花火
赤城烈志は、訓練場で拳を壁に叩きつけていた。
一発、また一発。
だが、炎は出なかった。
拳だけが、空しく壁を打つ。乾いた音が、広い訓練場に響く。
根倉局長が死んだ。
いろはが死んだ。
それから数日が経った。
管理局は、崩壊寸前だった。誰も声をかけない。誰も笑わない。廊下を歩いていても、すれ違う人間は目を逸らす。ただ、重い空気だけが漂っていた。
烈志は、また拳を壁に叩きつけた。皮膚が破れ、血が滲む。指の骨が軋む音がした。それでも、炎は出なかった。
「くそ……」
烈志が、呟いた。
「燃やす理由がねぇんだよ……」
烈志は、壁に背を預けて座り込んだ。血まみれの拳を見つめる。震えている。力が入らない。
憤怒の半魔、赤城烈志。その力は、怒りを炎に変える。感情が高ぶれば高ぶるほど、炎は強く燃える。
だが今、烈志の心には怒りがなかった。ただ、空虚だけがあった。
何のために戦うのか。誰のために戦うのか。それが、分からなくなっていた。
根倉局長は、いつも笑っていた。飄々としていて、でも誰よりも仲間を大事にしていた。
いろはは、いつも明るかった。茶化したり、からかったり、でも誰よりも優しかった。
二人とも、もういない。
烈志は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
その時、訓練場のドアが開いた。紅蓮寺灯が、入ってきた。三毒会のメンバー。同じ憤怒の半魔。
「烈志」
灯が、烈志に声をかけた。
「……何だよ」
烈志は、顔を上げなかった。
「まだ、戦える人が必要なの」
灯が、真剣な顔で言った。
「魔物の発生は止まらない。私たちが戦わないと、もっと人が死ぬ」
「勝手にやれよ」
烈志が、背を向けた。
「俺は……もう戦えねぇ」
「嘘」
灯が、烈志の肩を掴んだ。
「あんたは誰よりも熱い男だったじゃない。弱音なんて、似合わないわよ」
「うるせぇ」
烈志が、灯の手を振り払った。
「お前に何が分かる。俺は……仲間を守れなかった。局長も、いろはも、誰も守れなかった」
烈志の声が、震えた。
「炎が出ねぇんだよ。怒りが湧かねぇんだよ。ただ……ただ虚しいだけなんだ」
「……」
灯は、何も言わなかった。ただ、烈志の背中を見つめていた。その目には、哀しみと、決意があった。
「私は、行く」
灯が、立ち上がった。
「一人でも、戦える限り戦う。それが、私たちの役目だから」
「灯……」
「あんたが戦えないなら、私が戦う。だから――」
灯は、ドアの前で振り返った。
「死なないでよ。あんたが死ぬとこなんて見たくないから」
灯は、訓練場を出ていった。
烈志は、ただ座り込んだままだった。灯の言葉が、胸に突き刺さっていた。
それから数時間後。
烈志は、自分の部屋で横になっていた。天井を見つめながら、何も考えない。考えられない。
その時、通信機が鳴った。
『赤城烈志、応答しろ!』
誇の声だった。緊迫している。
烈志は、通信機を取った。
「……何だよ」
『灯が出撃した。単独で深度3の討伐に向かった。だが、通信が途絶えた』
「……は?」
烈志が、跳ね起きた。
『場所は新宿。深度3の反応が複数ある。少なくとも五体。早く向かってくれ!』
「今行く!」
烈志は、部屋を飛び出した。
胸の中に、久しぶりに熱いものが湧き上がってきた。怒り。自分の無力さへの怒り。灯を一人で行かせた怒り。そして――灯を危険にさらした魔物への怒り。
烈志の拳から、小さな火花が散った。
烈志は、新宿に向かって走った。
新宿の街は、地獄と化していた。
魔物が、そこかしこで暴れている。深度3――理性を取り戻した魔物たち。イフリート、ゴーレム、スライム、ミラージュ、オーク。少なくとも、五体はいる。
烈志は、その中心に向かって走った。ビルの瓦礫を飛び越え、崩れた道路を駆け抜ける。
そして――灯を見つけた。ボロボロの姿で、地面に倒れている。体中が傷だらけで、血が流れている。
「灯!」
烈志が、灯に駆け寄った。
その瞬間、イフリートが烈志に襲いかかってきた。炎を纏った巨大な拳が、烈志を狙う。
烈志は、拳を握りしめた。だが、炎は出なかった。
「くそ!」
烈志は、素手でイフリートを殴った。拳が、イフリートの顔に叩き込まれる。骨が軋む音。だが、ダメージはほとんどない。炎のない攻撃では傷つかない。
「おいおいこいつ正気かよ。変身もせず突っ込んできたぞ?」
魔物たちがゲラゲラと笑い声を上げる。
「死にたいならほれ、殺してやるよ」
イフリートが、烈志を殴り返した。炎の拳が、烈志の腹に叩き込まれる。
「ぐっ!」
烈志は、地面に叩きつけられた。体中が痛い。肋骨が折れたかもしれない。
「そんなにこの女が大事ならなんで1人にしたんだろうなぁ。俺なら1人になんかならねぇけどなぁ。なぁお前ら」
魔物達は烈志を笑いものにしていた。
それでも、烈志は立ち上がった。血を吐きながら、再びイフリートに向かって走る。
「灯……!」
