餌
車は夜道を静かに走り続けていた。満腹乙葉は助手席で窓の外を眺めながら、今日一日の出来事を振り返っていた。県外での魔物討伐は無事に終わり、狩野貪との初めてのペア任務もあっさり過ぎるくらい無事に終わった。
だが心のどこかに、昴への心配が残っていた。彼の行方不明は解決したのだろうか。無事に管理局に戻っているだろうか。
「もうすぐ着きますね」
乙葉が呟くと、狩野が頷いた。
「ああ、あと30分ってところか」
街の灯りが見えてきた。管理局のある街に戻ってきたのだ。乙葉は安堵の息をついた。
しばらく走っていると、車が普段とは違う道に入っていくのに気づいた。
「あれ? 狩野さん、道が違くないですか?」
乙葉が疑問を口にする。
「ああ、ごめん」
狩野が軽く謝る。
「近くに来たから、ついでに寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」
「それなら全然いいですよ」
乙葉は快く了承した。狩野への信頼は厚く、疑う理由もなかった。
「ありがとう。すぐに済むから」
狩野が微笑む。その笑みが、いつもより少し不自然に見えたが、乙葉は特に気に留めなかった。
車は人里離れた山道を進んでいく。街灯もまばらになり、辺りは暗闇に包まれていた。
「結構遠いんですね」
乙葉が言うと、狩野は曖昧に答える。
「ああ」
その答えを聞くや否や、社内にシューと言う異音が響く。
「え……?」
乙葉が見回すと、車内にねばつく様な甘い香りのするミストが充満していく。
「狩野さん、これは……」
言葉を続けようとしたが、急激な眠気に襲われた。意識がぼんやりとしてくる。体が重くなり、まぶたが閉じていく。
「すまない、乙葉」
狩野の声が遠くから聞こえる。
「でも、これも必要なことなんだ」
乙葉は必死に意識を保とうとしたが、体に力が入らない。瞼が重くなり、視界がぼやけていく。
「なんで……」
最後にそう呟いて、乙葉の意識は暗転した。
意識を取り戻したとき、乙葉はコンクリートの冷たい床に横たわっていた。
「……ここ、どこ?」
周囲を見回すと、朽ち果てた壁と錆びた鉄骨に囲まれた廃墟の中だった。埃っぽい空気と、カビの臭いが鼻を突く。天井には大きな穴が開いており、月光がわずかに差し込んでいた。
体を起こそうとして、手足が縛られていることに気づいた。見たこともない材質の紐で、触れると微かに光を帯びている。どんなに力を込めても、びくともしない。
「やあ、起きたかい?」
声のする方を向くと、狩野が薄暗い笑みを浮かべて立っていた。いつもの温厚な表情ではなく、どこか狂気を帯びた表情だった。
「狩野さん……なんで……」
乙葉の声は震えていた。状況を理解しきれず、混乱していた。
「ああ、その紐かい? 全然ちぎれないだろ? 凄いだろう。愛憎の紐って言ってねぇ、縛った相手になんでも一つ言うことを聞かせられるんだ。便利な能力だろう?」
狩野が乙葉の拘束具を指差す。
「以前の同僚から奪った能力なんだよ。ほんと便利で奪って正解だった。半魔も油断してれば普通の人と大して変わらないからね。脆いもんだよ」
「同僚から……奪った?」
乙葉の顔が青ざめる。狩野の言葉の意味が理解できない。いや、理解したくない。
「まあ、魔物にやられたことにしておいたから、誰も疑わないさ」
狩野が無感情に続ける。その声に、一片の罪悪感もなかった。
「そんな……嘘でしょう? 狩野さんが仲間を……」
「仲間?」
狩野が嘲笑う。
「所詮は一緒に働いてるだけの他人だ。俺にとって大切なのは……」
そこで狩野の表情が変わった。遠くを見るような目をする。
「優香……そう、妹だけなんだよ」
乙葉には狩野の言葉の意味が分からなかった。だが、彼の狂気だけは確実に伝わってきた。
狩野が歩み寄ってくる。その足音が、廃墟に不気味に響いた。
「さて、まずは逃げられないようにしておかなきゃね。いくら能力を封じたって、這って逃げられても面倒だ」
狩野が乙葉の右腕を掴んだ。冷たい手の感触に、背筋が粟立つ。
「やめて! 何を……」
乙葉の言葉は悲鳴に変わった。
乾いた音が、廃墟にいやに鮮明に響き渡る。
右腕が不自然に曲がり、全身を突き抜ける激痛に乙葉は絶叫した。
「ああああああっ!!」
涙が勝手に溢れ、口からは嗚咽が漏れる。呼吸が浅くなり、視界がにじむ。
「痛いだろうね。関節が一つ増えたみたいだよ?」
狩野は淡々と呟いた。その無感情さが、かえって恐怖を煽った。
「ふふ、これで逃げることは難しくなるね。でも……念には念を入れて」
再び左腕を掴まれる。乙葉は必死に身をよじるが、拘束された身体はほとんど動かせない。
「やめ……っいやああああ!」
再び乾いた音。二本目の腕も無惨に折られ、廃墟の中に彼女の絶叫が木霊した。
喉が張り裂けそうになり、呼吸のたびに痛みが胸を締め付ける。
痛みのあまり、意識が何度も遠のきそうになる。だが狩野は冷ややかに告げた。
「まだ終わりじゃない」
「ひぅ……もう、やめて……」
「足も折らないとね」
乙葉の懇願は届かない。
右足が掴まれ、次の瞬間――。
