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 寺坂智明(てらさかともあき)という男は、昔からお節介というか、お人好しというか、とにかくそういう類の人間だった。嫌だ嫌だと言っても、結局人に手を差し伸べてしまうきらいがある。それは古くから変わりない彼の性質であるらしい。「お前のお節介もそこまでいくと病気だな」と揶揄するみたいに言ったのは、寺坂が研修時代に世話になった先輩だった。


 入社したての頃の新人研修の中に横乗り研修というものがある。先輩の運転するトラックの隣に乗り、仕事内容や現場の地理を覚える二週間程度のものだ。長距離輸送を行う寺坂は、ほぼ一日中初対面の先輩の隣で過ごすことになった。最初のうちは苦痛だったが、今思えばかなり当たりと呼ばれる類の先輩だっただろう。寺坂より十五歳ほど年の離れた先輩だったが、快活明朗とした男で、指示やアドバイスは的確、雑談が多すぎることだけが難点だったがそれも慣れてくると親しみやすかった。同業者と話すと気難しい人と研修を行っている人も少なくはなく、寺坂の研修期間中にぎすぎすとした雰囲気にならなかったのは、ひとえに先輩の人柄あってのことだったようだ。寺坂がハンドルを握るようになってもそれは変わりなく、隣に人を乗せて仕事をしたのはそれがほぼ唯一の経験だった。


 それが、まさか見ず知らずの人間を隣に乗せる羽目になるとは。


 寺坂は助手席で物珍しそうに車内を見まわしている男に視線を向けた。目にかかるほどの長い前髪を払って、ごちゃごちゃしてる、と志賀は口元を歪めた。彼なりの不器用な笑みであるらしい。そうだな、と寺坂は座席の後ろにあるベッドへ視線を向けた。寺坂は几帳面なほうではない。座席の後ろに構えられた狭いベッドには志賀が乗るために避難させられた着替えやらの荷物が積まれているし、運転席と助手席の間にあるセンターコンソールには煙草や灰皿、ガム、割りばしなどが無造作に突っ込まれている。たまに整頓する日もあるが、その「たまに」はここ数ヶ月訪れていない。整頓されている車内とは程遠い。

 志賀は一通り車内を見渡して、次に窓の外を覗き込む。光景の高さに目を細めて、すごいな、と呟いた。


「こんなに高いとは、知らなかったな」

「まあ、滅多に乗る機会はないだろうな」


 寺坂は煙草に火をつけて、出発するぞ、と声をかけた。

 ゆっくりと発進した車が弧を描いて曲がる。志賀はやはり物珍しそうに窓の外とサイドミラーを見比べていた。

 車はパーキングエリアを出て高速に乗る。高速は基本的に真っすぐで平坦な道のりだ。寺坂は片手でハンドルを支えつつ、空いた手で煙草をふかしていた。


「お前、なんでこんなことしてんだ。取材旅行か?」


 寺坂が尋ねると、窓に張り付いていた志賀が寺坂を一瞥した。そのまま体を前へ向けて、深くシートへもたれかかる。


「そうじゃないけど。まあ、一人旅みたいなものだよ」

「なら、あの百万円使って普通に旅行すりゃいいだろ。わざわざこんなまどろっこしいことしやがって」


 言いながら寺坂は後方に置いた荷物へ意識を向ける。どうしてもと受け取ることを余儀なくされた百万円が、寺坂の着替えのバッグの中に乱雑に突っ込まれている。別にいい、金銭のためにお前を乗せるわけじゃないから、と断ったにも関わらず、志賀は迷惑料だと言い張り薄緑色の封筒を寺坂に押し付けてきた。百万円分の迷惑なんて、冗談じゃない。寺坂は封筒を手にして早々にこの男を車に乗せる判断を後悔した。

 そもそも、この金が怪しい出どころだったらどうしようか、と頭の片隅で思う。易々と他人に渡せるような金額ではないのだ。犯罪が絡んでいたら流石に困る。

 そんな思いもつゆ知らず、寺坂の言葉を聞いた志賀がはは、と笑った。あまり笑っているようには見えない笑い方をする。頬が少し引きつって声が漏れるだけで、心から笑っていないみたいだ。


「――確かにね。それも考えたんだけどさ。ゆっくり景色見たかっただけだし、行き先決めるのも面倒でね」

「変な奴だな、お前」

「よく言われる」


 あっけらかんと言いきって、志賀はポケットから煙草を取り出した。緩慢な所作で火をつけ、煙を吸い込む。寺坂は少しだけ窓を開けて車内から二人分の煙の臭いを追い出した。夏の早朝の空気がなだれ込んで心地が良い。志賀も同じことを思ったのか、悪くないな、と呟く。


