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ある魔物の記憶4

 私の名は篠田真帆。夫は篠田恭一。結婚して十五年、私たちはずっと子どもを望んでいた。望んで、祈って、積み立てを崩して検査にも通った。結果は簡単な紙切れ一枚だった。「自然妊娠の見込みは限りなく低い」。医師は言葉を選んでくれたのだろうけれど、私の耳には「あなたは産めない」としか響かなかった。


 はじめは二人で泣いた。次は努力しようと誓った。けれど、努力って何だろう。私はサプリを飲み、体を温め、カレンダーに体温を記した。妊娠報告の多いSNSをそっと閉じ、ベビー用品店の前を遠回りした。恭一は優しかった。優しかったのに、やがて私たちは触れ合うことさえぎこちなくなった。レス、と人は呼ぶそうだ。言葉にした瞬間、こわばりが現実になった。


 義母は悪気なく尋ねた。「孫の顔はいつ見られるのかしら」。悪気がないのは、時に刃より鋭い。私は笑って誤魔化した。帰り道、マンションのエレベーターの鏡に映る自分の顔がひどく老けて見えた。夜、湯船の中でお腹を撫でると、そこは静かな湖の底みたいに、冷たく澄んでいた。そこになにかが来る想像が、どうしてもできなかった。


 夫の帰りは遅くなった。最初のうちは本当に仕事が忙しいのだと思った。「ごめん、今期が山場でさ。来月には落ち着くから」彼はそう言って、コンビニの袋をぶらさげて帰ってきた。いつからだろう、あの袋が謝罪の白旗のように見えるようになったのは。袋の底の焼き鳥のタレが漏れて、白いビニールに琥珀色の涙の跡を作るのを私は何度も見た。


  休日も家にいないことが増えた。社のゴルフ、取引先との会食、同窓会。理由はいくらでもあった。私は笑って見送った。笑い続けるのは、思っていたよりずっと難しかった。笑うたびに、口角の筋肉がつるように痛んだ。土曜の午後、ベランダで干したタオルの匂いを嗅ぎながら、私は自分が乾いていく音を聴いた。


 家にいるときの彼は、ピリピリしていた。テレビのリモコンが見当たらないだけで苛立ち、私が皿を割ると深くため息をついた。私もまた、針のようにとがっていたのだと思う。ちょっとしたひと言に噛みつき、過去の会話を引っ張り出して責め立てた。二人とも、誰かを傷つけたいわけじゃなかった。ただ、どこにも行き場のない怒りが部屋の隅々に溜まっていって、それが溢れたとき、いちばん近くの相手にぶつけるしかなかった。


 夜中、寝返りのたびに彼の背中が遠くなる気がして、私はそっとスマホに手を伸ばした。ロック画面の通知に女の名前は出てこなかった。けれど、出てこないことがかえって不自然に思えた。疑いは、喉の奥に刺さった小骨のように、飲み込めず吐き出せず、ただ痛んだ。私は彼のスマホを覗き見する勇気が持てなかった。自分を守るための臆病さを、私は誰より知っていた。


 ある日、ポストに一枚のチラシが入っていた。

〈何でも探偵事務所シルクハット ペットの捜索から浮気調査まで何でも承ります〉

 白いシルクハットの絵が真ん中にあり、料金表は驚くほど安かった。紙はやけに白く、指にすべる触感が他のチラシと違っていた。私はためらった。そこまで落ちぶれたのか、と思ったからだ。けれど、夜中の台所で冷たい水を飲みながら、私はもう一人で考えることに疲れているのだと気づいた。


 予約の電話はすぐに繋がった。指定された雑居ビルの一室は、古びているのに清潔だった。磨かれたガラスのテーブル、少し古い型の空気清浄機、壁の安っぽい風景画。応接のソファに座ると、白いタキシードの男が現れた。白いシルクハット。顔は照明の加減だろう、いつまでたっても陰になって見えない。だが、声は柔らかく、手つきは丁寧で、私の話を最後まで遮らなかった。白い手袋が、湯気の立つカップをこちらへ滑らせる。レモンティーの香りが、私の緊張をほどく。


「ご安心を。真実は、いつもあなたの味方です」


 男はそう言って、契約書に私の震える署名を受け取った。ペン先はぬるりと紙を走った。見積は良心的で、支払い方法も柔軟だった。私は、救われたような、罠に入ったような、両方の気持ちを抱えたままビルを出た。エレベーターの鏡に映る私は、少しだけ背筋が伸びて見えた。