鈍い音が響いた。乙葉の視界が白く弾け、悲鳴が喉から勝手に迸る。
「あああああああ!!」
痛みのあまり、自分の声が自分のものではないように響く。
続けざまに左足も折られる。これで四肢はすべて無残に砕かれ、乙葉は転がされるだけの存在になった。
「これで完璧だ」
狩野は満足げに吐き捨てる。
「逃げることも、抵抗することもできない」
乙葉は震えていた。涙がとめどなく溢れ、鼻水と混じり、顔をぐちゃぐちゃに濡らす。呼吸は荒く、胸がひゅうひゅうと音を立てていた。
「なんで……こんなことを……」
掠れた声で問いかける。
「理由なんてどうでもいい。君に教える意味あるかな?」
狩野が見下ろし、残酷に笑う。
「だって、君はただの餌なんだから」
「餌……?」
「そう。大きな魚を釣るための餌だ」
次の瞬間、頬に圧力がかかった。狩野の足が顔を踏みつけている。ゆっくりと力を込め、頬骨がギリギリと悲鳴をあげる。
「うう……っ」
乙葉は苦悶の声を漏らす。
「君の悲鳴が聞こえれば、きっと来てくれるだろうね」
狩野の口元が愉快そうに歪む。
「来るって……誰のことを……」
乙葉は必死に声を絞り出した。
「ふふふ、わかってるくせに。今君が一番会いたい彼だよ」
「……昴くん?」
「そうだ」
足の圧力が増し、乙葉の顔が歪む。
「あの子の能力は特別でね。俺が探していた能力そのものなんだ」
「昴くんの……能力を……?」
「詳しいことは君には関係ない」
狩野の蹴りが腹に突き刺さった。
「がはっ!」
折れた肋骨が内臓を圧迫し、口から鮮血が噴き出す。
鉄の味が口いっぱいに広がり、吐息すら赤に染まった。
「君はただ、餌として機能すればいい」
狩野の攻撃は続いた。蹴り、踏みつけ、殴打。乙葉の体は痛みで痙攣し、四肢は折れ曲がったまま床に叩きつけられる。
「やめ……っ……!」
声は嗚咽に溶け、やがてか細いすすり泣きに変わっていった。
「ほら、昴を呼ぶんだ」
狩野が命じる。
「助けを求めるんだ」
「いや……」
乙葉は涙で濡れた顔を横に振る。
「昴くんを……危険な目に……遭わせたくない……」
「頑固だね」
狩野が髪を掴んで顔を無理やり持ち上げる。
「なら、もっと痛い思いをしてもらおう」
拳が顔面に叩き込まれた。
鼻が折れる乾いた音。血が噴き出し、顔面が真っ赤に染まる。
「あ……ぐ……」
声にならない悲鳴が、血の泡と共に漏れた。視界は赤と黒に染まり、世界がぐらぐらと揺れる。
「まだまだこれからだ」
狩野は乙葉を床に投げ捨てた。
「君が死なない程度に、たっぷりと可愛がってあげよう。昴が動揺して殺しやすくなるようにね」
暴力は延々と続いた。乙葉の身体は打ち据えられ、折られ、踏みつけられ、血と涙と汗にまみれていった。
やがて時間の感覚はなくなり、乙葉の意識は薄れていった。
「もう……だめ……」
か細い声で呟く。
「まだ早いよ」
狩野が冷酷に告げる。
「昴が来るまで、君には生きていてもらわなきゃならないからね」
「昴くん……来ちゃ……だめ……」
乙葉の震える声はかすれていた。
こんな姿を、見られたくない。
昴には、食いしん坊で、ちょっとドジで、笑っている自分を見てほしかった。
――関節が歪んで増えた芋虫のような姿ではなく。
「心配しなくても、すぐに会えるさ」
狩野が立ち上がる。
「そして君は、その目で見ることになる。昴が苦しむ様子をね」
乙葉の頬を涙が伝った。
痛みよりも、昴に見られてしまうことの羞恥と恐怖が、胸を締め付けていた。
「そんな顔しないでくれよ」
狩野が乙葉を見下ろす。
「君のおかげで、俺は願いを叶えることができるんだ。とっても感謝してるんだよ」
乙葉はもう答える力もなかった。ただ、昴の無事を祈ることしかできない。
時が経つにつれ、乙葉の意識はますます薄れていった。痛みが全身を支配し、思考も曖昧になっている。
「そろそろかな」
狩野が窓の外を確認する。
「昴の接近を感じる。やはり来たね」
乙葉の心は複雑だった。助かるかもしれないという希望と、昴まで危険にさらしてしまったという罪悪感が入り混じっていた。
「さて、最後の仕上げをしようか」
狩野が乙葉に近づく。
「君を気絶させて、昴を迎える準備をする。余計なことをされても面倒だ。」
狩野が拳を振り上げる。乙葉を完全に無力化するつもりだった。
乙葉は恐怖で目を閉じた。もう抵抗する力も残っていない。
だが、予想していた衝撃は来なかった。
代わりに、金属音のような響きが聞こえた。
目を開けると、乙葉を包み込む様にバリアのようなものが展開されているのが見えた。
「乙葉ちゃんを傷つけたのははお前か?」
聞き慣れた声が響いた。
廃墟の入り口に、昴の姿があった。いつもの優しい表情ではなく、怒りに満ちた顔をしていた。その瞳には、乙葉を傷つけた者への激しい憎悪が宿っていた。
「昴くん……」
乙葉の目から涙が溢れた。安堵と申し訳なさが同時に込み上げてきた。
昴の姿を見た瞬間、乙葉の心に希望が戻った。どんなに絶望的な状況でも、昴なら何とかしてくれる。そんな根拠のない確信があった。
物語の山場きました
作者の書きたいところきました




