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変わりゆくもの

 夜の十時を過ぎた八罪管理局の本部は、静まり返っていた。


 昼間の喧騒は嘘のように消え、廊下には誰もいない。蛍光灯の冷たい光だけが、無機質に空間を照らしている。


 艶見いろはは事務室で、山積みの書類と格闘していた。


「はぁ……まだこんなにあるの」


 溜息をつきながら、いろはは書類をめくった。魔物出現報告書、被害状況の集計、一般市民への記憶処理の記録。どれも重要な書類だが、数が多すぎる。


 本来なら事務方の仕事だが、最近は魔物の出現頻度が上がっており、事務スタッフも手が回らない状態だった。そのため、半魔たちも事務作業を手伝うことになっている。


「こんな地味な仕事ばっかり」


 いろはは愚痴をこぼしながらも、手を止めなかった。文句は言うが、やるべきことはやる。それがいろはの性格だった。


 その時、ドアが開いた。


「まだやってるのか」


 声の主は根倉眠だった。怠惰の半魔であり、管理局の局長でもある。


 根倉はいつものようにぼさぼさの黒髪、眠そうな一重の目、だぼだぼのパーカー姿だった。手には大きなブランケットと、クッション、そしてお菓子の袋を抱えている。


「局長も残業ですか?」


「ああ。会議の資料をまとめないといけなくてな」


 根倉はそう言いながら、いろはの隣の席に座った。そして、ブランケットを肩にかけ、クッションを机に置いて突っ伏した。


「……局長、それ仕事する気あります?」


「ある。少しだけ休憩してからやる」


「休憩が本番になりそうですけど」


「大丈夫だ。俺を信じろ」


 根倉はそう言って、目を閉じた。


 いろはは呆れたように笑った。だが、嫌な気分ではなかった。根倉のマイペースな雰囲気は、どこか心地よかった。


 しばらく沈黙が続いた。いろはは書類を処理し続け、根倉は微動だにしない。


 十分ほど経った頃、根倉が突然口を開いた。


「いろは」


「はい?」


「お前、最近悩んでるだろ」


 いろはは手を止めた。根倉は目を閉じたまま、続けた。


「表情に出てるぞ。いつもより笑顔が少ないからな」


「……そんなことないですよ」


「嘘つけ。俺は観察力だけは自信があるんだよ」


 根倉はそう言って、ゆっくりと目を開けた。その眠そうな目は、しかし、鋭くいろはを見つめていた。


 いろはは少し驚いた。根倉がこんなに真剣な目をするのは珍しい。


「……局長、ずるいですよ。そんな目で見られたら、話さないわけにいかないじゃないですか」


「だから言ってるんだ」


 根倉は小さく笑った。いろはも笑い返した。


「実は……ちょっと混乱してるんです」


「何が?」


「恋愛のことで」


 いろはは正直に言った。根倉は驚いた様子もなく、ただ頷いた。


「ほう。色欲のお前が恋愛で悩むとはな」


「笑わないでくださいよ」


「笑ってない笑ってない。ほら、続けてくれ」


 いろはは少し考えてから、口を開いた。


「私、女の子が好きなんです。昔からずっと」


「知ってる」


「え、知ってるんですか?」


「お前、結構わかりやすいからな。女性局員に対する態度と、男性局員に対する態度が全然違うぞ」


 根倉の指摘に、いろはは頬を染めた。


「そんなにわかりやすいですか……」


「ああ。でも、別に問題ないと思うぞ。好きなものは好きでいいだろ」


 根倉の言葉は、シンプルだが力強かった。いろはは少し救われた気がした。


「ありがとうございます。でも、それで混乱してるんです」


「どういうことだ?」


「最近、男の人にもドキドキすることがあって……」


 いろはは恥ずかしそうに言った。根倉は興味深そうに聞いていた。


「ほう。誰に?」


「それは……ってそこまでは言えませんよ」


「だろうな。まぁ、無理に言う必要もないしな」


 根倉はそう言って、再びクッションに顔を埋めた。だが、声は続いた。


「いろは、お前は恋愛を難しく考えすぎてるんだ」


「難しく?」


「ああ。男が好きとか、女が好きとか、そんなのは後付けの理由だ。本当は、その人自身が好きなんだろ?」


 根倉の言葉に、いろはははっとした。


「その人自身……」


「そうだ。性別なんて関係ない。お前が誰かに惹かれたなら、それは自然なことだ。悩む必要はない」


 根倉の声は優しかった。いつもの眠そうな声とは違う、包み込むような温かさがあった。


 いろはは胸が熱くなるのを感じた。


「局長……」


「ん?」


「あなた、意外と優しいんですね」


「そうか? 俺は怠惰だから、人の悩みを聞くのも面倒なんだけどな」


「嘘。今、すごく真剣に聞いてくれてました」


「そうだったか?」


 根倉は小さく笑った。いろはも笑った。


 それから、二人はしばらく雑談を続けた。仕事の話、局員たちの話、最近の魔物事件の話。何気ない会話だったが、いろはにとっては心地よい時間だった。


 根倉の声は、いつも眠そうで頼りなげに聞こえる。だが、その言葉には不思議な説得力があった。適当に見えて、実は全てを見ている。怠惰に見えて、実は誰よりも仲間を気にかけている。


