変身ヒーロー?
「そこの君! こっちに下がって! はやく!」
後ろから声。玄関の方角。足音がぺたぺたと近づいてくる。
振り向くと、ふわふわの茶髪の女の子が廊下を走ってくるところだった。高校生ぐらい。身長は俺より少し低くて、ふっくらとした雰囲気が印象的だ。
大きなリュックを背負って、息を切らしてる。こんな状況に場違いなまでに可愛らしい少女。でも何故かその姿が頼もしくて、安心してしまう。
「君は、壁際から離れないで。大丈夫だよ、私が守ってあげる。すぐ終わらせるから」
走りながらリュックの口をがさっと開けて、中から握り拳より大きなおにぎりを取り出した。コンビニで売ってるやつの三倍はあって、自家製らしくラップに包まれていた。
(守るって……この俺を? 女の子が?)
肥大した虚栄心が、女の子に守られるこの状況を許せなくなってくる。
《おいおい、悪癖出てるぞ。それは今じゃねぇ、抑えて抑えて。どうどう》
次の瞬間、空気がぶうんと低く唸った。
「欲望解放」
彼女が呟いた瞬間、彼女の体が変わった。
輪郭がぎゅっと締まって、密度が上がったみたいに見える。肩幅が広くなって、胸板に厚みが出た。二の腕も太くなってる。肌の色がわずかに灰色がかって、顔の形も少し変わった。鼻が丸く、少し上向きになった。唇の端から小さな牙が二本覗いてる。耳も丸く見える。
脚は明らかに太くなった。でも太いだけじゃなくて、筋肉がついてる。足音も重い。ずし、ずし、と床板がきしむ。
可愛い顔はそのままなのに、全体的に豚——いや、猪? まるでフィクションのオークをデフォルメして3次元に落とし込んだ、そんな感じだった。
(うおお……すげぇ。なんだあれ。おにぎり食べたら化け物になった)
《やべえな! 変身だぜ変身。ヒーローみたいだな!》
(いやこの状況だとみたい、じゃ無くてまんまヒーローだよな)
《確かにな!》
彼女はキッチンに踏み込んだ。水が膝まであるのに、ずぶずぶと平気で進む。髪のむちが飛んでくると、右の前腕で、ばし、と払い上げた。氷の粒——母さんの周りに浮かんでる小さな氷の塊が肩に当たっても、肩をちょっとすくめるだけで弾いた。
一歩ずつ、母さんとの距離を詰めていく。水に足を取られない。踏み込むたび、足元の水がぐしゃっと押し潰される。体重が乗ってるのがよくわかる。
(なんか、さっきより体が重そうに見える)
母さんは泣き声を深くした様な、低い唸り声をあげる。尾びれで床を叩いて、水を増やそうとしてる。ばしゃん、ばしゃんと音を立てて、水位がさらに上がった。
冷気も強くなった。息が白い。天井を見上げると、細かな氷の粒がちらちらと降ってる。雪みたいにだ。でも雪じゃない。針みたいに鋭くて、肌に刺さると痛い。
彼女は右からのむちを手の甲でべし、と弾いて、そのまま母さんの顎に手をかけた。左手で顎を下から支えて、右腕を首の後ろに回す。
胸で、母さんの肩を押さえつける形。レスリングの技みたいだ。
(なんなんだ、この子。なんでこんなことができるんだ?)
泣き声が、一瞬だけかすれた。
尾びれがばしゃんばしゃんと床を叩いて、水が壁を這い上がる。天井からも逆さに水滴が落ちる。髪のむちの勢いは落ちない。
たまらず、母さんと距離を取る。
「ちょっと力足りないかも。もう一個、食べちゃうぞー!」
彼女はリュックから二個目のおにぎりをだすと、これも一口で半分齧って、ごくんと飲み込む。
体がまた一段大きくなる。胸板が厚くなって、前腕の筋肉がもりっと盛り上がった。身長も一回りほど大きくなった様で、俺より大きいかもしれない。
《食べ物が力になってるのか? 戦隊モノだとイエローかグリーン担当だな》
(お前は、この状況でそんなこと考えてんのかよ)
この状況で、頭が混乱してわけがわからなくなっているのに、ポン吉は相変わらず、この調子だ。それに救われると同時に憎たらしくなって耳をフニフニしたり引っ張ったりする。
《痛い、いたい。優しく触れよー、大事な相棒の体だぞ? だってさ、なんかもうこの子に任せとけば大丈夫そうな雰囲気じゃん》
(まぁなぁ。でも、母さんどうなっちゃうんだろ)
俺は現実逃避する様に、ポン吉の耳を軽くつまんだ。ふわふわで柔らかい。
彼女は母さんの顎を上に蹴り上げて、後ろに周り首を絞める、チョークスリーパーだ。物理的に声の通り道を狭めるやり方。泣き声がさらに薄くなる。
(いける!)
