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珠洲の初めて

 三毒会の拠点となっているオフィスビルの一角で、珠洲は薄い唇を僅かに動かした。


 「珠洲、昴、お家に招待してくる」


 その短い言葉に、部屋にいた大人たちの動きが一瞬止まった。


 松元竜司は手にしていたコーヒーカップを机に置く音さえ忘れたように固まり、蘭堂紅葉は資料を整理する手を止めて娘を見つめた。紅蓮寺灯は振り返ると、いつもの険しい表情を更に険しくする。


 「珠洲……それって、あの管理局の」


 「昴」


 珠洲は母の言葉を遮るように、もう一度その名前を口にした。感情の起伏に乏しい彼女の声に、普段とは違う何かが混じっているのを、その場にいる誰もが感じ取った。


 「本当に、珠洲が自分から……」


 竜司は呟くように言葉を漏らす。十五年間、この少女が何かを自分から望んだことなど、ほとんどなかった。生まれたときから半魔として、人間らしい感情の発達が阻害されてきた彼女が、今初めて見せる意志の光。


 だが同時に、その相手が八罪管理局の半魔であることの複雑さも、全員が理解していた。


 「珠洲ちゃん」


 紅葉が優しく声をかける。


 「その子は……」


 「知ってる。管理局の人。でも」


 珠洲は振り返ると、母を見つめた。その瞳に、いつもの虚ろさとは違う何かが宿っているのを、紅葉は見逃さなかった。


 「会いたい」


 たった数文字の言葉だったが、それが珠洲の全てだった。


 竜司は大きく息を吐くと、豪快に笑った。


 「ははっ! 珠洲がそこまで言うなら、止めるわけにはいかねぇな」


 「竜司さん……」


 紅葉が困惑の声を上げる。


 「いいじゃねぇか。珠洲が初めて自分の意志で何かをしたいって言ってるんだ」


 竜司は立ち上がると、珠洲の頭に大きな手を置いた。


 「ただし、危険があったらすぐに逃げろよ」


 「わかった」


 珠洲は小さく頷くと、そのまま部屋を出て行った。残された三人は、複雑な表情で顔を見合わせる。


 「大丈夫かしら……」


 「あいつが心配してるのは珠洲のことじゃなくて、管理局の新人のほうだろうな」


 灯が皮肉っぽく呟くと、竜司は苦笑いを浮かべた。


 「まぁ、そうかもしれねぇ」


 


 街の中心部を歩く珠洲の足取りは、普段よりもほんの少しだけ早かった。


 昴に初めて出会ったのは、偶然だった。魔物事件の現場で、彼女は一人の少年を目にした。その瞬間、胸の奥で何かが動いた。


 生まれてから十五年間、珠洲は感情というものをほとんど理解できずにいた。喜び、悲しみ、怒り、そうした人間らしい心の動きが、彼女の中では霧に包まれたように曖昧だった。魔物と人との間に、半魔として生まれた代償として、人間的な感情の発達が阻害されていたのだ。


 だが昴を見た瞬間、その霧が晴れるような感覚があった。


 それが何なのか、珠洲には正確に理解できない。ただ、昴という存在が自分の中の何かを呼び覚ましているのだけは確かだった。


 昴が虚飾の能力を持つ半魔であることも知っている。管理局でも新人として注目されている存在だということも。そして何より、彼の持つあの独特な雰囲気。


 珠洲にとって、それらすべてが魅力的だった。


 商店街の角を曲がったとき、彼女の視界に見覚えのある後ろ姿が入った。黒髪を整え、姿勢の良い少年が一人で歩いている。


 「昴」


 珠洲は迷わず声をかけた。


 振り返った昴は、一瞬驚いたような表情を見せてから、いつものように口角を上げる。


 「やあ、珠洲ちゃん。こんなところで会うなんて偶然だね」


 「偶然じゃない。探してた」


 珠洲の率直すぎる言葉に、昴は一瞬言葉を失った。彼女はそんな昴の反応など気にすることなく、続ける。


 「うち、遊びに来て」


 「え?」


 「遊びに来て」


 珠洲は同じ言葉を繰り返した。感情の起伏が乏しい彼女の表情からは、その言葉がどれほどの決意を持って発せられたものなのか読み取ることは難しい。だが昴には、その真剣さが伝わった。