 いろはは、そんな根倉の横顔を見つめた。


 ぼさぼさの黒髪、眠そうな目、だぼだぼのパーカー。見た目は全く格好良くない。だが、その雰囲気には独特の魅力があった。


 いろはは自分の胸に手を当てた。心臓が少しだけ早く打っている。


 いろはは慌てて顔を背けた。根倉は気づかない様子で、相変わらずクッションに顔を埋めている。


「局長、仕事は?」


「もうちょっとしたらやる」


「絶対やらないでしょ」


「やるよ。お前が帰った後にな」


「……私、手伝いますよ」


「いいのか?」


「はい。一人でやるより、二人の方が早く終わりますから」


 いろははそう言って、根倉の書類を取った。根倉は少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔になった。


「ありがとな」


「どういたしまして」


 二人は並んで書類を処理し始めた。静かな夜の事務室で、二人だけの時間が流れていく。


 いろはは時々、根倉の横顔を見た。根倉は真剣に書類を読んでいる。眠そうな目だが、集中している時は意外とシャープだった。


 いろはは自分の感情に戸惑っていた。男に、しかも局長に対してこんな気持ちを抱くなんて。


 書類を全て処理し終えたのは、夜中の十二時を過ぎた頃だった。


「終わったな」


「はい。お疲れ様でした」


 二人は立ち上がった。根倉はブランケットとクッションを抱え、いろはは自分の荷物をまとめた。


「いろは」


「はい?」


「今日はありがとな。助かった」


「いえ、こちらこそ。話を聞いてくれてありがとうございました」


「また悩んだら、いつでも相談してくれ。俺は怠惰だから、いつでも暇だ」


「こんな時間まで残業しておいて?」


 二人は笑い合った。


 事務室を出て、廊下を歩く。根倉は自分の部屋へ、いろはも自分の部屋へ向かう。


「じゃあな、いろは」


「おやすみなさい、局長」


 二人は別れた。


 いろはは自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。


「はぁ……どうしよう」


 天井を見つめながら、いろはは溜息をついた。


 今まで、女の子しか好きになったことがなかった。それが自分のアイデンティティだと思っていた。だが、根倉に対して感じたあの感情は、確かに恋愛に近いものだった。


「私、どうなってるの……」


 いろはは枕に顔を埋めた。


 混乱していた。だが、同時に、少しだけ楽しくもあった。新しい感情を知ることは、怖いけれど、ワクワクもする。


「明日、昴ちゃんに相談しよう」


 いろははそう決めた。昴なら、きっと真剣に聞いてくれる。


 いろはは目を閉じた。根倉の優しい声が、まだ耳に残っていた。


 翌日の昼休み。


 いろはは昴を呼び出した。場所は管理局の屋上。人目を避けられる静かな場所だ。


「いろはさん、どうしたんですか?」


 昴が到着すると、いろはは真剣な顔で言った。


「昴ちゃん、相談があるの」


「相談?」


「うん。恋愛のこと」


 昴は少し驚いた様子だったが、すぐに真剣な表情になった。


「わかりました。何でも聞きますよ」


 いろはは深呼吸してから、口を開いた。


「私ね、今まで女の子しか好きになったことがなかったの。それが当たり前だと思ってた」


「はい」


「でも、最近……男の人にもドキドキすることがあって」


 昴は目を見開いた。


「それって……」


「うん。混乱してるの。私、どうしたらいいのかな」


 いろはの言葉に、昴は少し考えてから答えた。


「いろはさん、それって悪いことじゃないと思います」


「え?」


「だって、好きになるのに理由なんていらないじゃないですか。性別とか関係なく、その人自身を好きになったんですよね?」


 昴の言葉は、昨夜の根倉の言葉と似ていた。いろはは少し笑った。


「昴ちゃんも、そう思う?」


「はい。私も、最初は戸惑いました。女の子を好きになるなんて、おかしいんじゃないかって」


「でも、今は?」


「今は、全然気にしてません。乙葉が好き。それだけです」


 昴の言葉は力強かった。いろはは胸が温かくなるのを感じた。


「ありがとう、昴ちゃん。少し楽になったわ」


「いえいえ。いろはさんには、いつも相談に乗ってもらってますから」


 二人は笑い合った。


「その人ね、見た目は全然タイプじゃないの。そもそも男だし。だけど、話してると落ち着くの。それに、あの包容力が……」


 いろはは顔を赤くした。昴はニヤニヤと笑った。


「いろはさん、それ完全に恋してますよ?」


「まだわからないじゃない!」


 いろはは昴の肩を叩いた。二人は笑い合った。


 風が吹いて、二人の髪を揺らした。空は青く、雲が流れている。


「昴ちゃん、ありがとう」


「いえ、いつでも相談してください」


「うん。昴ちゃんも、何かあったら言ってね」


「はい」


 二人は笑顔で屋上を後にした。


 いろはの胸には、まだ混乱が残っていた。だが、それでもいい。自分の感情と向き合うことが、大切なのだから。


 いろはは空を見上げた。


 いろはは、次に局長に会うのがいつもよりずっと楽しみになっていた。


レズじゃなくてバイでしたって話

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