 証拠は、残酷なほど早く集まった。どのホテルのレシートにも、夫のサインがあった。隣に映るのは、笑っている女。カメラ越しの距離でさえ伝わる、若くて艶やかな笑顔。動画もあった。居酒屋の個室で肩を寄せ合う影。終電前のホームで指を絡める手。時間も場所も、矛盾なくつながっていた。私はしばらくのあいだ、それを現実と結びつけられなかった。自分の家のソファの上で、別の誰かの人生を見ているようだった。


 胸は、氷水を流し込まれたみたいに冷たくなった。怒りが湧き、すぐに涙になり、涙は乾いて、粉のような怒りがまた残った。粉は部屋の隅に積もり、踏むたびに舞い上がって肺に入った。咳をしても、出ていかなかった。


 それでも、一度だけ彼は優しい約束をした。「あと少ししたら時間が取れる。どこか行こう。海でも山でも、どこでもいい」と。私はその言葉を抱きしめるように、旅行会社でもらったパンフレットを何冊も集めた。青い海、白い砂、木漏れ日の山道。冷蔵庫のマグネットでパンフを留め、毎朝眺めた。端はやがて湿気で波打ち、酸っぱくなった牛乳の匂いに混じって紙のにおいが台所に残った。約束の「あと少し」は、いつの間にか「いつか」に変わり、そのうち言葉にさえのぼらなくなった。


 その晩、私は封筒をテーブルに置いた。恭一が帰ってくる音がする。鍵の金属音、玄関の灯り、ため息。私は立ち上がり、封を切った写真の束を彼の前に押し出した。


「これは何?」


 私の声は自分でも知らない人のように静かだった。


「……仕事の——」


「嘘をつかないで」


 彼の口が開いた。閉じた。ひと呼吸、二呼吸。皿がぶつかるように、声と言葉が散らばった。


「お前だって、ずっと俺を責め続けて——」


「責められて当然でしょ。私は……私は——」


「俺だって……俺だって、誰にも怒れなかった。医者に言われても、噛み締めるしかなくて。上司にも言えないし、親にも言えないし、どこにも投げられない」


「だから浮気? だから若い子に? 私が産めないから?」


 言葉は火花になって飛んだ。受け止めた皮膚から火がつき、部屋の温度がじわじわと上がっていくのがわかった。エアコンは止まっていた。止めた覚えはないのに、送風口から熱い空気しか出てこない。冷蔵庫のモーター音が、遠雷のようにくぐもって聞こえた。


 テーブルの端が、じり、と焦げた。キッチンのタオルがわずかに煙を上げる。観葉植物の葉が、熱で丸く縮れた。私たちは気づかないふりをした。いや、ほんとうに気づいていなかったのかもしれない。怒りは痛覚を鈍らせる。怒りは視野を狭める。目の前の相手以外、何も見えなくなる。


「恭一。あなたは私を嫌いになったの?」


「お前こそ、俺をただの加害者にして楽になりたいだけじゃないのか」


 その瞬間、私の中で何かがはじけた。胸の奥にずっと積もっていた黒い粉が、空気に触れて炎になったみたいに。頬が熱い。腕が熱い。手の甲の産毛がぱちぱちと音を立てて消えていく。


 鏡なんて見ていないのに、わかってしまった。私の表面が燃えている。彼の表面も燃えている。燃えているのに、痛くない。痛みより先に、怒りがあった。怒りこそが酸素で、燃料で、私を立たせている。


「全部、あなたのせいよ」


「違う。全部、お前のせいだ」


 部屋の隅で写真が燃えた。白いシルクハットの男が撮ったはずの証拠は、灰になって空気に溶けた。私は息を吸った。熱い空気が喉を焼く。焼くはずなのに、もっと吸いたくなる。もっと燃やしたくなる。もっと——


 畳が、床が、壁紙が、みるみる波打つ。熱で空気が揺れ、その揺れが視界をぐにゃりと曲げる。恭一の輪郭が歪む。私の叫びが、私の声だと認識できなくなる。玄関の鏡に掛けたウェディング写真の額が、音もなく溶けて角を丸めた。


