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イトシイヒト

 艶見いろはは、窓の外を見つめていた。


 戦闘の音が、止んでいた。


 爆発音も、咆哮も、何もかもが静まり返っている。


 不気味なほどの静寂。


 そして――空に、巨大な影が飛び立つのが見えた。


 黒い翼を広げた、ドラゴン。


 その背中には、満足そうな雰囲気が漂っていた。


「あ……」


 いろはの口から、小さな声が漏れた。


 ドラゴンが飛び去っていく。


 それは、戦いが終わったことを意味していた。


 そして――。


「あ……ああ……」


 いろはの体が、震えた。


 ドラゴンは飛び去った。


 それはつまり――。


「嘘……」


 いろはの膝が、崩れた。


 床に手をつく。


 涙が、ポタポタと落ちた。


「嘘……嘘でしょ……」


 いろはの声が、震えた。


「局長……局長……!」


 いろはが、叫んだ。


「いやーーーーーっ!」


 窓ガラスが震えるほどの叫び声。


 いろはは、床に崩れ落ちた。


「嘘……嘘……嘘……!」


 涙が止まらない。


 体が震える。


 息ができない。


「局長……帰ってきてよ……!」


 いろはが、泣き叫んだ。


「約束したじゃない……! 美味しいもの作って待っててって……!」


 いろはの声が、部屋中に響いた。


 烈志が、いろはの肩に手を置いた。


「いろは……」


「触らないで!」


 いろはが、烈志の手を振り払った。


「局長……局長……」


 いろはは、ただ泣き続けた。


 どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。


 涙が枯れるまで、泣いた。


 声が掠れるまで、叫んだ。


 そして――。


 いろはは、ゆっくりと立ち上がった。


 涙は止まっていた。


 目は虚ろで、焦点が合っていない。


「作らなきゃ」


 いろはが、呟いた。


「え?」


 烈志が、振り返った。


「作らなきゃ……あの人が帰ってきたら食べる物、作らなきゃ」


 いろはが、ふらふらと歩き出した。


 髪はボサボサで、メイクは涙でぐちゃぐちゃ。服も戦闘後で汚れている。


 だが、いろはは気にしていなかった。


「作らなきゃ……作らなきゃ……」


 いろはが、キッチンに向かって歩き出した。


「いろは、待て!」


 烈志が、いろはの腕を掴んだ。


「離して」


 いろはが、冷たい声で言った。


「作らなきゃいけないの。局長が帰ってくるから」


「いろは……」


 誇が、前に立った。


「局長は……もう……」


「帰ってくるって言ったもん」


 いろはが、誇を睨んだ。


 その目は、正気を失っていた。


「約束したもん。だから、帰ってくる」


「いろは、落ち着け」


 誇が、いろはの肩を掴んだ。


「局長は……死んだんだ」


「嘘」


 いろはが、首を振った。


「嘘……嘘……」


 いろはの目から、再び涙が溢れた。


「だって……せっかく見つけたのに……」


 いろはが、震える声で言った。


「どうして……どうして……」


 いろはの膝が、再び崩れた。


「どうして……どうしてどうしてどうしてどうして……どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……!」