「あのパーキングエリアまでは、どうやって来たんだ」

「寺坂さんみたいな親切な人に送ってもらった」

「俺みたいな不用心な人間が他にも居るとはな」

「不用心っていう自覚あったんだ」

「あるよ。得体の知れない変な奴乗せてんだ」

「得体の知れない変な奴、ね」


 違いない、と彼は呟く。寺坂は短くなった煙草を灰皿で揉み消して、胸中にあったことを尋ねた。


「お前、あの百万円、変な出所じゃないだろうな?」

「変なって?」


 聞かれた志賀は、訝しげな様子で寺坂に返す。この様子じゃ危惧していたことはなさそうだと思いながらも、寺坂は考えられうる可能性を思い浮かべて列挙していく。


「借金とか、闇金とか……あとはまあ、犯罪絡み?」

「まさか」と志賀はせせら笑った。「ちゃんと俺が稼いで溜めた金だよ。通帳とか見せてあげようか」

「いや良い」


 というか通帳なんて持って旅しているのか、と寺坂は思う。


「一応確認しただけだ。犯罪の片棒担がされていないか。あんな大金渡されて『自分のこと運んでくれ』って言われたら、誰だってその可能性を疑うだろ」


 大体やり方が不器用なのだ。人間は自分の行為に見合っていない見返りをもらうと不安になる生き物なのに。要求に見合うだけのものを提示されれば、寺坂もあんなに迷ったりはしなかっただろう。

 寺坂がそのことを伝えれば成程、と呟いた。その考えにはあまり至っていなかったらしい。


「寺坂さんはさ、それなのに何で乗せてくれたの。絶対断られると思ってた」


 志賀の意外そうな表情を思い出す。さあな、と呟くように答えて、確かにどうしてだろうと思う。関わりを持たないほうが賢明だということも考えたし、犯罪に巻き込まれるのではないかという想定もあった。それなのに、何故。

 封筒を差し出した志賀の、凪いだ瞳を思い出す。あの時はただ、この男をここで放っておけば、この後の仕事でその瞳を嫌でも思い出すことになると思ったのだ。後ろ髪をひかれながら、あいつはどうなっただろう、とそう思いながら運転することになることが嫌だった。だから志賀を車に乗せることにしたのだ。あんな顔をした男を、放ってはおけなかった。


「ただ」と寺坂は呟いた。「お前、放っておいたら死にそうな顔してたから」

「……そっか」


 少しの間をおいて返事をした彼の声色が落ちていることに気がついて、寺坂は隣に視線を送った。志賀は目を伏せて、右手に持つ煙草の火が指先に迫っていることにも気づいていないようだった。


「おい、火」

「——ああ」


 志賀は煙草を灰皿へ押し込んで、再びシートへ深く座り直す。そうか、と確認するようにもう一度呟く声が聞こえた。


「昔、同じこと言われたよ。放っとくと死にそうだったって。人生で、二回も言われるとは」


 はは、と志賀が笑う。その笑みにどこか自嘲の色が含まれていることに気づいて、寺坂は胸がざわついた。


「本当に死ぬつもりじゃないだろうな」

「まさか。俺にはそんなつもりないよ」


 少し妙な言い回しだ。引っかかったが、寺坂は深く追求しなかった。


「……昔って、お前、若い頃からそんな感じだったわけ」


 しばらくの沈黙の後、寺坂は自然とそう聞いていた。一人のときならまだしも、高速道路の平坦な道のりは二人きりの車内には静かすぎる。


「そんな感じは知らないけど」と志賀が答える。「ほんとに、昔、友人に言われた。俺にいっつも声かけてくる同級生で、何でって聞いたら『放っておいたら死にそうだから』って。変な奴でさ、鈍そうなくせして、時々すごく、鋭い」


 淡々と語る志賀は、どこか苦そうでそれでいて穏やかだった。懐かしそうに遠くを見やった瞳には完全に日が昇って眩く照らし出されている青空が映りこんでいる。


「お前、友達とかいるのな」


寺坂の素直な感想に、志賀が失礼だな、と口元を歪める。


「でも、正解だ。そいつが唯一の友人だったから」


 過去形か。問う前に志賀が続ける。


「俺、そんなに友達いないように見える?」

「見える」と寺坂は即答した。「一人旅をする人間は、普段多くの人に囲まれていて本心では一人になりたいと望んでいる奴か、意識高めの大学生か、誘う友達もいない奴か、のどれかだろ。お前はどう考えても最後だ」

「偏見じゃない」

「かもな。でも、大体そうなんだよ」


 ふーん、と志賀は納得したのかしていないのかわからない声色で頷いて、窓の外を覗く。随分と低いところにあるように見える灰色の塀から森の一部である緑が手を出している。その少し奥に目をやれば、朝の陽ざしを受けて光が踊っている海が一望できるはずだ。寺坂にとっては特別な光景ではない。今更わざわざ目を向けることもないような景色だが、それが珍しいのか、志賀は窓に張り付くようにして海を眺めていた。


