「死んでるから抜けるんだ」


婆はそこで、やっと私を見た。目が、石みたいに乾いていた。

 憐れみも、怒りもない。あるのは、ただの計算。


「お前さん、腹は鳴ってるかい」


 私は答えられなかった。答えの代わりに腹が鳴った。

婆は、ふ、と笑った。その笑い方が妙に冷たかった。


「なら、同じだ。生きるためにやってる。生きるために、やっちゃいけないことをやる。都はそういう場所だ。お前さんが正しい人なら、とうに死んでる。そうだろう?」


正しい人。言葉が胸に刺さる。


 私は正しい人だったのか。母の粥を弟に譲ったとき、私は正しい人だったのか。


 父の墓に花を供えたとき、私は正しい人だったのか。……そうだ。私は、正しい人だったはずだ。


 でも正しい人は、今、門の下で腹を鳴らしている。


 婆は言った。


「髪を抜くのが嫌なら、目を閉じな。目を閉じて、腹の音だけ聞きな。腹の音は、嘘をつかないよ」


 その晩、私は眠れなかった。

 腹の音が、婆の言葉になって、ずっと耳の奥で鳴っていた。


 誰かが言った。


「食うものがない」


 誰かが返した。


 「いや、食えるものはそこらじゅうにある」


 ――同じ言葉が、何度も反芻される。


 反芻のたびに、私は人間を一枚ずつ脱いでいく気がした。


 ある夜、門の下で、ひとりの女が笑った。


 顔の皮だけ残して、骨が透けるように痩せた女だった。


 彼女は私の手元を見て笑っていた。


 私が握っていたのは、干からびた腕だった。


「それ、うまい?」


 その声は軽かった。軽すぎて、罪悪感すら湧かなかった。


 私は答えなかった。


 答えられなかったのではない。答える必要がなかった。


 重要なのはうまいかどうかではない。腹が満たせるかどうかだ。


 そして腹は少し満たせた。


 女は自分の名を言った。伽耶(かや)と。


「ねえ伊都。あんた、まだ吐いてるの?」


「……黙れ」


「吐けるうちは、まだ人間じゃん。羨ましいな」


 私はその言葉に、頭を殴られた様な衝撃を受ける。


 人間、という言葉が、こんなにも重いとは思わなかった。


 重いものは運べない。運べない物は捨てるしかない。


 私はまた、人間性を少し捨てた。


 私が自分で食べることを選んだのではない。

 飢えが、私に選ばせた。


 だがその日から、世界の輪郭が変わった。


 色で、うまそうに感じる。

 匂いで、うまそうに感じる。

 音が、うまそうに感じる。


 人が、うまそうに見える。


 私は恐ろしくなった。

 だが恐ろしさもまた、飲み込んでいった。


 私が近づくと、弱いものがずるずると寄ってくる感覚。


 まるで世界が「どうぞ」と差し出してくるみたいに。


 最初は、錯覚だと思った。

 腹が空いて、目が狂ったのだと。

 けれど狂っていたのは、目だけではなかった。

 耳も、皮膚も、心も、何もかもが狂っていた。


 伽夜が言った。


 「都ってさ、でっかい腹みたいだよね」


 私は笑えなかった。笑う余裕もない。


 「腹が鳴る。鳴るから奪う。奪って食う。食ったらまた腹が鳴る」


 伽夜は指で自分の肋骨を叩いた。乾いた骨の音がした。


 「ほら。空っぽ」


 私は、空っぽが怖かった。


 空っぽは、死と同じだ。

 空っぽが怖いから、私は詰め込んだ。詰め込んで、詰め込んで、詰め込んだ。


 都は飢饉で歪み、人は飢饉で壊れ、私は飢饉で完成した。


 完成、という言葉は不適切だろうか。だって飢えに終わりはない。

 あるのは無限なまでの空腹だけだ。


 食えば食うほど、私は満たされない。

 満たされないから、私は食う。


 私は、底なしの器だった。


 私が求めているのは肉ではない。

 米でもない。水でもない。