 「でも君のところって……三毒会の」


 「そう。三毒会」


 珠洲は何の躊躇もなく答える。


 「いいの? 俺は管理局の人間だよ」


 「知ってる。でも、来て」


 珠洲の瞳が昴を真っ直ぐに見つめた。その視線には、いつもの虚ろさとは違う意志の光が宿っている。


 昴は困惑しているようだったが、やがて小さく溜息をついた。


 「わかった。でも、何かあったらすぐに帰るからね」


 「ん」


 珠洲は短く頷くと、歩き始めた。昴が隣に並ぶのを確認してから、口を開く。


 「昴、強い?」


 「え?」


 「戦闘。強い?」


 珠洲の質問は唐突だったが、彼女なりに昴のことを知りたがっているのだと昴は理解した。


 「まぁ、そこそこかな。まだ新人だからね」


 「そう」


 珠洲は納得したように頷く。実際のところ、彼女は昴の戦闘能力にはそれほど興味がなかった。ただ、昴と話をする理由が欲しかっただけだ。


 二人は並んで歩き続けた。珠洲にとって、これほど長時間誰かと一緒にいることは珍しかった。いつもなら人といると疲れてしまうのに、昴といると不思議と心が落ち着く。


 「珠洲ちゃんは、いつから三毒会に?」


 「生まれたとき」


 「生まれたとき?」


 「お母さんが三毒会だから。珠洲、管理局だと、生きてちゃいけない」


 「生きてちゃいけないってどういうこと?」


 「ん。管理局、魔物と人の子供絶対産ませない。お母さん、色欲の魔物、襲われた」


 「そっか……」


 昴はそれ以上、何も言うことができずに黙り込む。


 逆に、珠洲何にも気にしていなかった。

 それどころか昴の隣を歩いているだけで、胸の奥が暖かくなるのを感じていた。これが何なのか、まだ理解できないでいるが、嫌な感じではない。


 やがて、三毒会の拠点であるオフィスビルが見えてきた。一見すると普通の企業ビルで、実際にいくつかの事業を展開している。表向きは健全な会社として運営されているのだ。


 「ここが君の家なんだ」


 「ん。お母さんも、みんなも、いる」


 珠洲はエレベーターのボタンを押すと、昴を振り返った。


 「大丈夫?」


 「何が?」


 「怖く、ない?」


 珠洲の質問に、昴は少し考えてから答えた。


 「少し緊張するけど、君が一緒なら大丈夫かな」


 その答えに、珠洲の胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。表情にはほとんど変化がなかったが、心の中では小さな変化が起きていた。


 エレベーターが上昇する間、珠洲は昴の横顔をちらりと見た。整った顔立ち、真っ直ぐな鼻筋、少し長めの睫毛。どこを取っても完璧に見えるのに、時折見せる困ったような表情がとても印象的だった。


 「珠洲ちゃん」


 「ん?」


 「君は、なぜ俺を誘ったの?」


 昴の質問に、珠洲は少し考えた。なぜと言われても、理由を言葉にするのは難しい。ただ、昴と一緒にいたかった。それだけだった。


 「わからない。でも、一緒に、いたかった」


 珠洲の素直すぎる答えに、昴は頬を染めた。


 「そ、そっか」


 エレベーターが目的階に到着すると、珠洲は昴を案内して歩いた。廊下の向こうから、紅葉の声が聞こえてくる。


 「珠洲、お帰りなさい。お友達を連れてきたのね」


 部屋に入ると、竜司、紅葉、灯の三人が待っていた。昴は緊張した様子で挨拶をする。


 「初めまして。鏡昴です」


 「よく来てくれたな」


 竜司が豪快に笑う。


 「俺は松元竜司。ここのリーダーをやってる」


 「蘭堂紅葉です。珠洲の母です」


 紅葉が優雅に微笑む。


 「紅蓮寺灯だ」


 灯は素っ気なく名乗った。


 珠洲は昴と大人たちの様子を見ながら、ソファに座った。昴も隣に座ると、珠洲は小さく安心した。


 「珠洲がこんなに積極的に誰かを誘うなんて初めてよ」


 紅葉が嬉しそうに言う。


 「お母さん」


 珠洲が小さく抗議の声を上げる。


 「でも本当のことでしょう? あなたがお友達を作るなんて」


 紅葉の言葉に、珠洲は頬を僅かに染めた。友達という言葉が、なぜか胸に響く。


 「昴は、友達」


 珠洲がそう言うと、昴は一瞬驚いたような顔をして、すぐに答えた。


 「俺も、珠洲ちゃんは友達だと思ってるよ」


 その言葉に、珠洲の心が軽やかに跳ねた。友達。この暖かい感情に名前があることを、彼女は初めて知った。


 「珠洲、おなか、すいた」


 珠洲が突然そう言うと、皆が笑った。


 「そうね、お昼の時間だものね」


 紅葉が立ち上がる。


 「昴くんも一緒にいかが?」


 「はい、ありがとうございます」


 昴が答えると、珠洲は満足そうに小さく頷いた。昴が一緒にいてくれる時間が延びる。それだけで、彼女の心は満たされていく。


 昴と過ごす時間の中で、珠洲は自分の中に眠っていた感情が少しずつ目覚めていくのを感じていた。それが何なのか、まだ完全には理解できない。だが確実に言えることは、昴という存在が彼女の世界を変え始めているということだった。


 生まれてから十五年間、感情の起伏に乏しかった珠洲にとって、これは大きな変化の始まりだった。そしてその変化は、まだ始まったばかりだった。

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