電波ジャック
朝のリビング。
ごく普通の、どこにでもある家族の風景。
父親はスーツ姿で新聞を広げ、母親はエプロン姿でキッチンに立っている。高校生の娘は制服のリボンを結びながら、スマホをいじっていた。
テレビからは朝のニュース番組が流れている。
「本日も天気は快晴、通勤通学日和になりそうです」
キャスターの明るい声が、リビングに響く。
娘がスマホから顔を上げた。
「ねぇお母さん、昨日ネットで変なの見たんだよ。人が透明になってる動画。やばくない?」
母親は笑って流した。
「またCGかAI動画でしょ。最近の若い人は何でも信じすぎよ」
「でも、めっちゃリアルだったんだよ? しかも東京のあちこちで撮られてて……」
「はいはい。朝ごはん食べたら学校行きなさい」
父親が新聞をめくりながら、ぼそりと呟いた。
「政府がまた情報統制だってさ。噂ばっかりでろくなニュースがない」
「お父さんまで。そんな陰謀論みたいなこと言わないでよ」
母親がトーストを運んでくる。
テレビでは「午後に政府による緊急会見を予定」というテロップが流れていた。
娘はスマホを見つめながら、小さく呟いた。
「化け物って……本当にいるのかな」
母親が笑った。
「馬鹿ねぇ。いたらニュースになるでしょ?」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
母親が玄関に向かう。
ドアを開けると、隣の家の奥さんが立っていた。いつもゴミ出しの時に挨拶を交わす、優しそうな女性だ。
「おはようございます。あの、醤油借りてもいいですか? 切らしちゃって」
「ああ、いいですよ。ちょっと待ってくださいね」
母親がキッチンに戻る。
娘は玄関の方をちらりと見た。隣の奥さんは、いつもより少し疲れた顔をしているように見えた。
母親が醤油を持って戻る。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。助かります」
隣の奥さんが醤油を受け取る。その手が、わずかに震えていた。
「……大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと寝不足で。最近、夫の帰りが遅くて……心配で眠れなくて」
「そうなんですか。お体、お大事に」
「ありがとうございます」
隣の奥さんは頭を下げて、自分の家に戻っていった。
母親がドアを閉めて、リビングに戻る。
「隣の奥さん、なんか元気なさそうだったわね」
「夫婦喧嘩でもしてんじゃない?」
父親が新聞から顔を上げずに言った。
「まあ、よそのご家庭のことだし」
娘は何も言わず、トーストを口に運んだ。
午後。
父親は在宅勤務で自室にいた。娘は学校から帰ってきて、リビングでテレビをつけた。
「お母さん、見るって言ってた政府の会見始まるよ」
「あら、そうなの?」
母親がキッチンから出てきて、娘の隣に座った。
テレビ画面には、準備中の会見場が映っている。
「それではまもなく、特別報道番組をお送りします――」
アナウンサーの声。
カメラが会見場の演台を映す。
その瞬間、画面がノイズに包まれた。
ブツッ。
ザーッ……。
映像が乱れ、無音になる。
「あら、電波が悪いのかしら?」
母親がリモコンに手を伸ばした。
しかし、ノイズの奥から声が聞こえてきた。
「……こんにちは。視聴者の皆さん」
娘が固まった。
「お母さん、これ……」
「はじめまして。いや……お久しぶり、かな?」
画面が明るくなった。
黒い背景。赤いカーテン。舞台のような照明。
そして、中央に立つ白いタキシードを着た白いシルクハットの男。
顔の上半分は影になってよく見えない。赤い唇が三日月のように歪んでいる。
「私は……いえ、今は私のことはどうでもいいでしょう」
母親がリモコンのボタンを連打した。
「なに、これ……チャンネル変わらない」
「お母さん!」
娘が叫んだ。
スマホの画面にも、同じ男が映っていた。
「お父さん! お父さん!」
二階から父親が駆け下りてきた。
「どうした!?」
「テレビが……変なのが映ってる!」
父親もリビングに入り、テレビを見た。
白い服の男がゆっくりと両手を広げた。
「ではご覧ください。これが人間の真実です」
カメラが切り替わった。
街頭カメラの映像。渋谷のスクランブル交差点。
人々が普通に行き交っている。
その中の一人、スーツ姿の女性が立ち止まった。
女性の顔が苦痛に歪む。
皮膚が波打つ。
顔の表面から、透明な仮面が浮かび上がる。
体がガラスのように透けていく。
「な、なにこれ……」
娘が震える声で呟いた。
画面の女性は完全に変異していた。人ではない何かに。
周囲の人々が悲鳴を上げて逃げる。
その様子を、男は静かに見つめていた。
「美しいでしょう? 人間の本質が、形を持った瞬間です」
母親がリモコンを握りしめた。
「消えて……消えてよ!」
リモコンを投げつける。
しかし画面は消えない。
父親がテレビの電源ボタンを押す。消えない。
コンセントを抜き差しする。
それでも、画面は光り続けた。
「お、お父さん……」
娘のスマホも、父親のパソコンも、窓の外のビジョンも。
すべて同じ映像を映していた。
俺の声が響く。
「魔物は人の中にいます。怒り、絶望――それらが形を持つとき、あなたという人間は崩れます」
画面が再び切り替わる。
新宿。池袋。上野。
東京中で、人々が魔物化していく様子が次々と映される。
炎を纏った巨人。
巨大な体の豚のような生物。
水を操る泣き女。
父親が叫んだ。
「やめろ! ふざけるな!」
しかし声は掻き消され、俺が笑った。
「あははは! どうぞ、恐れてください。それが世界を豊かにします」
娘が泣きながらスマホを床に落とした。
スマホの画面には、まだ男が映っている。
「逃げても無駄です。自分の心からは誰も逃れられない」
母親が娘を抱きしめた。
「見ちゃダメ……見ちゃダメよ……」
しかし、閉じた瞼の裏にも、男の笑顔が焼き付いていた。
その時、隣の家から悲鳴が聞こえた。
「きゃああああああ!」
女性の叫び声。
三人は固まった。
「今の……隣の家……?」
父親が窓に駆け寄る。
隣の家の窓ガラスが割れていた。
そして、そこから何かが這い出してきた。
人の形をしているが、人ではない。
下半身が鱗で覆われ、濡れた髪が顔を覆い隠している。涙と水を纏った姿。
「あれ……朝の……隣の奥さん……?」
母親が震える声で言った。
その化け物――かつて隣の奥さんだった存在が、こちらを向いた。
口を開く。
耳を劈くような泣き声が響いた。
「うわああああああ!」
父親が窓から離れた。
「二階に! 早く!」
三人は慌てて階段を駆け上がった。
泣き声が追いかけてくる。
窓ガラスが割れる音。
何かが家の中に入ってくる気配。
「鍵! 鍵閉めて!」
父親が娘の部屋に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。
三人は部屋の隅に固まった。
廊下から、濡れた足音が聞こえる。
ズルッ、ズルッ……。
娘が母親にしがみつく。
「お母さん……お母さん……」
「大丈夫……大丈夫よ……」
母親の声も震えていた。
足音が、ドアの前で止まった。
沈黙。
そして――ドアが激しく叩かれた。
ドン! ドン! ドン!
