ある魔物の記憶3
男の名は鴨志田弥一と言った。けれど村では誰もそう呼ばない。呼び名はいつだって「奴」か「田の奴」だった。
小作人にすらなれない。田畑は先祖の代で手放し、名義も権利も残っていない。地主の持ち田に入って草を抜き、水門を上げ下げし、苗の束を運び、収穫の時季には背中を壊すまで稲を担ぐ。代わりに日銭と、くず米と、たまの古漬け。
寝ても覚めても、頑張っても、農奴は農奴のまま。
腹は減らない。だが、心は満ちない。
弥一は夜に藁の上で目を開き、朝に同じ藁に目を閉じる、そのくり返しの中で、ひとつのことばかり考えるようになった。
――どうしたら、働かなくて済むだろう。
怠けたいからではない、と最初は自分に言い訳していた。腰が痛いから、膝が笑うから、背骨が鳴るから。けれど、やがて理由は削れて芯だけになった。
働きたくない。
その思いは歯の裏側に挟まった米粒みたいに、舌で触れればはっきりそこにあった。
初夏、田に水が入る。遠くの山から引いた水が谷を下り、用水路を満たし、田んぼの縁を滑って、空と同じ色の薄い水鏡を作る。
ある昼、弥一は畔に立って空を見ていた。雲が遅い。風が遅い。汗が首筋を落ちていくのも、遅い。
その遅さの中に、異物が滑り込んだ。
白かった。
真昼の田に、まるで場違いな白。
白いタキシード、白いシルクハット。
顔は陰になっていてよく見えなかった。だが口元は笑っていたのが見えた。その笑いがうすら寒いと弥一は思った。
その白い服の男が、畔の泥を汚すこともなく、すっと目の前に立った。
「働きたくないのかい?」
明るい声だった。鳥よけの鈴みたいに軽いのに、耳の奥に残る声。
「……誰だあんた」
「通りすがりの、良い知らせだよ」
白い服の男は面の裏で笑った気配を見せてから、指先で遠くの田を指した。水面に白い指が映る。
「世にはカカシというものがあるそうだ。外国から来た話だよ。人を模した人形を田に立てば、鳥も獣も寄ってこない。
――君がそれをやればいい。」
「……人形の代わりに、オレが?」
「そう。立っているだけ。日が昇れば立ち、日が沈めば目を閉じる。声もいらない、手もいらない。考えも、要らない。働かなくていい。」
喉の奥で何かが鳴った。涎か、欲か。弥一は唾を飲み込んだ。
「そんなことが、人間に……」
「人間は何にでもなれるよ。君が、そう望むなら」
面の黒い涙が、陽の光で薄く光った。白い服の男は懐からなにも取り出さないまま、契約書を読むように淡々と言った。
「約束は簡単だ。
一つ、田のためだけに在ること。
二つ、立ち続けること。
三つ、楽であること。」
「楽で……」
「そう。楽だとも」
白い服よ男は踵を返した。白い背中が、夏の遠景に溶けていく。
「名前を教えちゃくれないのか」
思わず背中に声をかけると、面だけがこちらに向いた。笑いは変わらない。
「名は要らない。立つ者に名は要らないんだ」
そう言って、白い服の男は田の向こうに消えた。風も草も、その足音を覚えなかった。
その日から、弥一は畔に立つことにした。
朝のひかりの縁で、まっすぐに。
人の目があるあいだは恥ずかしさが滲んだ。村の子らが指さして笑い、女房たちが「あれじゃ本当のカカシじゃねえか」と囁き、手ぬぐいで口元を隠した。地主は最初、馬鹿にしたように鼻で笑い、翌日には数粒の握り飯を差し出した。「鳥が減った気がする」と。
三日めには笑う者が減り、七日めには誰も指ささなくなった。立つのが、そこにあるのが当たり前になる。
弥一は立ち続けた。
何も考えずに。
何も持たずに。
日が昇るのを睨み、日が沈むのを見送る、ただの柱になった。
おかしなことが起き始めたのは、十日目の午後だった。
田の上を群れ飛んでいた雀が、田の手前でふいと方向を変える。
くさむらに潜んでいた狸が、鼻をひくつかせて踵を返す。
水音に寄ってきた鷺の足が、小さくふらついてから、眠るみたいに逆方向に歩き去る。
寄らない。
近づかない。
弥一の立つ田は、風だけが通る場所になった。
その頃から、弥一の肌が変わった。
焼けなかった。日差しを浴びれば、誰もが赤くなり、茶に変わるはずの肌が、弥一の肌だけは白くなる。
肌理が消えて、粉砂糖みたいな白さが腕に頬に広がっていく。
やがて白は、ただの色ではなく質になった。
触れると、柔らかい。
ぶよりと沈むようでいて、すぐに戻る。
ぐにゃりと曲がり、とろんと伸びる。
骨の形が輪郭に残っているのに、骨が存在をやめたみたいだった。
弥一は最初、怖がった。
夜に手を見て、指がまっすぐ伸びないことに震えた。
昼に足を見て、くるぶしが溶けていくように見えて吐き気を堪えた。
でも、もう畔を離れる気にはならなかった。
離れる必要がなかった。
立っているだけで、すべてが済む。
村の者たちは噂をした。
「鴨志田の奴ぁ、白くなってきたな」
「日陰に立ってんのかね」
「いや、日向だ」
「……近寄ると、眠くなるんだ」
