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大丈夫

 深夜の管理局。


 満服乙葉は、誇のデスクで山のような書類を片付けていた。自分の分も、誇の分も。書類整理、報告書、現場との連絡調整――すべて一人で。


 ペンを走らせる手は震えていた。目が霞む。文字が二重に見える。それでも、乙葉は止まらなかった。


「誇さん、少しでも休んでほしいから……」


 乙葉が、独り言を呟いた。


 誇は、限界だった。毎日、魔物の討伐に出て、帰ってきては書類に追われている。睡眠時間は、ほとんどない。だから、せめて書類だけでも。せめて、誇が少しでも休めるように。


 乙葉は、そう思っていた。


 目の前の報告書には、今日だけで倒した魔物の数が記されている。深度1が12体。深度2が3体。いずれも都内各所で発生したものだ。


 乙葉は、その数字を見て溜息をついた。こんな数、根倉局長がいた頃には考えられなかった。あの人は、もっと効率的に、もっとスマートに組織を動かしていた。


 だが今は違う。場当たり的に、ただ発生した魔物を倒しているだけ。予防も、戦略も、何もない。


 乙葉は、次の書類に目を通した。物資の在庫リスト。医療品が不足している。装備の補充も必要だ。予算も足りない。


 一つ一つ、チェックを入れていく。発注リストを作成し、優先順位をつける。こんなことまで、以前は専門のスタッフがいたのに。今は、乙葉一人でやるしかない。


 時計を見る。午前二時。まだ終わらない。


「もう少し……もう少しだけ……」


 乙葉は、コーヒーを一口飲んだ。冷めきっている。苦い。でも、眠気覚ましには十分だった。


 次は、明日の作戦計画書。誇が現場で使うための資料だ。地図を広げ、魔物の発生パターンを分析する。この地域は深度1が多い。この時間帯は発生率が高い。


 データを見ながら、赤ペンで印をつけていく。誇が見やすいように、できるだけシンプルにまとめる。


 書類を一通り片付けた乙葉は、立ち上がった。足がふらつく。壁に手をついて、バランスを取る。


「ふう……」


 乙葉は、深く息を吐いた。そして、廊下を歩き始めた。


 静かな廊下。誰もいない。足音だけが響く。蛍光灯が、規則的に点滅している。この電気も、そろそろ交換が必要だ。そんなことまで気になってしまう。


 誇の部屋の前を通りかかった時、乙葉は立ち止まった。


 中から、小さな声が聞こえた。最初は、聞き間違いかと思った。でも、確かに――依里の声。


「兄さん……」


 甘く、掠れた声。


 乙葉の体が、固まった。心臓が、早鐘のように打つ。


 もう一度、声が聞こえた。


「兄さん……もっと……」


 乙葉は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで、現実だと分かる。


 その瞬間、誇の声も聞こえた。


「依里……」


 低く、掠れた声。優しさと、何か別の感情が混じった声。


 乙葉は、その場に立ち尽くした。頭が真っ白になる。何も考えられない。何も感じられない。ただ、胸が苦しかった。


 息が、できない。


 体が、動かない。


 どれくらいそうしていたのか、分からなかった。


 乙葉は、ゆっくりと歩き出した。一歩、また一歩。足音を立てないように。誰にも気づかれないように。


 何も聞かなかったことにしよう。そう、自分に言い聞かせた。


「兄妹だもの……きっと、支え合ってるだけ……」


 乙葉が、小さく呟いた。でも、その声は震えていた。


 自分でも分かっている。それは、ただの言い訳だ。現実から目を逸らしているだけだ。


 でも、見たくない。認めたくない。


 だって、認めてしまったら――。


 乙葉は、自分の部屋に戻った。そして、ベッドに倒れ込んだ。涙が、溢れた。でも、声は出さなかった。ただ、静かに泣いた。枕を顔に押し当てて、誰にも聞こえないように。


 翌朝。


 乙葉は、鏡の前で化粧をしていた。目の下の隈を隠すために、コンシーラーを厚く塗る。頬紅で、血色の悪さを誤魔化す。


 鏡に映る自分は、もう乙葉じゃないみたいだった。


 でも、これでいい。誰にも心配かけたくない。


 乙葉は、資料を抱えて食堂に向かった。


 食堂には、昴と依里、誇の三人が既に座っていた。淡々と朝食を取っている。


 昴は、いつものようにコーヒーを飲んでいた。完璧な笑顔で。


 依里は、誇の隣に座っていた。いつもと変わらない顔。何事もなかったかのように。パンを小さくちぎって、口に運んでいる。


 誇は、疲れ切った顔をしていた。目の下の隈が、さらに濃くなっている。でも、依里が隣にいると、少しだけ表情が和らいでいる。


「おはよう、乙葉」


 昴が、声をかけた。


「……おはよう」


 乙葉が、小さく返事をした。


 乙葉は、誇の前に資料を置いた。


「誇さん、昨日の戦闘報告、整理しておきました。それと、今日の巡回ルートも最適化しておきました」


 誇は、小さく頷いた。


「ありがとう、助かる」


 その声は、疲れ切っていた。


 乙葉の胸が、痛んだ。昨夜の声が、耳から離れない。依里の声。誇の声。あの、甘い声。


 乙葉は、頭を振った。考えちゃいけない。見なかったことにしよう。聞かなかったことにしよう。


 乙葉は、笑顔を作った。


