10. 雪解けの起点
歴史の講義時間を二度奪ったあとは、王子からの提案で王子と高位貴族家の子女らで集まり、議論を続ける時間が継続して設けられることになった。
はからずも、講義時間をさらに奪うことになったのである。
さすがにこの時間を担当する予定だったマナーの講師には、父からも一言伝えて貰うことにした。
王族はまた別として、高位貴族と下位貴族では学園に通う目的が違っている。
下位貴族家の子女の多くは、単純に貴族として必要な知識を学ぶ目的で学園に通っていることだろう。
一方で高位貴族家の子女らにとっての学園は、下位貴族家の子女らに同じよう学ぶ姿を見せる場であり、そしてまた下位貴族が知らされる範囲を改めて確認する場と認識された。
高位貴族とは、平民だけでなく、下位貴族らの心情も操作する。
それは時に夢を見せる形を取られた。
高位身分の御方々と一緒に学んだ記憶、それが各々にとって生涯ひとつの夢物語となるのだ。
言ってしまえば、高位貴族たちからすれば、下位貴族は平民に近かった。
しかしすべての時間一緒に学ぶわけではない。
同じく学ぶ姿勢を見せながら、同時に別の特別なものを学んでいる姿も見せることで、夢の調整を図るのである。
そのひとつがマナーの講義で、元々上位と下位で講義時間が分かれた。
そして実際、高位貴族と下位貴族では扱うマナーの一部が異なっている。
同様の理由で、上位貴族の子女は入学前に学園で教わるすべての学びを終えていた。
こうして同じ場所にあっても、上位の御方々は自分たちとは違う存在だということを、学園在学中に徹底して下位貴族らに分からせるのだ。
そんな場所に私が来ては、それはもう王子も、ここにいる高位貴族家の令息令嬢たちも、大変に都合が悪かったことだろう。
王子から集まろうと提案を受けた時点で、私は彼らから直接嫌味を頂戴する覚悟を持っていた。
だから初回指定された場所に顔を出したとき、集まる視線が不思議と柔らかく感じられて、酷く落ち着かなかったことを覚えている。
そうして集まった私たちは、改めて自己紹介をすることになった。
私以外の皆は幼い頃から交流がありそれぞれに知った仲だったそうだが、私は知らない公爵令嬢のままだったからだ。
集まった令息令嬢たちの家の爵位は皆侯爵。
知る仲になるには私から話し掛けなければならず。
王子がいなければ、彼らと話す機会なく学園を卒業していたものと思われた。
そうして何の波乱もなく、自己紹介が終わったあとだ。
「私からさらに提案だ。皆、名前で呼び合うようにしないか?」
誰も否定しなかったし、する者が出ると王子が思うはずもない。
「では、まずマリアンヌ嬢。先日はよく意見を聞かせてくれた。君から発言してくれたおかげで──」
それは不思議な感覚だった。
その部屋が世界から切り取られるだけでなく、時間まで止まってしまったような。
皆がすぐそこにいるはずなのに、何も存在しない静寂の中に、ぽつんとひとり置かれたようで。
「ごめんなさい」
声がしてそちらを見れば、エヴェリーナ様が両目から涙をこぼしていた。
聴覚と視覚が無事に戻ってきたという感覚を得る。
急に何事かと不躾にも彼女を見詰めていたら、「失礼するわ」という声と共に、頬に何かを当てられていた。
驚いて視線を流せば、いつの間に立って近付いたのか、カトリーヌ様が座る私の真横に立って腰を屈め、微笑みながら私の顔を何かで拭っていた。
甘い花の香りが触覚と嗅覚の戻りを知らせたが、頬に当てられるそれがハンカチだと気付くまでには少しの時間を要した。
その間に気になってもう一度エヴァリーナ様を見れば、ハンカチを手に顔を隠してもう涙が見えない。
見えにくいのはそういうことだったのか。
皆から遅れて状況を理解した私は、急に目の奥に強い熱を感じた。
「皆さま、申し訳ありません。教えていただきたいのですが」
私は恥を忍んで尋ねた。
誰かの息を呑む音を聞く。
高位貴族家の子女には珍しいことだと思った。
「どうすれば、これは止まるでしょう?」
身体に異常が起きているのに、私の心は静けさに満ちていた。
けれども自分では制御出来ないところで発生する異常事態だったから、対処のしようがなかったのである。
笑い声が聞こえた。
それは王子からで、やがて令息たちにも広がった。
カトリーヌ様が「失礼ですわ」と言ったことで、また静寂が戻る。
誰も答えをくれないから。
私はそれからも目から水分を溢れさせることになった。