一歩手前
満服乙葉は、廃墟となった管理局の屋上で泣いていた。
空はまだ赤かった。昨夜の巨大な花火――烈志と灯の最期の炎が、まだ空に残っているかのように。
「どうして……どうしてみんな、いなくなるの……」
乙葉の声は、誰にも届かない。風が吹き、髪を揺らす。涙が頬を伝い、地面に落ちる。
根倉局長。
いろは。
烈志。
灯。
みんな、もういない。
乙葉は、膝を抱えて座り込んだ。体が震える。寒い。心が、凍りつきそうだった。
その時、屋上のドアが開いた。
誇が、現れた。
「乙葉……」
誇の声は、震えていた。いつもの堂々とした声ではなく、か細く、不安定な声。
「誇さん……」
乙葉が、顔を上げた。
誇の顔は、疲れ切っていた。目の下には隈ができ、頬はこけている。局長の代わりに指揮を執ろうとしているが、明らかに限界だった。
「みんな……集まってくれ。これからのことを話したい」
誇が、震える声で言った。
乙葉は、立ち上がった。涙を拭う。そして、誇についていった。
管理局の会議室。
そこには、残された者たちが集まっていた。
誇。依里。昴。乙葉。
たった四人。
かつては、もっと大勢いた。根倉局長を中心に、笑い声が絶えない場所だった。
だが今、誰も笑っていなかった。
誇が、地図を広げた。
「これから……俺たちで、管理局を立て直す」
誇の声は、震えていた。自信がない。それが、誰の目にも明らかだった。
「局長の代わりなんて……できるわけないけど……でも、やるしかない」
誇が、拳を握りしめた。
「魔物は増え続けてる。俺たちが戦わないと、もっと人が死ぬ」
乙葉が、誇を見た。
「誇さん……」
乙葉は、何か言おうとした。励ましの言葉を。希望の言葉を。
だが、言葉が出てこなかった。
誇も、限界なのだ。無理をしているのだ。それが、分かってしまった。
依里は、誇の隣にずっと座っていた。他の誰も見ていない。ただ、兄だけを見ている。
「兄さん……無理しないで……」
依里が、小さく呟いた。
「俺は大丈夫だ」
誇が、依里の頭を撫でた。
「お前がいれば、俺は大丈夫だから」
依里は、誇にしがみついた。まるで、兄以外の世界が消えてしまったかのように。
乙葉は、その様子を見て、胸が痛んだ。
依里も、壊れかけている。
誇も、壊れかけている。
そして――。
乙葉は、昴を見た。
昴は、窓際でコーヒーを飲んでいた。いつもと同じように。何事もなかったかのように。
その姿が、あまりにも普通すぎて、乙葉は違和感を覚えた。
「昴……」
乙葉が、昴に声をかけた。
昴が、振り返った。
「ん? どうしたの、乙葉」
昴は、笑顔だった。いつもの、完璧な笑顔。
「昴……平気なの? 局長も、いろはさんも、烈志さんも……みんな死んじゃったのに……」
乙葉の声が、震えた。
昴は、少し首を傾げた。
「平気って?」
「だって……昴、いつもと同じじゃん……」
乙葉が、涙声で言った。
「なんで……なんでそんなに平気そうなの……?」
昴は、コーヒーを一口飲んでから、答えた。
「悲しくないわけないよ」
昴の声は、静かだった。感情がない。まるで、機械のような声。
「でも、そうやってメソメソして局長達は帰ってくるの?」
乙葉が、息を呑んだ。
「魔物は倒せるの? 平和になるの?」
昴が、乙葉を見た。その目は、冷たかった。
「今やるべきことは嘆くことじゃなくて――一つでも脅威を潰すこと、でしょ」
乙葉の体が、震えた。
「……それ、本気で言ってるの?」
昴が、少し笑った。
「本気って何? 嘘言ってもしょうがないじゃん」
それから目を細めて私を舐め回すように見つめる。
「それとも乙葉ちゃんが、私の悲しみを忘れさせてくれるの?」
その言葉は、冗談めかしていた。だが、その冗談は残酷だった。
乙葉は、何も言えなかった。涙が止まった。いや、止まったのではない。恐怖で、涙が出なくなったのだ。
この人……もう壊れてるんだ。
乙葉は、そう気づいた。
昴は、壊れている。完璧な笑顔の裏で、心が崩壊している。
だが、誰もそれに気づいていない。昴は完璧に演じているから。
乙葉の胸が、痛んだ。
誇が、それを見て何も言わず拳を握った。彼も、気づいているのかもしれない。だが、何も言えない。自分も限界だから。
依里は、無表情のまま兄に寄り添っていた。彼女には、もう兄以外が見えていない。
会議室に、重い沈黙が落ちた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、静かに崩壊していく。
それが、今の管理局だった。
会議が終わった後、乙葉は一人で廊下を歩いていた。
足が重い。体が動かない。
