働き者の怠惰
根倉眠は、巨大なドラゴンを見上げていた。
黒い鱗に覆われた体。赤く光る目。翼を広げれば、ビル一つ分はあるだろう。その存在感は、今まで対峙したどんな魔物とも比較にならなかった。
「いやー困っちゃうね」
根倉は、いつもの飄々とした口調で言った。
「よりによってこんな疲れてるとこ襲わなくてもいいのにさぁ」
ドラゴンが、根倉を見下ろしている。その目には、明確な知性があった。
「もしかしなくても原罪魔群の傲慢さんだよね?」
根倉が尋ねると、ドラゴンが口を開いた。
「その通りだ、人間よ」
低く、威厳に満ちた声。まるで王が臣下に語りかけるような、絶対的な優位を示す口調だった。
「我が名は傲慢。全ての魔物の頂点に立つ者だ」
「へぇ、傲慢って名前なんだ。そのまんまだね」
根倉は、肩をすくめた。
「で、君たちの目的ってなんなのさ」
「貴様に教える義理はない」
ドラゴンが、翼を広げた。その動きだけで、周囲のビルが風圧で軋んだ。ガラスが割れ、看板が吹き飛ぶ。
「だが、教えてやろう。我らが目的は――世界を魔物で埋め尽くすことだ」
「魔物で埋め尽くす?」
根倉が首を傾げた。
「そんなことしてなんになるのさ」
「我の退屈が凌げる」
根倉は、ピンと来たようで、ドラゴンに問いかける。
「なるほどね。魔物の分母が増えれば自分並みに強いやつも生まれやすいから、ってこと?」
ドラゴンの目が、わずかに細められた。
「……察しが良いな、人間」
「へぇーなるほどなぁ。つまり戦いに飢えてるわけか」
根倉は、苦笑いした。
「最強って孤独だもんね。対等に戦える相手が欲しいってわけだ」
「その通りだ」
ドラゴンが、根倉を見下ろした。
「我は、この世に生を受けてから、魔物となってからも、誰にも敗北したことがない。故に、退屈なのだ。強者との戦い――それこそが我が生きる理由」
「そっかあ、じゃあさ」
根倉が、笑顔で言った。
「君のお眼鏡にかなったら、今回だけでいいから俺の仲間たちは見逃してくれないかなぁ」
ドラゴンが、しばらく沈黙した。そして、小さく笑った。
「面白い。貴様、死を恐れていないのか?」
「怖いに決まってるじゃん。それに死ぬつもりもないし」
根倉は、肩をすくめた。
「でも、仲間を守るのが局長の仕事だからね」
「……良かろう」
ドラゴンが頷いた。
「貴様が我を楽しませたなら、今回だけは他の者には手を出すまい。我が名にかけて約束する」
「ありがとう。期待に沿うよう頑張るよ」
根倉は、深く息を吐いた。そして、自分の能力を解放した。
「んじゃ、欲望解放」
根倉の体が、変化した。肌が透け、輪郭が溶ける。体がスライムのように液状化していく。骨も筋肉も、すべてが流動する物質へと変わった。
怠惰の半魔、根倉眠。その真の姿は、完全なスライム化と、極限まで効率化された動き。
「ほう……」
ドラゴンが、興味深そうに見ていた。
「液状化か。なるほど、物理攻撃を無効化する気か。賢明だ」
「まあね」
根倉は、液状の体でドラゴンに向かって駆け出した。地面を滑るように、水が流れるように。その動きには一切の無駄がなかった。
ドラゴンが、爪を振り下ろす。空気が裂ける音。巨大な爪が、根倉の体を貫いた。
だが、手応えはない。
根倉の体は液状化しており、攻撃を受け流した。爪が通り抜けた部分から、すぐに液体が流れ込んで元に戻る。
「っと」
根倉は、ドラゴンの腕を伝って、首元に移動した。液体の体を波のように動かして、ドラゴンの鱗の隙間に入り込む。
そして、液状の体でドラゴンの顔を覆った。鼻、口、目――すべてを塞ぐ。
「窒息しちゃってくれないかなぁ」
根倉が呟いた。液体が気管に入り込もうとする。
だが、ドラゴンは動じなかった。
「甘い」
ドラゴンが口を開けた。次の瞬間、口から炎のブレスが放たれた。
灼熱の炎が、根倉の液状の体を直撃する。
「っ、熱い!」
根倉は慌てて、ドラゴンの顔から離れた。液体の体が蒸発しかける。地面に落ちて、再び人型に戻る。
体の一部が焦げていた。
「やっぱり炎は効くか」
根倉は、焼けた部分を見た。スライム化していても、高熱には弱い。水分が蒸発してしまえば、液状を保てない。
「ほら。俺もけっこうやるでしょ?」
根倉は、笑顔で言った。
ドラゴンが、小さく笑った。
「そうだな。万全の状態なら、我を負かしていたかもな」
ドラゴンの言葉に、根倉は目を見開いた。
「……え?」
「それだけに惜しい。貴様は既に疲弊している。今日一日で、どれだけの魔物と戦った? どれだけの能力を使った?」
ドラゴンが、翼を広げた。
「コレもまたアイツの策略か」
「アイツってのは」
根倉が尋ねた。
「例のピエロマスクの事かい?」
「ああ」
ドラゴンが頷いた。
「今回も潰せと言われてきただけのこと。奴にとって貴様は障害になるのだろう」
「めざといねぇ。俺は超有能だからね」
根倉は、苦笑いした。
「でも俺を倒したくらいじゃ、管理局は潰れないよ」
「そうか。それは楽しみだ」
ドラゴンが、爪を構えた。
「だが、貴様を倒すことで、組織は大きく弱体化する。それがアイツの狙いだ。そして――」