「大丈夫。私が支えるから」


 その笑顔は、完璧だった。あまりにも完璧すぎて、誰もその裏の痛みに気づかなかった。


 昴が、乙葉を見た。


「乙葉、ちゃんと寝てる?」


「うん、大丈夫」


 乙葉が、嘘をついた。


 昴は、少しだけ目を細めた。でも、何も言わなかった。自分も同じだから。嘘をついて、笑顔を作っている。だから、乙葉の嘘も分かる。


 でも、何も言えない。


 依里が、誇に寄り添った。


「兄さん、今日も気をつけてね」


「ああ、お前も無理するなよ」


 二人のやりとりを見て、乙葉は胸が苦しくなった。


 普通の兄妹に見える。でも、昨夜のことを思い出してしまう。


 乙葉は、トーストを一口齧った。味がしない。喉を通らない。それでも、無理やり飲み込んだ。


 その日の午後。作戦室に、技術班から緊急報告が入った。


「オリジンシンの反応を感知しました」


 技術員の声が、通信機から響いた。乙葉の手が、一瞬止まった。


 誇が、席を立った。


「どこだ?」


「位置は特定できませんが、反応は二体。暴食と色欲の波形に酷似しています」


 乙葉が、息を呑んだ。


「暴食と、色欲……?」


 色欲と聞き、いろはの顔が乙葉の脳裏によぎった。それ故に乙葉の声が震える。


 誇が、拳を握りしめた。


「今度は、俺たちで決着をつける」


 依里が、誇の袖を掴んだ。


「兄さん……」


 その声は、不安そうだった。怯えているようにも見えた。


 乙葉は、二人を見た。昨夜のことが、頭をよぎる。でも、乙葉は何も言わなかった。ただ、立ち上がった。


「……待ってください。準備だけは、私に任せてください」


 乙葉の声は、冷静だった。感情を押し殺して、完璧に局長の代わりを演じ始めていた。


「作戦を立てます。装備の確認も、通信の準備も、すべて私がやります」


 誇が、乙葉を見た。


「乙葉……お前も疲れてるだろう。無理するな」


「大丈夫です」


 乙葉が、笑顔で言った。


「私がいれば、大丈夫ですから」


 その笑顔は、あまりにも完璧だった。誇も、依里も、昴も、誰もその裏の痛みに気づかなかった。


 いや――気づいていても、何も言えなかった。自分たちも、限界だから。


 乙葉は、すぐに動き始めた。地図を広げ、予想される戦闘地域をマークする。装備リストを作成し、必要な物資を確認する。通信網を整備し、バックアップ体制を構築する。


 一つ一つ、チェックを入れていく。漏れがないように。誰も死なないように。


 誇が、乙葉の隣に立った。


「乙葉、本当にありがとう」


「いえ」


 乙葉が、首を振った。


「これが、私の仕事ですから」


 誇は、何か言いかけて、でも結局何も言わなかった。ただ、小さく頷いて、準備に取り掛かった。


 その日の夜。乙葉は、再び書類と向き合っていた。


 作戦立案。装備のチェックリスト。通信の連絡網。すべて、一人で。


 気づけば、深夜になっていた。窓の外では、雨が降っていた。静かな雨音が、部屋に響く。


 乙葉は、机に突っ伏した。体が、限界だった。頭が、回らない。目が、霞む。


 それでも、止まれなかった。


「大丈夫……大丈夫だよ……」


 乙葉が、呟いた。


「私がいれば、みんな壊れない……」


 その声は、泣いているのか笑っているのか分からなかった。


 乙葉は、机の上の書類を見た。その隅に、根倉局長の手書きのメモがあった。


『頑張りすぎるなよ、乙葉』


 乙葉の指が、震えた。涙が、溢れた。


「……うるさいなぁ、局長」


 乙葉が、小さく笑った。涙が、紙に落ちる。文字が、滲んでいく。


「局長がいれば……こんなことにならなかったのに……」


 乙葉の声が、震えた。


「局長がいれば……みんな笑ってたのに……」


 乙葉は、顔を伏せた。涙が、止まらなかった。


「どうして……どうして私なんかが……」


 乙葉は、自分の無力さを呪った。局長のようには、できない。みんなを笑顔にすることも、できない。ただ、必死に支えようとしているだけ。


 それでも、みんなは壊れていく。誇も、依里も、昴も。そして――自分自身も。


 乙葉は、立ち上がった。ふらつく足で、窓に近づく。雨が、窓を叩いている。街は、暗かった。魔物の脅威は、まだ続いている。人々は、恐怖に怯えている。


 そして――管理局は、崩壊寸前だった。


「私が……私が支えなきゃ……」


 乙葉は、拳を握りしめた。でも、その拳は震えていた。力が、入らない。体が、限界だった。


 それでも、乙葉は止まれなかった。止まったら、すべてが崩れてしまう気がした。


 乙葉は、再び机に向かった。書類を手に取る。ペンを握る。手が震える。それでも、書き続けた。


 一文字、また一文字。涙で視界が霞む。それでも、書き続けた。


「大丈夫……大丈夫……」


 乙葉は、呪文のように呟いた。


「私がいれば……大丈夫……」


 でも、その呪文は、もう乙葉自身も信じられなくなっていた。


 窓の外では、雨が激しく降っていた。まるで、乙葉の涙のように。


 そして――。乙葉の心も、確実に壊れ始めていた。誰も気づかないうちに。誰も助けられないうちに。静かに、静かに。崩れていく。


誇、オマエェ……

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