 満たされるという感覚だ。


 けれどその感覚だけは、どれだけ食べても手に入らなかった。


 私の胃は、満腹を知らない。

 私の脳は、満腹を許さない。

 私の口は、満腹を嘘だと笑う。


 ある朝、私は自らの顔を見た。

 割れた瓦の欠片に映った自分の顔。


 目が、獣だった。

 口が、裂けていた。

 歯が、増えて、牙が生えていた。

 頬が、欲で弛んでいた。


 私は、笑った。醜く笑う。


 まるで猪人のように笑ってしまったのだ。


 ……その笑いが、伽夜を怯えさせた。

 伽夜は一歩下がり、次に二歩下がり、最後は走った。

 走る足音が、私の腹を鳴らした。


「待て」


 声が出たのが、自分でも意外だった。

食べ物に言葉を投げるなんて、なんておかしなことを。そう思っていたのに。


 私はまだ、伽夜を人間として呼んでしまった。


 伽夜は振り返らなかった。


 振り返れば終わりだと、知っていたのだろう。


 私は追いかけた。

 追いかけて、追いついて、伸ばした手が、彼女の肩を掴んだ。

 その瞬間、私の中で何かがほんの一瞬満たされた。


 ――食べなければ、私は空っぽになる。


 伽夜は震えた。

 

「伊都、やめて。あたしは、あたしは……」


 言葉の先は、喉に詰まって出てこなかった。

 私はそれを聞きたくなかった。

 聞けば、私の手が止まるかもしれない。止まれば、私は死ぬ。


 だから私は、聞かなかった。

 聞かなかった代わりに、噛んだ。


 血は温かかった。

 温かさは、久しぶりだった。

 母の手の温かさに似ている気がして、私は泣きそうになった。

 泣きそうになって、腹が鳴った。


 伽夜は、私の腕の中で軽くなった。

 軽くなるのは、死の合図だ。

 私はその軽さに、安心してしまった。

 安心した自分に気づいて、私はまた笑った。

醜い笑いで。


……あの日から、私は人を食べられるようになった。

吐かなくなった。


 吐かなくなった瞬間に、何かが死んだ。


 多分、伊都という女が死んだ。


残ったのは、腹だけだ。


 都は人を食う。

 噂を食う。

 希望を食う。

 家族を食う。

 誇りを食う。


 それを見て生き延びた私は、都を超えた存在になれた。


 人が私を見て、逃げる。

 逃げた足音が、私の腹を鳴らす。

 恐怖の匂いが、私の喉を潤す。


 

 私は思う。

 飢饉はそのうち終わる。

 雨が降れば、稲は育つ。麦は実る。人は笑う。


 だが私は知っている。

 どんなに恵まれていても、飢えは生まれる。


 食べるものがあっても、飢えは生まれる。

 愛されていても、飢えは生まれる。

 満たされているはずでも、飢えは生まれる。


 街の明かりが海みたいに広がる場所。

 人が多く、物が多く、欲が多い場所。

 飢えを隠すのが上手な場所。



 私は、笑う。


 昔の私は、門の下で死体を喰らっていた。

 今の私は、門の中で生きた欲を喰らう。


 食べる。

 食べる。

 食べる。


 だが満たされない。


 ――満たされない。


 その満たされなさこそが、私だ。

 私を生かし、私を殺し、私を永遠にする。


 そして、いまも私の腹が鳴っている。








 


(さぁやるぜい!今日は資料漁りだ。)


《やけに寝起きスッキリしてんな》


(泣き疲れて寝たからかな?)


《出すもん出したらスッキリしたか》


(お?セクハラか?)


《良いでは無いか、良いでは無いか》


(あーれー、おやめになってお殿様ぁ)


そんなくだらないやり取りをしながら、私達は管理局の資料室へ向かうのだった。


羅生門

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