 いろはが、床を叩いた。


 拳が血で滲む。


 でも、いろはは気づかなかった。


「局長……」


 いろはの脳裏に、根倉との思い出が蘇った。



 それは、数ヶ月前のこと。


 いろはが、任務から戻ってきた時。


 根倉局長が、笑顔で迎えてくれた。


「おかえり、いろは。お疲れ様」


 その笑顔が、優しくて。


 いろはは、だんだんと惹かれていってしまった。


 それから、毎日が楽しかった。


 根倉局長と、一緒に任務に行く。


 根倉局長と、一緒にご飯を食べる。


 根倉局長と、一緒に笑う。


 いろはは、いつしか彼を愛していた。


 性別なんて、関係なかった。


 ただ、彼が好きだった。


 あの日いろはは、彼と一夜を共にした。性的なことをしたわけではない。


 ただ一緒に書類を片付けていたら2人で寝落ちしてしまっただけだ。


 でも、ただそれだけで幸せだった。


「局長、ほっぺにあと付いてますよ」


 根倉局長は、少し驚いた顔をした。


 そして、優しく笑った。


「あちゃー、じゃあなおるまでいろはにこっち側にいてもらおうかな」


「ふふ、壁になって隠してあげますね」


 いろはが、ニコニコと笑う。


「局長だってのにだらし無くて悪いねぇ」


「それが局長ですから」


 いろはが、笑顔で言った。


 根倉局長が、いろはの頭を撫でた。


「ありがとう、いろは。君は、本当に優しいね」


 その手が、温かくて。


 いろはは、涙が出そうになった。


 でも、笑顔を保った。


 それから、いろはは根倉局長の隣で戦い続けた。


 いつか、彼が振り向いてくれる日を夢見て。


 そして――。


 根倉局長は、言った。


「いろは、なんか美味しいの作って待っててよ」


 その言葉が、いろはには希望に聞こえた。


 帰ってきたら、一緒に食べよう。


 そんな、ささやかな約束。


 いろはは、嬉しかった。


 ほんの一瞬の、幸せ。


 いろはの意識が、現実に戻った。


 涙が、頬を伝っていた。


「局長……」


 いろはが、呟いた。


 烈志が、いろはの前に立った。


「いろは」


 烈志が、真剣な顔で言った。


「局長は死んだ。俺たちが後を継いで、なんとかしなきゃいけないんだ」


 正論だった。


 正しい言葉だった。


 でも――。


「……っ」


 いろはの頭に、入ってこなかった。


 烈志の言葉が、遠くから聞こえる。


 全く理解できない。


「いろは、聞いてるか?」


 烈志が、いろはの肩を揺さぶった。


「魔物が……」


 いろはが、呟いた。


「え?」


「魔物がいなければ……」


 いろはの目が、虚ろになった。


「魔物が……魔物が……魔物が……」


 いろはの声が、震えた。


「そうよ、魔物って……人間よね」


 いろはが、ゆっくりと顔を上げた。


 その目は、狂気を孕んでいた。


「人間がいなければ……魔物は生まれない」


「いろは……?」


 烈志が、後ずさった。


「人間がいなければ……局長は死ななかった」


 いろはが、立ち上がった。


「人間がいなければ……」


 いろはの体から、色欲の力が溢れ出した。


 妖艶な気配。


 だが、その中に狂気が混じっていた。


「人間がいなければいいのよ」


 いろはが、笑った。


 狂った笑顔。


「そうすれば……魔物は生まれない……局長も死なない……」


「いろは、やめろ!」


 誇が、いろはの前に立った。


「お前、何を言ってるか分かってるのか!」


「分かってるわ」


 いろはが、誇を見た。


 その目は、もう正気ではなかった。


「人間を殺せば……魔物は生まれない……」


「いろは!」


 烈志が、いろはに駆け寄った。


 だが、いろはは烈志を突き飛ばした。


「邪魔しないで」


 いろはが、冷たい声で言った。


「私は……人間を殺すの」


 いろはが、窓に向かって歩き出した。


 誇が、いろはの前に立ちはだかった。


「行かせない」


「どいて」


「いろは、お前は疲れてるんだ。休め」


「どいてって言ってるの!」


 いろはが、誇を殴った。


 色欲の力で強化された一撃。


 誇が、吹き飛ばされた。


「誇!」


 烈志が、誇に駆け寄った。


 いろはは、そのまま窓を割って外に飛び出した。


「いろは!」


 烈志が叫んだ。


 だが、いろはは振り返らなかった。


 ただ、街に向かって走り出した。


 その目には、狂気だけがあった。


 人間を殺す。


 魔物を生まれないようにする。


 そうすれば――。


 局長が、帰ってくる。


 いろはの壊れた心は、そう信じていた。


 烈志が、窓から外を見た。


 いろはの背中が、遠ざかっていく。


「くそ……!」


 烈志が、拳を握りしめた。


「どうする……誇……」


 誇が、ゆっくりと立ち上がった。


「追うしかない」


 誇が、真剣な顔で言った。


「いろはを止める。例え、戦うことになっても」


「……ああ」


 烈志が、頷いた。


 二人は、いろはを追って飛び出した。


 だが、その心には重い不安があった。


 いろはは、本当に止められるのか。


 そして――。


 もし、いろはが魔物化したら。


 その時、自分たちは何ができるのか。


 烈志も、誇も、答えを持っていなかった。


 ただ、走り続けるしかなかった。



 いろはは、呆然と立ち尽くしていた。別に本当に人を殺そうと思ってるわけじゃない。

 ただ、ただ彼に会いたいだけ。


 ふと見上げると、そこには自分を覗き込む暴食の魔物――オーク。


 いろはは、オークに手を伸ばす。


「ああ、コレで私もあの人の元へ……」


 オークはいろはを鷲掴みにすると大きな口の中へ放り込んだ。


「いろは!」


 誇と烈志が来るも、時すでに遅し。

 オークを倒してもいろはは、戻らない。


 空は2人の心を映すかのように、雨を落としていた。

 

バイバイ

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