 私の皮膚は炎になり、髪は尾を引く火の線になった。指を握れば、火が拳になり、開けば、火が羽虫の群れのように散った。恭一もまた、炎に包まれていた。彼の怒りと私の怒りがぶつかり合うたび、部屋の温度計の針が目に見えて跳ね上がった。透明だったガラス皿が内部からひび割れ、バチンと音を立てて裂けた。


 私はテーブルを叩いた。テーブルは燃え、灰になって崩れた。私は言葉を吐いた。言葉は轟音になって吹き荒れた。彼の腕が振り下ろされる。赤い尾を引いて、私に迫る。私はそれを迎え撃つ。橙と赤が交わり、白いきしみが生まれる。白——私たちの怒りがさらに濃くなると、炎の芯が白に変わった。温度が上がる。世界が小さくなっていく。視界は敵と炎だけになっていく。


 火災報知器が、遅れて金切り声を上げた。赤い豆電球が点滅し、天井の一角でけたたましく鳴る。消火器の置き場を二人とも知っていたはずなのに、誰の目にも入らない。スマホが震え、緊急速報の文字が白く弾ける。私は指を伸ばした。触れた画面は、瞬く間に溶けて黒く沈んだ。彼のネクタイピンが、赤く熱せられて落ちる。床に落ちた金属の小さな星を、私は踏みしだいた。音はしなかった。音という概念が、燃えて失せたのだと思う。


 誰かがドアを叩いた音がしたような気がした。上の階で悲鳴が上がったような気もした。けれど、私にはどうでもよかった。ここは私と彼の戦場だ。私と彼。十五年分の言葉と涙と沈黙が、いま燃え尽きようとしている。


「真帆!」


「恭一!」


 呼び合ったのか、吠え合ったのか、それすら区別できなかった。名前はもう意味を持たなかった。人間の名前は、炎の名前ではないから。


 天井が落ちる。煙が渦を巻く。窓ガラスが割れる。夜風が新しい酸素を連れてくる。私の内側で何かが歓喜した。もっと、もっと、と。隣の部屋の時計が鳴いた。時刻を告げる低い鐘の音は、すぐに火の音に飲まれた。


 そのとき、私の中で最後の言葉が溶けた。思考がほどけ、記憶の形が崩れ、恨みも理屈も、ぜんぶ炎の色に吸い込まれていった。夫が最初にくれた花束の匂いも、新婚旅行の海の色も、病院の白い廊下も、全部、赤と青の中で形を失った。

 最初に住んだ六畳一間の部屋、夏は窓から入る祭囃子、冬はふたりで毛布にくるまって見た安い映画。給料日のカレーに入れすぎた生姜、笑いながら食べた夜。どこかのノートに書き散らした、まだ来ない子の名前リスト——好きな字を丸で囲んでは、少し恥ずかしそうに見せ合った。そんな細々とした温度が、炎に撫でられて消える。消えながら、かすかに甘い匂いを立てた。


 私は怒りそのものになった。女でも妻でも、真帆でもない。恭一もまた、人ではない何かになっていた。私たちは互いの怒りに名を与えられないまま、ただ燃えた。燃え続けた。私たちの家が、私たちの婚姻が、私たちの十五年が、ひとつの巨大な炎の塔になって立ち上がった。


 その塔の真ん中で、私は笑ったのかもしれない。泣いたのかもしれない。どちらでもよかった。理性はもう、ここにはなかったから。


 ——こうして、私たちは憤怒の魔物になった。


 その先の私は、もう私ではない。考えない。選ばない。ただ燃える。誰かの声がしても、名前を呼ばれても、火は火であることをやめない。戻らない。不可逆だ。燃え尽きて灰になるその瞬間まで、怒りだけが私を形づくった。




 あー、スッキリした。


(任務後の夜って何でよく寝れんだろ?)


《ふがふが言って寝てたぞ? 乙葉と将来寝れるか?》


(乙葉ちゃんと……えへへ)


《そこじゃねぇ。想像して照れんなウゼェ》


(……ポン吉、今日は甘いの買いに行こう)


《理由は?》


(理由なんてない。なんとなく、甘いのが要る)


《了解。プリン二つな》


(三つで)

 

《糖による三連攻撃だな》

 

(今日だけ。明日から走る)

 

《言ったな。記録しとく》

 

(しなくていい)

夫婦のすれ違いって切ないよね。

うちも結婚したてとかお互いのことを思ってるが故に喧嘩するとかあったもの。

今? 捨てられないだけマシですよ。

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