無償の母性
艶見いろはは、助手席で昴の話を聞きながら、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。
昴の声は淡々としていたが、その言葉の端々に深い傷が滲んでいた。
中学時代の告白とその後のいじめ。同性愛者であることで受けた理不尽な仕打ち。
いろはにとって、それは決して他人事ではなかった。
「『頭おかしい』『気持ち悪い』って言われて」
昴のその言葉に、いろはは自分の過去を重ねた。
同じ言葉を、いろはも聞いたことがある。愛した人の家族から、友人から、社会から。
女性を愛する女性として生きることの困難さを、いろは自身も痛いほど知っていた。
「ひどいわね、それは」
いろはは昴に向けて言ったが、その言葉は同時に過去の自分にも向けられていた。
昴はまだ若い。高校生から大学生程度の年齢だろう。
その年齢で、これほどの理不尽を経験するとは。
いろはは昴を守りたいと強く思った。
この子には、自分と同じ思いをさせたくない。
「いじめられるようになったんです。『レズ』って呼ばれたり、更衣室で着替えてると『こっち見るな』って言われたり」
昴の声に、当時の恐怖が蘇っているのが分かった。
いろはは昴の手を握りたい衝動に駆られたが、局長もいる車内では控えた。
代わりに、振り返って昴に向ける視線に、できる限りの温かさを込めた。
「トイレも行けなくなって。『あいつが入ったトイレは使いたくない』って」
昴の声が小さくなった。
いろはは胸が痛くなった。
学校でのいじめは、思春期の少女にとって地獄だっただろう。
居場所を失い、友人を失い、自分の存在すら否定された。
それでも昴は生き延びた。男装という手段を選んで、自分なりに道を切り開いた。
その強さに、いろはは敬服した。
「それで、男装することにしたんです」
昴の選択は、いろはにとって理解できるものだった。
社会が受け入れてくれないなら、自分を変えるしかない。
昴の男装は、生き延びるための手段だったのだ。
だが、それが昴にさらなる苦痛をもたらしたことも、いろはには分かった。
「男装してデートしても、女だってバレると冷たい目で見られて」
昴の恋愛遍歴を聞いて、いろはは複雑な気持ちになった。
昴は愛を求めて、様々な関係を試してきた。だが、どれも満たされることはなかった。
男装での恋愛は、常に「嘘」の上に成り立っている。
相手は本当の昴を知らない。昴もまた、本当の自分を隠している。
そんな関係で、真の愛情が育つはずがない。
「『可愛い男の子』だと思って遊びでデートしてくれる子もいたんですけど、それも虚しくて」
昴の言葉に、いろはは自分の経験を重ねた。
いろはもまた、「遊び」の関係を経験したことがある。
本気で愛した相手に拒絶された後、心の穴を埋めるために築いた空虚な関係。
満たされることのない関係を重ねても、孤独感が増すだけだった。
昴も同じ思いをしたのだろう。
「本当の恋愛じゃないものね」
いろははそう言って、昴に理解を示した。
昴の表情が少し明るくなったのを見て、いろはは安堵した。
「女だってバレた瞬間、『騙された』『気持ち悪い』『変態』って言われることもありました」
昴の傷の深さに、いろはは胸が詰まった。
愛されたいと思うことの何が悪いのか。
女性を愛することの何が間違っているのか。
社会の偏見と無理解が、昴のような純粋な心を傷つけている。
いろは自身も同じ傷を負った身として、昴の痛みが手に取るように分かった。
「だから、ちゃんと恋愛するのは諦めてたんです」
昴のその言葉に、いろはは深い共感を覚えた。
諦めることでしか、心を守れない時がある。
いろはも一時期、同じような諦めを抱いていた。
だが――
「でも、今は違うのよね?」
いろはは昴の変化を感じていた。
昴の表情、声のトーン、全てが以前とは違っている。
恋をした女性特有の輝きが、昴から溢れ出ていた。
「昴ちゃんは、乙葉ちゃんのこと、本気で好きになったから」
「そうなんです」
昴の笑顔を見て、いろはは心から嬉しく思った。
この子がついに、本当の愛を見つけた。
諦めていた恋愛に、再び希望を抱き始めた。
それは、昴にとって人生の転機だろう。
いろはは昴の恋を全力で応援したいと思った。
だが、同時に心配でもあった。
昴はまだ乙葉に正体を明かしていない。
男装も、同性愛者であることも、すべて秘密のままだ。