そう、眠くなるのだ。田の見回りに来た若い衆が、弥一の立つ田の端に来ると、ふわりと膝から力が抜けた。
畦に腰を下ろす。体が重い。目がとじる。休みたい。
彼らはその場でうたた寝をした。
起きれば日が傾いていて、仕事は後回しになっていた。
それでも、起こりはしなかった。
弥一の田はなぜか良く育ったからだ。
鳥は寄らない。虫も、獣も。
立つ者がそこにあるだけで、田は守られた。
白さが髪にまで移った。
風が吹けば、髪は藻のようにゆらめいた。
白い。白い。白い。
弥一は名前を呼ばれることが減った。畔を行く子らは「あれ」と言い、女房たちは「見るな」と目を伏せた。
たまたま見上げた旅の者が、しばらく立ち尽くし、やがて足をもつらせて道端に座り込み、日が暮れるまで動けなくなった。
弥一は、立っていた。
快かった。
腰は痛まない。膝は笑わない。背骨は鳴らない。
からだの内側に、暖かい牛乳を注がれ続けているみたいな緩慢な幸福が満ちていった。
働かなくていい。
思わなくていい。
起きているだけで、役に立つ。
その確信が、弥一の胸を満たした。
やがて、夜も立つようになった。
最初のうちは小屋に戻って藁に沈んでいたのだけれど、ある夜、戻り方を忘れた。
足が畔から外れない。膝が曲がらない。
立っていることが、眠ることになったのだ。
星は遠く、虫は近い。
夜の田に風が渡り、弥一の輪郭にくねりが生まれた。
そのくねりは、弥一の意志ではなかった。
風が吹けば草が揺れるように、あるべき形として身体が揺れた。
白は増え、輪郭は曖昧になった。
指の一本一本が、稲の葉みたいに細く割れ、また溶けてひとつに戻る。
肋骨の間の空気がゆらぎ、ぷるんと波が走る。
まぶたは開いたままなのに、視界は眠っていた。
耳に入る音はすべて子守唄に変わり、嗅ぐ匂いはすべて干し草に変わり、触れるものは全部、ゆるい湯だった。
ある日、村の年寄りが畔に立って、風に帽子を飛ばされた。帽子は白い男の足元を過ぎ、田に滑り落ちる。
年寄りは帽子を拾おうとして、ふと見た。
白いものを。
白い、揺れを。
遠目には人の形に見えたそれが、近くで見れば、人ではない。
白い粥のような、膠のような、牛乳を零して固めたような、とろりとした塊。
風で、くねくねと揺れている。
年寄りはその場に膝から落ちた。
「楽だ」
そう言って、笑って、そこで眠ってしまった。
噂は広がる。
人は言う。「見るな」
人は言う。「見ると怠けがうつる」
子どもは言う。「あれは人か?」
年寄りは言う。「田の神だ」
弥一は何も言わない。
立って、揺れて、在るだけだ。
皮膚の白の下に、核ができた。
白の芯に、さらに白い、小さな雫のような粒。
それは脈を打ち、ひとつしかないはずの心臓の代わりに、怠惰の拍動を刻んだ。
粒が言う。
働かなくていい。
働かせたくない。
働くな。
その声は甘く、柔らかく、正しい。
弥一はその正しさに身を委ねた。
季節が回る。
田はひとつの白い夢になった。
風が吹けば、白が揺れる。
誰かが近づけば、白が招く。
見れば、眠くなる。
眠れば、起きられない。
起きられなくても、村は困らない。
なぜなら田は、白の者が立つだけで守られているから。
誰も働かなくても、今日は大丈夫。
今日だけは。
今日くらいは。
そのうち、村の誰も、弥一の名前を言わなくなった。
誰にもわからないし、誰も知ろうとしなかった。
知ることは、起きることだ。
起きることは、苦しい。
だから、見ない。
だから、眠る。
田の真ん中で、白がくねくねと揺れ続ける。
働かない幸福を、周囲に撒き散らしながら。
こうして、怠惰の魔物が生まれた。
名の要らない、立つ者が。
人間だった何かが、人を辞めて田に残った生きものが。
見れば、だらりと世界がほどける。
見なければ、構わない。
ただ、そこに在るだけ。
あー、スッキリした。
目が覚めた瞬間、胸の奥のもやもやがきれいに洗い流されたみたいだった。
(任務の後っていっつも、びっくりするぐらい目覚めがいいな)
《寝汗もかいてないな。脳内にたまったゴミ掃除したぜ、って顔してるぞ》
(お掃除ポン吉ありがと)
《オレはルンバじゃねぇ。どうも相棒の副交感神経です》
(はいはい。てか昨日のクネクネ、結局オレほぼ何もしてないのに体だけバキバキなんだけど)
《バリア全開で耐えたのはオマエの身体だからな。筋肉は正直だからな、寝てる間に文句言ってたぞ》
(体が言う文句ってどんなんだよ。聞いてみたいわ)
《そういや、怠惰の魔物の後遺症には糖分が効くって、局長が言ってた》
(絶対言ってない)
《言ってない》
(……言ってないんかーい)
《ところでほら、約束のわしゃわしゃをはよ。ほれ》
(あー筋肉痛辛いんでー)
《二度寝すんな。昴、起きろ。約束は守らなきゃダメ、絶対》
(もー、しゃーないなー)
《おい、テキトーにやるなよ。丁寧に、丁寧にな》
白い服の男一体誰なんだ!?(作者も知らない)