「珍しいか」と寺坂は尋ねる。志賀はいや、と答えた。

「俺が見たことのある海は、こんなに綺麗じゃなかったなと思って」


 彼の返答に、寺坂はへえ、と頷く。海は多くの場合美しさをもって語られるのに、志賀の中にはそういった固定概念が存在しないのだろう。


「海ってさ、綺麗綺麗って言われるけど、近くで見ると意外とそうでもないんだよね。漂流物とか、微生物とか? なんかちょっとだけがっかりした記憶がある」

「まあ、そんなもんだろうな」


 寺坂は運転席から、志賀の視線を追うように海を一瞥する。寺坂が生まれ育った町は海とは程遠く、赴いた記憶は数えるほどしかない。その貴重な幾度かだって、大して輝かしい記憶というわけでもないのだ。


「寺坂さんも、そんな感じなんだ」

「滅多に行ったことはないけどな。たまに祖父に連れていかれていた海も、海月が多すぎて好きじゃなかった。実際遠くで見るぐらいがちょうどいいんだろ」

「ああ、そうかも」


 志賀は頷いた。


「でも、そういう記憶があっても、海は好きなんだよね。こうやって天気のいい日に見るとさ、空と海が一体になって繋がってるみたいになるでしょ。綺麗も汚いもなく、ああいうところで死ぬんだったら幸せだろうなって」

「へえ。そういうの、考えたこともないな」

「そう? 生きてれば、自分の死に方ぐらい考えたことあるでしょ。考えたことないっていうのは、多分そう思い込んでるだけなんじゃない」


 寺坂はその言葉を聞いて、思わず隣に座る彼に視線を向ける。志賀はその視線に気づいたらしく、薄く笑って何、と問うた。


「図星だったの」

「そうかもしれないな、と思っただけだ。でも、いつもそういうことを考えているわけじゃないだろ。不意に言われても、正直ピンとこない」

「まあ、そうか。普通は、そういうものなのかな」

「お前は、普段からそういうことを考えているわけか」


 寺坂はぼんやりと窓枠に肘をついて外の景色を眺める彼に投げかけた。志賀は好きだと口にした海に目を向け続けている。少しだけ開けていたままだった窓の隙間からごうごうと風の音がなだれ込んでいた、


「それも仕事のうちだから。生とか、死とか、人間に平等に降りかかるのに未知なものに、みんな惹かれるんだよね」

「作家ってのは、色んな事考えてるんだな」


 寺坂の言葉に、志賀がため息をつく。嘆かわしそうに目線を向けられるのがわかって、なんだよ、と問う。


「俺は、人間っていうのは、職業に関係なく難しいことを考えて生きるべきだと思うんだよね。折角思考と言語が与えられているのに、どうして多くの人はそれを放棄するのかな」

「俺に聞くなよ。そういうことを考えるのは苦手だ」

「苦手だから、苦手なりに、考えるべきだって言っているんだけどな。なんとなく生きて、なんとなく死ぬなんて、勿体ない気がするじゃない」

「その気持ちはわかるけどな。無くても生きていけることを、人は進んでしないってことだ」

「本来欠かしちゃいけないもののはずなのに、それを知る人が減ってしまったってことか」


 嘆かわしい、と呟いて志賀は目線を外の光景へと戻す。志賀の言う通りかもしれないな、と寺坂は思った。思考を深めていくことが不要なんて、そんなはずはないのだ。それをしなくたって人は一通り生きていけるが、端から放棄してしまえば人らしくは生きられないだろう。志賀の言う勿体ない、にはそういう大きな意味合いが含まれている。

 寺坂は車が奔走するとともに鳴っていた風の音を打ち消すように。少しだけ開けていた窓を閉める。


「お前は正しいことを言ってると思うよ。でも、正しいだけじゃ駄目なんだろうな」

「……正しさだけじゃ救えないってやつか。生きていれば正しくないことも必要だもんね」

「残念なことにな」

「正しくなくても、人を救うことはあるからな」と志賀は少しだけ笑って、センターコンソールに置きっぱなしにしていた寺坂の煙草を手に取る。「煙草なんて、代表例でしょ。どんなに危険性が謳われたって吸う人は後を絶たない」

「人を救うかは微妙だろうが」

「救うこともあるよ」


 何の根拠にか志賀は言い張って、手元の煙草のパッケージを眺める。黒い星が規則正しく並んだものだ。彼は苦笑するみたいに口元を歪める。


「セッタか、懐かしい」

「なんだ、吸ってたのか」

「いや、吸ってたっていうか。友人がこれだったから、たまに貰ってたって、それだけ。重いからな、今じゃちょっと吸えないな」

「試したいなら一本ぐらいやるよ」


 寺坂の言葉に志賀は首を横に振った。


「いや、いいや。思い出そうとしなくても、この味だけは忘れられないだろうし」


 そう言って志賀は元あった場所に煙草を戻す。志賀のその言葉は悪い意味には聞こえなかったが、決して良いことでもないようだった。志賀は浅く息を吐いて、乾いた咳をする。嫌だな、と誰に言うでもなく呟いて背もたれに深く背を預けた。

 雲一つない夏の青空だけが、二人の様子をただ見下ろしている。


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