その状況で、本当の意味で愛し合えるのだろうか。
いろはは昴ともっと深く話し合う必要があると感じていた。
クネクネ戦での昴の戦いぶりも、いろはには気になっていた。
局長は昴の戦闘技術に注目していたが、いろはが気になったのは別の点だった。
昴の心の状態だ。
アイマスクをつけて敵が見えない状況で、昴は一切動揺していなかった。
普通なら恐怖やパニックで動けなくなるはずの状況を、昴は平然と乗り切った。
それは昴が強いからではない。
昴が、恐怖や不安を感じることに慣れすぎているからだ。
常日頃から「本当の自分がバレたらどうしよう」という不安と戦っている昴にとって、魔物との戦闘すら些細なストレスなのかもしれない。
それに気づいた時、いろはは昴の心の強さと同時に、その痛ましさも理解した。
この子は、幼い頃から一人で戦い続けてきたのだ。
誰にも本音を言えず、誰からも理解されず、それでも生き延びるために。
そんな昴だからこそ、乙葉という存在がこれほど重要なのだろう。
初めて「本当の自分を愛してくれるかもしれない」と思える相手。
昴にとって乙葉は、希望そのものなのだ。
管理局に戻った後、いろはは昴のことを考え続けていた。
あの子には、もっと詳しく話を聞く必要がある。
昴が本当に求めているもの、恐れているもの、そして隠していることを理解しなければ、適切にサポートできない。
翌日の夜、いろはは昴の部屋を訪れた。
コンコンとドアをノックすると、中から慌てたような声が聞こえてきた。
「は、はい! どちら様ですか?」
「いろはよ。昴ちゃん、少し話さない?」
「あ、いろはさん! お疲れさまです」
ドアが開いて、昴が顔を出した。
部屋着のTシャツとジャージ姿。髪も少し乱れている。
男装を解いた昴は、やはり美しい少女だった。
「お邪魔するわね」
いろはは昴の部屋に入った。
シンプルな家具に、几帳面に整理された机。壁には何の装飾もない。
まるで仮住まいのような、味気ない部屋だった。
昴は、散らかっててすみませんと慌てて椅子を勧めた。
「全然散らかってないじゃない。むしろ綺麗すぎるくらい」
いろはは部屋を見回した。
「ここ、昴ちゃんの部屋?」
「は、はい……」
「なんだか寂しい部屋ね」
いろはは率直に感想を述べた。
昴の表情が少し曇った。
「そ、そうですかね……」
「ポスターとか、好きなものとか、何も飾ってないのね」
いろはは昴の反応を観察していた。
「その……あまり物を増やしたくなくて」
昴は曖昧に答えた。
いろはには、昴の本音が読み取れた。
この子は、自分の部屋すら「本当の自分」を表現する場所にできずにいる。
男装で社会に溶け込もうとするように、部屋も「無個性」で「目立たない」ように作っている。
「昴ちゃん」
いろはは昴と向き合った。
「今日は、もっと詳しく話を聞かせてもらえる?」
「詳しく……?」
「昴ちゃんの本当の気持ちよ」
いろははそう言って、昴の手を取った。
「でも、その前に私の話を聞いてくれる?」
「いろはさんの?」
「ええ。昴ちゃんと似た経験をしたことがあるの」
いろはは深く息を吸った。
自分の過去を話すのは、いつも心が重い。だが、昴のためなら話さなければならない。
「私も、女性を愛したことがある」
昴の目が見開かれた。
「いろはさんも……」
「ええ。大学生の時よ」
いろはは遠くを見るような目をした。
「彼女の名前は、美月ちゃん。同じサークルの後輩だった」
美月。久しぶりにその名前を口にした。
今でも、いろはの心の奥で特別な場所を占める名前。
「すごく綺麗な子だった。髪が長くて、笑顔が眩しくて」
いろはは当時を思い返していた。
「私、一目で恋に落ちちゃった」
「それで……どうなったんですか?」
昴が身を乗り出した。
「最初はただの先輩後輩だったの。でも、だんだん仲良くなって」
いろはの声に、懐かしさが滲んだ。
「彼女も私に好意を持ってくれてるって分かって」
「え……」
「ええ。お互いに気持ちを確かめ合って、恋人同士になった」
昴の表情が明るくなった。
いろはは苦笑いした。昴にはまだ続きがあることを話さなければならない。
「半年間、幸せだった」
いろはの声が沈んだ。
「でも、彼女のお父さんにバレちゃった」
「あ……」
「美月ちゃんのお父さんは厳格な人でね。娘が女性と付き合ってるなんて、絶対に許せなかった」
