11. 氷塊が崩れた
「はじめて名を呼ばれましたので、感極まったのかもしれません」
やっと涙を止められてからそう伝えると、皆が一様に困ったような顔をして私を見ていた。
王族や高位貴族の子女が表情を崩したその珍しさに、私のせいだということも忘れて、また失礼にも私は順に彼らの顔を観察していった。
こうして近くでよく眺めてみれば、それぞれがまだ幼さを顔に残していることが分かって、また不思議な感覚を覚える。
胸の奥がじんわりと温まっていくように感じたのだ。
「はじめて、というと。家族以外からは、はじめて呼ばれたということかな?」
王子に問われ、私はすぐにこれを否定した。
「いいえ。幼少期は分かりませんが。記憶のある限り、アラン殿下にはじめて呼んでいただきました」
「それは……聞いてもいいのかな?」
「わたくしに隠すことなどございません。何なりとお聞きくださいませ」
「そういう意味ではないのだけれど……君には素直に聞こうか。ご両親はマリアンヌ嬢の名を呼ばなかったのか?」
母は絶対に私の名を呼ばない。
何度母から同じ話を聞かされたことだろう。
私の名付けが、あの二人のはじめての夫婦喧嘩の理由だった。
そして母はまだ、この件では父を許していない。
「マリアンヌという名は、ご先祖様に頂いたものにございます」
はるか昔の先祖の一人の名を、父はあえて選んだ。
親族たちは平民の血が流れる子に大事な先祖の名を与えるなんてとんでもないと当時は憤慨したそうだし、今も不満に思っているだろうが、母もまた長く怒っている。
母の名はマリーだ。
平民はこうした短く呼びやすい名を選ぶことが多いと聞く。
女性ならサリー、アン、リサ、男性でもサム、ガイといった感じだ。
先祖の名を頂戴することも、平民は持たない習慣である。
ところが貴族はむしろ先祖の名を積極的に採用した。
特に功績を残した先祖の名は、子孫たちが好んで使ってきたせいで、家系図には同じ名が並ぶことになる。
こういった事情もあり、父は当たり前のこととして、数ある先祖から私の名を選び取った。
その際先祖の功績ではなく、母と音の重なるという条件を最優先にしたこと、これは父なりの愛情表現だったのではないかと私は思うが、母はそうは受け取れなかった。
私の長い名を聞くと、自分が蔑まれているように感じるのだと母は言う。
良かれと思い母も貴族らしく改名するかと聞いた父に、母の怒りは頂点に達したらしい。
そうして私は常に母からは「あなた」と呼ばれ、父に至っては母を刺激しないようになのか、私の名を呼ぶような会話をしなかった。
世話をしてくれる使用人たちは、私を「お嬢様」と呼んできた。
家庭教師の先生たちも同じく「お嬢様」と私を呼んだ。
親戚付き合いもなく、会う機会があっても彼らが私の名を呼ぶことはなかった。
私が先祖の名を使うことを許せていないこともあるが、そもそも彼らにとって私は関わりたくない人間。わざわざ名を呼んで話し掛けてくる親族はいなかったのである。
そして学園では常に「公爵家の令嬢」だった。
こういう理由で名を呼ばれたことがないのだと説明すれば。
エヴァリーナ様がまた泣き出して、それもしばらく泣き止まなくなってしまった。
私は大変なことを言ってしまったのではないかと不安に駆られたが、家庭教師から人が泣いているときの対処法を教わったこともなく、ただただ泣く彼女を見守った。
やがて落ち着くと彼女はまた繰り返した。
「ごめんなさい」
以前とは違って、濡れた瞳は真直ぐに私へと向かっていた。
「わたくし、マリアンヌ様を助けませんでしたわ。わたくしのところの下の子たちが、危うい考えを持ちそうだというのは早くから聞いておりましたのよ。それなのにわたくしは……」
美しい瞳からぽろり、ぽろりと雫が溢れ出る。
私ははじめて狼狽えていたように思う。
母はよく泣いていたけれど、こんなにも綺麗に落ちる涙を私はこの日まで知らなかった。