烈志は、再びイフリートに向かって拳を振るった。顔を殴る。体を蹴る。だが、炎のない攻撃は、深度3には通じなかった。
「だぁかぁらぁ、学習しようぜ?」
イフリートが、烈志を掴んで地面に叩きつけた。背中から地面に激突し、意識が飛びそうになる。
「それパース」
ゴーレムが、烈志に向かって巨大な拳を振り下ろした。烈志は転がって避けるが、地面が砕ける衝撃で体が跳ね上がる。
「こいつまじ何しにきたん」
スライムが、烈志の足に絡みついた。動きが鈍る。その隙に、ミラージュが幻影で烈志を翻弄する。どれが本物か分からない。
烈志は、何度も何度も殴られた。顔が腫れ上がる。肋骨が折れる。腕が軋む。それでも、烈志は立ち上がり続けた。
「くそ……くそ……!」
烈志の目から、血の涙が流れた。視界が霞む。体が動かない。
その時、小さな声が聞こえた。
「烈志……」
灯の声だった。か細く、今にも消えそうな声。
烈志が、灯に駆け寄った。魔物の攻撃を受けながらも、必死に灯の元へ。
「灯! 大丈夫か!」
「遅いよ……」
灯が、微笑んだ。血で汚れた顔で、それでも笑っていた。
「でも、来てくれて嬉しい……」
灯の体は、ボロボロだった。炎で焼かれ、爪で裂かれ、もう動けない状態だった。呼吸が浅く、意識も朦朧としている。
「灯、喋るな! 今助ける!」
「無理……よ……もう……」
灯が、小さく笑った。
「私……もう……体の感覚が……」
「やめろ! そんなこと言うな!」
烈志が、灯を抱きしめた。
「お前は……俺の……」
烈志の言葉が、詰まった。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、胸の中に熱いものが溢れ出してきた。
怒り。悲しみ。そして――愛。
烈志の瞳が、赤く光った。拳が、燃え始めた。小さな炎が、烈志の体を包み込む。
「なあ……」
烈志が、灯に呟いた。
「なんで俺の分まで頑張ったんだよ……」
灯が、微笑んだ。
「だって……あんたが戦えないなら……私が……代わりに……」
「俺はクソ馬鹿野郎かよ!」
烈志が、叫んだ。
「女に戦わせて、男が引きこもってんじゃねぇよ! クソ! それでも男かよッ!」
烈志の体から、炎が溢れ出した。憤怒の力が、全開になる。炎が地面を焼き、空気が歪む。
イフリートたちが、烈志に向かって襲いかかってきた。
「お涙頂戴は見飽きてるんだよなぁ。ここでおっぱじめるなら見逃してもいいぞ」
「ギャハハ」
烈志は、灯を背に庇った。五体の魔物が、包囲する。
「いつからだ?」
烈志が、灯に尋ねた。
「え?」
「いつから、俺のことを……」
烈志の問いに、灯は少し驚いた顔をした。そして、微笑んだ。
「さあね……気づいたら……ずっと見てた……」
「そうか。そうだよな、いつでもいいか」
烈志が、微笑んだ。
「今この時、おんなじ気持ちなら、それでいい」
烈志は、灯の手を握った。
「二人で――でっけぇ花火でもあげるか?」
灯が、微笑みながら頷いた。
「いいね……それ……派手に……やろう……」
二人の体から、炎が溢れ出した。烈志の憤怒の炎と、灯の憤怒の炎。二つの炎が、一つになる。
「「欲望解放」」
それは、もはや怒りだけの炎ではなかった。愛する人を守りたいという、強い想い。その炎が、空に向かって燃え上がった。
「燃焼!」
烈志が、叫んだ。
「爆炎!」
灯が、叫んだ。
二人の技が、同時に発動した。炎が、都市一帯を包み込む。赤い光が、空を染める。
イフリート、ゴーレム、スライム、ミラージュ、オーク――すべての魔物が、光の中で溶けていく。悲鳴も上げられず、ただ炎に飲まれていく。
空に、巨大な紅い花火のような爆発が起きた。それは、遠く離れた管理局からも見えるほどだった。街全体を照らす、巨大な光。
管理局の作戦室で、誇が通信を受けていた。
『こちら赤城烈志。……これが、俺たちの最後の仕事だ』
ノイズが入る。通信が途切れそうになる。
『灯と……一緒に……でっけぇ花火……あげてやったぜ……』
烈志の声が、笑っているように聞こえた。満足そうで、穏やかで。
『局長……いろは……待っててくれよな……すぐ行くからよ……』
通信が、途切れた。
誇は、通信機を握りしめた。
「烈志……」
誇の目から、涙が溢れた。拳で涙を拭う。
窓の外を見ると、遠くの空が紅く染まっていた。まるで、巨大な花火のように。夜空を照らす、紅い光。
それは、烈志と灯の最期の輝きだった。
新宿の廃墟。
烈志と灯の体が、寄り添うように倒れていた。二人とも、微笑んでいた。手を繋いだまま。
炎はもう、消えていた。だが、二人の心は、最期まで燃え続けていた。愛する人のために。守りたい人のために。そして――自分自身のために。
烈志と灯の命は、ここで尽きた。だが、その想いは、残された者たちの心に刻まれた。
空には、まだ紅い光が残っていた。まるで、二人の魂が天に昇っていくかのように。
雨が降り始めた。その雨は、まるで涙のように、静かに二人を包み込んだ。
世界は、また一つ、光を失った。
バイバイ