いろはは当時の恐怖を思い出していた。
美月の父親に呼び出された時の、あの冷たい視線。
「『娘から離れろ』って言われた」
「それで……?」
「最初は拒否したの。でも」
いろはの声が震えた。
「美月ちゃんのお父さんは、娘を無理矢理海外に留学させるって脅した」
昴は息を呑んだ。
「美月ちゃん自身は、私と一緒にいたいって言ってくれた。でも、家族と縁を切ってまで私を選ぶのは難しいって」
いろはは目を閉じた。
あの時の美月の涙を、今でもはっきりと覚えている。
「結局、私たちは別れることになった」
「そんな……」
昴の声に同情が滲んでいた。
「美月ちゃんは海外に行って、そのまま向こうで結婚した。男性と」
いろはは苦笑いした。
「今頃、幸せな家庭を築いてるんでしょうね」
昴は何も言えずにいた。
「私、その後しばらく荒れちゃった」
いろはは続けた。
「何人かの女性と付き合ったけど、どれも本気になれなくて」
「遊びの関係、だったんですね」
昴が理解したように頷いた。
「ええ。心を守るための、嘘の関係」
いろはは昴を見つめた。
「昴ちゃんと同じよね」
昴は驚いたような表情をした。
「同じ……?」
「本当の自分を隠して、相手に嘘をついて、それでも愛されたいと願う」
いろはの言葉に、昴は胸を突かれたような表情をした。
「でも、そんな関係はいつか破綻する。相手は本当の私を知らないんだから」
「はい……」
「それで、半魔になったの」
いろはは自分の覚醒の瞬間を思い返した。
「ある夜、美月ちゃんの結婚式の写真をSNSで見つけちゃって」
あの時の衝撃は、今でも忘れられない。
美月が白いドレスを着て、知らない男性と幸せそうに笑っている写真。
「その時、私の中で何かが壊れた」
いろはの声が沈んだ。
「『私の愛は偽物だったのか』『本当の愛なんて存在しないのか』って」
昴は息を殺して聞いていた。
「その瞬間、色欲の能力が覚醒した」
いろはは自分の手を見つめた。
「誰でも魅了できる力。でも、それは本当の愛じゃない」
「それで……どうしたんですか?」
「しばらく自暴自棄になった」
いろはは正直に答えた。
「能力を使って、適当な相手と関係を持って」
昴は黙って聞いていた。
「でも、そんなことを続けても虚しいだけだった」
いろはは昴と向き合った。
「だから決めたの。もう嘘の関係は築かないって」
「今は……?」
「今は一人よ」
いろははそう言って微笑んだ。
「でも、寂しくはない。本当の自分でいることの方が大切だから」
昴は何か言いたげな表情をしていたが、結局何も言わなかった。
「昴ちゃん」
いろはは昴の手を握った。
「乙葉ちゃんとのことは、今までとは違うでしょ?」
「はい……全然違います」
昴の表情が柔らかくなった。
「一緒にいると幸せだし、守りたいって思うし、彼女の笑顔のためなら何でもできるって思うんです」
「それは本物の愛ね」
いろはは昴を見つめた。
「でも、乙葉ちゃんには正体を隠してるのよね?」
昴の表情が曇った。
「はい……怖くて」
「何が怖いの?」
「嫌われるのが……」
昴の声が小さくなった。
「今までみたいに、『気持ち悪い』って言われたら、もう立ち直れません」
いろはは昴の恐怖を理解した。
過去の傷が、昴の心に深い不安を刻み込んでいる。
だが、それを乗り越えなければ、本当の関係は築けない。
「昴ちゃん」
いろはは昴の頬に手を添えた。
「乙葉ちゃんは、今までの人たちとは違う」
「でも……」
「あの子の性格、昴ちゃんも分かってるでしょ?」
いろはは続けた。
「乙葉ちゃんは、人を外見や属性で判断するような子じゃない」
昴は考え込むような表情をした。
「それに、昴ちゃんがどんな秘密を抱えてても、あの子は受け入れてくれると思う」
「本当に……そう思いますか?」
「ええ。私が保証する」
いろはは断言した。
「乙葉ちゃんは、昴ちゃんが思ってる以上に強くて優しい子よ」
昴の表情が少し明るくなった。
「でも、いきなり全部を話す必要はないわ」
いろはは昴の不安を和らげようとした。
「少しずつ、昴ちゃんのペースで」
「はい……」
昴は頷いた。
いろはは昴の成長を感じていた。
この子は確実に変わりつつある。恋愛を通じて、自分自身と向き合い始めている。
だが、まだ時間がかかるだろう。
昴の傷は深く、不安も根深い。
いろはは昴を支え続ける決意を固めた。