ドラゴンの目が、鋭く光った。
「我にとっては、久々の戦いが楽しめる。利害が一致した、というわけだ」
「……そっか」
根倉は、深く息を吐いた。
「じゃあ、俺も本気でいかないとね」
根倉は、再び液状化した。そして、ドラゴンに向かって突進した。
ドラゴンが、炎のブレスを放つ。赤い炎が空気を焼き尽くす。
根倉は、効率化された動きで炎を避けた。地面を転がり、ビルの影に隠れ、炎の隙間を縫って前進する。最短距離ではなく、最も安全なルートを本能的に選び取る。
ドラゴンの足元に到達した根倉は、液状の体で足に絡みついた。
「関節技、いくよー」
根倉が、ドラゴンの足首を捻る。液体が関節の隙間に入り込み、内側から圧力をかける。
だが、ドラゴンは力で無理やり足を引きちぎった。
「ぐっ!」
根倉の体が、引き裂かれる。液状化しているため致命傷にはならないが、質量そのものが失われていく。
「くそ、力が強すぎる……」
根倉は、地面に落ちて再び人型に戻った。息が上がっている。疲労が、限界に近づいていた。
ドラゴンが尾を振るう。巨大な尾が、根倉を薙ぎ払おうとする。
根倉は液状化して地面に這いつくばる。尾が頭上を通り過ぎ、背後のビルを破壊した。
「もう一回!」
根倉は、再び突進した。ドラゴンの背中に飛びつき、翼の付け根を狙う。
「ここなら!」
根倉の拳が、ドラゴンの翼に叩き込まれた。効率化された一撃は、最小の力で最大の効果を生む。
ドラゴンが、わずかに怯んだ。
「効いた!」
根倉は、さらに攻撃を続けた。液状の体で、ドラゴンの全身を這い回る。目を塞ぎ、耳を塞ぎ、鼻を塞ぐ。翼の関節に入り込み、内側から圧力をかける。
「これで……!」
だが、ドラゴンは再び炎のブレスを放った。今度は全方位に。体中から炎が溢れ出す。
根倉の体が、炎に包まれた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
根倉の叫び声が、街中に響いた。液体が沸騰し、蒸発していく。
炎が消えた時、根倉は地面に倒れていた。体中が焼けただれ、もう動けなかった。質量の半分以上を失っている。
「……っ」
根倉は、必死に立ち上がろうとした。だが、体が言うことを聞かない。腕が震える。足が立たない。
ドラゴンが、ゆっくりと近づいてきた。
「よく戦った、人間」
ドラゴンの声には、敬意が込められていた。
「貴様は強かった。万全の状態であれば、我を苦しめていただろう。いや、もしかすると――」
ドラゴンが、根倉を見下ろした。
「我を負かしていたかもしれん」
「……ありがと」
根倉は、笑顔で言った。
「でも、まだ……諦めないよ」
根倉は、最後の力を振り絞った。液状化して、ドラゴンの足に飛びついた。残った質量すべてを使って。
「せめて……一撃!」
根倉の拳が、ドラゴンの足に叩き込まれた。効率化の極致。すべての力を一点に集中させた一撃。
ドラゴンの鱗に、小さなヒビが入った。
「ほう」
ドラゴンが、感心したように言った。
「この我の鱗に傷をつけるとは。見事だ、人間よ」
「どう、だい……」
根倉が、かすれた声で言った。
「もう……動けないけど……」
「ああ、見事だった。名を聞いておこうか人間」
「光栄……だね。根倉眠。お前らを潰す奴の保護者だよ」
「ほう、我らを潰すか。面白い。楽しみにしてるぞ」
ドラゴンの爪が、根倉の胸を貫いた。
根倉の体が、震えた。血が、地面に広がっていく。
「……俺が怠惰の半魔って嘘でしょ」
根倉は、かすれた声で言った。
「こんなに働いちゃってさあ」
根倉は、笑った。いつもの、飄々とした笑顔。
視界がぼやける。体が冷たくなっていく。
ああ、これで終わりか。
根倉は、走馬灯のように思い出していた。
昴の成長。乙葉の笑顔。依里の変化。
誇の真面目さ。烈志の熱さ。
そして――いろは。
「あーあ、いろはに悪いことしちゃったなぁ」
彼女の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
彼女の涙も。
きっと、泣いているだろう。
ごめんね、いろは。
約束、守れなかった。
なんとなくわかってたけど、うやむやにしちゃってごめんね。
根倉の目が、ゆっくりと閉じた。
意識が、遠のいていく。
最期に思ったのは――。
みんな、後は頼んだよ。任せたよ昴。
ドラゴンが、爪を抜いた。根倉の体が、地面に崩れ落ちた。
「安らかに眠れ、戦士よ」
ドラゴンは、根倉に敬意を示すように、頭を下げた。
「貴様の名は覚えておこう。怠惰の半魔、根倉眠。久々に、楽しませてもらった」
ドラゴンは、翼を広げて空へ飛び立った。
その背中には、満足そうな雰囲気が漂っていた。
街に、静寂が戻った。
根倉の体が、そこに横たわっていた。もう、動くことはなかった。
血溜まりが、ゆっくりと広がっていく。
怠惰の半魔、根倉眠。
八罪管理局の局長。
仲間を守るために、最期まで戦い抜いた男。
その命は、ここで尽きた。
風が吹き、根倉の髪を揺らした。
まるで、最期の別れを告げるように。
バイバイ