そう思った瞬間。
「君、ここでしゃがんで! 無理に動かない!」
今度は玄関の方から、落ち着いた女の声。振り向けば、セミロングの明るい茶髪の女性が廊下に立ってた。二十代後半ぐらい。スーツを着て、スマホで誰かに短く指示を出してる。
「はい、艶見です。201号室。近隣避難はお願いします。……ええ、水道管破裂で通します」
スマホを切ると、アパートの廊下に顔を出した隣の住人——おばさんに向かって穏やかに頭を下げた。
「すみません、水道の点検中です。すぐ収まりますので、念のため少し離れていてください」
(この人たち……何者だ。なんで俺んちのことを知ってるんだ)
女性と目が合った。彼女は俺に向かって、深呼吸しろ、という手振りをした。それから床に散らばったガラスの破片をタオルで寄せて、足元の電源コードを壁際に避けた。
「大丈夫。あなたはそこで生き延びるのが仕事。あなたの……お母さんをなんとかするのは、私たちの仕事」
《生き延びるのが仕事ってもなぁ。ぶっちゃけ楽勝だよな》
(それについては同意。でも母さんをなんとかするって、元に戻してくれたりすんのかな?)
《あれが、元に戻ると思うか? 最悪を覚悟しといたほうがいいんじゃないか?》
ポン吉の正論が、胸に突き刺さる。俺に関心無さそうだったけど、それでも大好きな母さんだったから。
俯いた顔をあげれば、戦いはまだ続いていた。
髪のむちがこっちの方へ飛んできた。透明な壁で受けると、ミシっと音を立ててひびが全体に広がる。
彼女——変身した女の子は、母さんの首を抑えたまま、リュックから今度は小さなパウチを取り出した。ハチミツと書いてある。歯で先端を切って、ちゅうっと吸った。
「甘いの補充完了! ……よし」
息遣いが荒いのに、明るい。怖がるそぶりすら無い。まるでこれが日常の一幕とでも言う様な感じ。
母さんの髪の隙間で、口がはっきり見えた。母さんの口の形。でも大きさが異常で、耳まで裂けてる。
そこから言葉が出てくるかと思った。でも出てきたのは音じゃなくて、圧だった。空気が重くなって、胸の内側を押し潰そうとしてくる。
「っ……!」
思わず腰が抜けそうになる。透明な壁がぐにゃりとたわんで、割れそうになる。
(苦しい……息が)
《大丈夫だ。こう言う時こそいつものポーカーフェイスだろ?》
彼女の腕がぎゅうっと母さんの首をさらに締め上げる。音が鳴り止み、空気が軽くなる。耳鳴りが一拍遅れて消える。俺は息を深く吸いすぎて、むせた。
「……っげほ」
《落ち着け落ち着け、はい、深呼吸。せーのー、すーはー》
「憂鬱の撃破条件は、声を止めること、その上での肉体の破壊だったよね……よしいける!」
彼女の声が聞こえる。泣き声は止まり、悪あがきの様に、床下から冷たさが湧き続けて、部屋の空気を押し上げる。
母さんの尾びれが痙攣するみたいに震えてる。氷の粒が空中で霧になって漂い、視界が真っ白になる。
「これで、決める!」
彼女が吠えた。豚人の喉から、短く鋭い声。母さんを締め上げながら体を持ち上げる。
否が応でもこの後の展開がわかってしまう。
「っ……!」
《昴。目を閉じるのも選択だぞ》
(見ておく。母さんの最後を見ておかなきゃ、それが子供の勤めでしょ)
《……分かった。オレも一緒に目に焼き付けとくよ》
俺はうなずいた。俺だけに見える相棒へ向けた相槌。
母さんが、床に叩きつけられる。そして――泡の様に消えてしまった。
ブレスレットが水に流されて、俺の足元まで転がってきた。冷たい光を反射してる。視界の端で、それがやけに鮮明に見えた。
(母さん……)
心の中で呼ぶ。ポン吉も空気を読んだのか何も言わなかった。
玄関側の女性が短く言った。
「近隣、離れました。救急車はこちらで対応します。」
その声がやけに現実的で、俺の今いる場所が、夢では無いという証拠を叩きつけてくる
。
「乙葉ちゃん大丈夫?」
彼女――乙葉という名前らしい――に向かって女性が聞いた。
「いろはさん、どうでしたか? 私ちゃんと出来てました?」
彼女達の会話を聞きながら、俺の心はどこか遠くへ行っていた。
《昴、悲しかったら俺の手を握れ。ほら、ここ》
(手、って……お前、前足しか——)
《いいから》
俺はポン吉の前足を握った。温かい。震えているのは、俺か、こいつか、たぶんどっちも。
(ポン吉)
《なんだ》
(ありがとう)
《礼は後でたっぷりとしてもらおうか。今は——いつもお前を思い出さなきゃな。かっくいい昴きゅんをさ》
(……だな)
ふぅ、と息を吐いて立ち上がる。髪の毛を整えて会話してる2人の方へ、向かう。
こちらに気づいた様で声を出そうとしたところで、先手を打つ。
「先程は、助けて頂きありがとうございました。アレで……母さんは、天国へ行けたでしょうか」
深くお辞儀した後、起き上がったその瞳に涙を滲ませる。そして腕には形見のブレスレット。
(ハイこれ。これは堕ちたっしょ。悲劇の主人公が涙堪えながらお礼言う感じ、しかも超イケメン!)
《そうそう、お前はそれでいいんだよ》
瞳に滲んだ涙が演技か本物か、俺自身にもわからなかった。
ヒロイン登場