それでも、歩き続けた。
局長室の前で、立ち止まった。
もう、誰もいない部屋。
乙葉は、ドアを開けた。
そこには、根倉局長の机があった。コーヒーカップが、そのまま置いてある。書類が、散乱している。
まるで、根倉局長が今すぐ戻ってくるかのように。
乙葉は、椅子に座った。根倉局長が座っていた椅子。
「局長……」
乙葉が、呟いた。
「私……どうすればいいんですか……」
答えは返ってこない。
ただ、静寂だけがあった。
乙葉は、涙を流した。声を殺して、泣いた。
でも、泣いているだけでは何も変わらない。
乙葉は、涙を拭った。
「そうだ……私が……」
乙葉が、立ち上がった。
「私が、局長の代わりをするんだ」
乙葉の目に、決意が宿った。
そうだ。誰かがやらなければいけない。
誇は、限界だ。無理をしている。
依里は、兄のことしか見えていない。
昴は、壊れている。
なら、私がやるしかない。
「まずは……昴をどうにかしなきゃ」
乙葉が、呟いた。
「きっとあの子も限界なんだ。昴のことだから、私の胸に抱いてあげれば大丈夫」
乙葉は、昴のことを思った。
昴は、いつも強がっている。完璧を演じている。だから、きっと心の中では泣いているはずだ。
なら、私が支えてあげなきゃ。
「誇さんは、依里ちゃんがいるから……実務をサポートしてあげれば大丈夫」
乙葉は、計画を立てた。
誇には、依里がいる。二人は支え合っている。だから、実務だけサポートすればいい。
「大丈夫。大丈夫」
乙葉が、自分に言い聞かせた。
「まだ終わってなんかいない」
乙葉は、拳を握りしめた。
そうだ。まだ終わっていない。
根倉局長も、いろはも、烈志も、灯も。
みんな、最期まで戦った。
なら、私も戦わなきゃ。
乙葉は、局長室を出た。
そして、昴の部屋に向かった。
昴の部屋の前で、乙葉は深呼吸をした。
ノックする。
「昴、入っていい?」
しばらくして、ドアが開いた。
昴が、いつもの笑顔で立っていた。
「乙葉? どうしたの?」
「ちょっと……話したいことがあって」
「うん、いいよ。入って」
乙葉は、部屋に入った。
昴の部屋は、いつもと同じだった。綺麗に整理されていて、何も変わっていない。
二人は、ベッドに座った。
「昴……」
乙葉が、口を開いた。
「本当に、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
昴が、笑顔で答えた。
「さっきも言ったけど、泣いててもしょうがないし」
「でも……」
乙葉が、昴の手を握った。
「無理しなくていいんだよ。私の前では、泣いてもいいんだよ」
昴が、少し驚いた顔をした。
「……乙葉」
「昴は、いつも強がってるけど……本当は辛いんでしょ?」
乙葉が、昴の目を見た。
「私の胸で、泣いていいんだよ」
昴は、しばらく黙っていた。
そして――。
「ありがとう、乙葉」
昴が、笑顔で言った。
「ほんと、乙葉には敵わないなぁ」
その笑顔は、完璧だった。
あまりにも完璧すぎて、乙葉は胸が痛んだ。
昴は、泣かない。泣けない。
完璧な笑顔の裏で、心が壊れているのに。
「昴……」
乙葉が、昴を抱きしめた。
「無理しないで……お願い……」
昴は、乙葉に抱きしめられたまま、何も言わなかった。
ただ、静かに笑っていた。笑いながら涙を流していた。
「あれ、おかしいな。涙出てきちゃったよ」
胸の中で、昴はポロポロと涙が出て、止まらなくなる。
「こんなはずじゃなかったのになぁ。平気な感じで頼れる昴の筈なのに」
「大丈夫。大丈夫だよ。昴はずっと頼れる昴だよ。ただちょっと疲れちゃっただけだよ」
頭を撫でながら落ち着くのを待っていると、いつのまにか昴は眠りについていた。
よく眠れていなかったのだろう、涙で溶けたファンデーションの下には誇と変わらない隈があった。
その夜、乙葉は自分の部屋で考えていた。
昴は、限界だ。
誇も、依里も、限界だ。
でも、なんとかしなきゃいけないんだ。
でも私一人じゃ、何もできないかもしれない。
乙葉は、壁に拳を叩きつけた。
「くそ……!」
涙が溢れる。
でも、諦められない。
「大丈夫……大丈夫……」
乙葉は、自分に言い聞かせた。
「まだ終わってなんかいない……」
でも、その声は震えていた。
乙葉自身も、もう限界だった。
それでも、乙葉は立ち上がった。
誰かが、やらなければいけない。
なら、私がやる。
乙葉は、決意した。
局長の代わりを。
みんなを支える存在に。
でも――。
その決意は、あまりにも重すぎた。
乙葉の肩に、世界の重みが乗っていた。
そして、その重みは、確実に乙葉を押し潰そうとしていた。
可哀想は可愛い