「ところで」
いろはは話題を変えた。
「今日の戦闘、すごかったわね」
「え?」
昴は驚いたような表情をした。
「目が見えない状況で、あんなに正確に戦えるなんて」
「あ、あれは……運が良かっただけです」
昴は慌てて否定した。
いろははその反応を興味深く観察した。
昴は本当に、自分の能力に気づいていない。
局長が分析していた通り、昴の能力は無意識レベルで発動している可能性が高い。
だが、いろはが気になったのは、昴の能力そのものではなく、昴の心理状態だった。
あの戦闘中、昴は一度も弱音を吐かなかった。
恐怖や不安を表に出すこともなく、淡々と戦い続けた。
それは昴が強いからではない。
昴が、自分の弱さを他人に見せることを極度に恐れているからだ。
常に「強いフリ」「平気なフリ」をして生きてきた結果、本当の意味で心を開ける相手がいない。
いろはは昴の孤独感の深さを理解した。
「昴ちゃん」
いろはは昴に向き合った。
「私には本音を言ってもいいのよ」
「え?」
「怖い時は怖いって、不安な時は不安だって」
昴は戸惑ったような表情をした。
「私、昴ちゃんのお姉ちゃん役になりたいの」
「お姉ちゃん……?」
「ええ。昴ちゃんには、本音を言える相手が必要」
いろはは昴の手を握った。
「乙葉ちゃんには恋人として愛されて、私には姉として甘えて」
昴の目に涙が浮かんだ。
「そんなの……甘えすぎです」
「甘えてもいいのよ」
いろはは昴を抱きしめた。
「昴ちゃんは、もう一人じゃない」
昴はいろはの胸で小さく震えていた。
長い間抑えてきた感情が、ついに溢れ出そうとしている。
「今日の戦闘、本当は怖かったでしょ?」
いろはは昴に問いかけた。
「……はい」
昴は小さくうなずいた。
「目が見えなくて、何が起こってるかわからなくて」
「怖いって言ってもよかったのよ」
「でも……みんなに迷惑をかけるし」
「迷惑なんかじゃない」
いろはは昴を見つめた。
「昴ちゃんの気持ちを聞かせてくれるのが、一番嬉しい」
昴は涙を流しながら頷いた。
「今まで、誰にも本当のことを言えなくて」
「もう大丈夫よ」
いろはは昴の髪を撫でた。
「私がいるから」
二人はしばらく、静かに抱き合っていた。
昴の心の扉が、少しずつ開かれていくのを、いろはは感じていた。
この子には、まだまだ隠していることがあるだろう。
だが、それを無理に聞き出す必要はない。
昴が心を開いてくれるまで、いろはは待ち続ける。
それが、昴に対するいろはの愛情の形だった。
「ありがとうございます」
昴が顔を上げて言った。
「お礼なんていらないわ」
いろはは微笑んだ。
「これからも、何でも話して。恋愛のことでも、仕事のことでも」
「はい」
昴は嬉しそうに頷いた。
いろはは昴の笑顔を見て、この子を守り続けようと心に誓った。
昴という少女は、いろはにとってかけがえのない存在になりつつあった。
妹のような、娘のような、時には自分自身を重ねるような。
複雑な感情だが、確実に愛情だった。
昴を通じて、いろはは自分の過去とも向き合えるようになった。
美月との別れで傷ついた心も、少しずつ癒されていく気がする。
昴が幸せになることで、いろは自身も救われる。
そんな関係を、いろはは大切にしたいと思っていた。
「それじゃあ、もう遅いから今日はこのくらいにしましょうか」
いろはは立ち上がった。
「はい。今日はありがとうございました」
昴はドアまで見送ってくれた。
廊下に出たいろはは、振り返って昴に向けて言った。
「昴ちゃん」
「はい?」
「乙葉ちゃんへの告白、応援してるから」
昴の頬が赤くなった。
「が、頑張ります」
「ええ。きっとうまくいくわ」
いろははそう言って、昴の部屋を後にした。
廊下を歩きながら、いろはは昴の未来を思い描いていた。
この子には幸せになってほしい。
本当の自分を愛してくれる人と、本当の愛を育んでほしい。
そのために、いろはは昴を支え続ける。
その夜、いろはは自分の部屋で昴のことを考えていた。
昴という存在は、いろはにとって特別な意味を持っている。
自分が救えなかった過去の自分を、昴を通じて救おうとしている。
昴が幸せになることで、いろは自身の傷も癒される。
それは偽善的な感情かもしれない。
だが、いろはにとっては真実の愛情だった。
昴を守り、昴の恋を応援し、昴の幸せを願う。
エロくない色欲新しいと思う。