泣き声が響く。
耳を塞いでも、頭の中に直接響いてくるような声。
父親がクローゼットを開けて、バットを取り出した。
「来るな……来るな!」
ドアが軋む。
鍵が壊れそうになる。
気がつくと足音も、泣き声も、ドアを叩く音もしなくなっていた。
静寂。
いつのまにか3人とも気絶していたようだ。それが数分だったのか、数時間だったのかわからなかった。
3人は息を潜めて、ドアを見つめた。
何も起こらない。
父親が恐る恐るドアに近づいた。
「……もういないのか?」
耳を澄ます。
何も聞こえない。
父親がゆっくりと鍵を開けた。
ドアを少しだけ開ける。
廊下には、誰もいなかった。
ただ、床が濡れていた。
水の跡が、階段へと続いている。
「……下に降りたのか?」
三人は慎重に部屋を出た。
階段を降りる。
リビングに戻ると――。
テレビは普通のニュース番組を映していた。
アナウンサーが平然と話している。
「では次のニュースです。本日午後、東京都内で――」
まるで何事もなかったかのように。
娘が呆然とスマホを拾い上げた。
「今の……何だったの……?」
母親も、父親も、言葉が出なかった。
窓の外を見る。
隣の家は静まり返っている。割れた窓ガラス。でも、中には何も見えない。
「警察……警察呼ぶ?」
父親が震える手で携帯を取り出した。
「でも……何て言うの? 隣の奥さんが化け物になったって?」
「じゃあ、どうするのよ!」
母親が泣きそうな声で言った。
娘は、ただ自分の手のひらを見つめていた。
スマホの画面から流れた、血のような赤いノイズ跡が残っていた。
夜。
三人はリビングに集まっていた。
誰も寝られなかった。
テレビは消してある。スマホも電源を切った。
それでも、あの映像が頭から離れなかった。
「……お父さん」
娘が小さく言った。
「化け物って……本当にいるんだね」
父親は何も答えられなかった。
母親が娘を抱きしめる。
「大丈夫……大丈夫よ……」
しかしその声には、もう説得力がなかった。
窓の外では、遠くでサイレンが鳴り続けていた。
街中で、何かが起きている。
世界が、変わってしまった。
もう、元には戻らない。
放送が終わり映像が切り替わった後、どこかの舞台の上で白い仮面の男はがゆっくりと拍手する。
パチ、パチ、パチ……。
「いい反応でした」
誰もいない舞台で、白いタキシードを着た男は一人呟いた。
「恐怖。疑心。混乱。すべて計算通り」
男は、ピエロの仮面の下で微笑む。
「人間とは面白いものです。真実を見せられても、まだ嘘だと信じたがる。でも――」
男がが指を鳴らす。
「現実は、逃げても追いかけてきます」
背後の赤いカーテンが開く。
そこには無数のモニターが並んでいた。
日本中の、世界中の映像が映し出されている。
家に閉じこもる人々。
スマホを握りしめて震える人々。
泣き叫ぶ人々。
そして――魔物化していく人々。
「さあ、これからが本番です」
ピエロが両手を広げる。
すべてのモニターが一斉に光る。
「世界は恐怖に包まれました。疑心暗鬼が人々を蝕みます。そして――」
ピエロが舞台の中央に立つ。
「魔物は、どんどん増えていくでしょう」
照明が落ちる。
最後に残ったのは、ピエロの白い仮面だけ。
「家族が、友人が、恋人が、隣人が……あなたの知る誰かが、次の瞬間には魔物になっているかもしれません」
男の声が、闇の中に響く。
「信じていいのは誰ですか? あなた自身ですら、いつ魔物になるか分からないのに」
舞台に再び光が当たる。
男がシルクハットを取り、深々と礼をした。
「さあ、劇の幕が上がりました。最高の舞台にしましょう」
ピエロの目が、どこか遠くを見つめる。
その視線の先には――。
「虚飾の半魔、鏡昴。私の主人公。さぁどのような結末を選ぶのですか? 私に見せてください」
ピエロが再び仮面の下で笑う。
「貴女の選択を、私はとても楽しみにしていますよ」
もしかしてあとがき何もない方がいい?




