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 遠くから声が近づいてくる気配がする。——おい、……おい、と。近づいてきているのではなくて、自分の意識が覚醒している途中なのだ、というのは体を揺すられる感覚によって気がついた。

 志賀弥太郎はゆっくりと身体を起こした。無理に寝ていたせいで、あちこちが軋むように痛む。顔を顰めて、自分を起こしたらしい相手のことをじっと見つめた。起きたばかりで焦点の合わない視界を瞬きすることで正常に戻す。目の前に立っていたのは、気遣うみたいにこちらを覗き込む一人の男性だった。


「お前、大丈夫か」


 一瞬、志賀と視線が合った彼が怯むように肩を揺らす。それでも彼は視線を外すことをしないで、志賀の前で腰を屈めて顔を覗き込んだ。


「酷い顔色してるが、体調でも悪いのか」


 心配されている、というのは分かったが、どう答えていいのかわからずに志賀はゆるゆると頷いた。口からは肯定とも否定ともとれるような音がただ勝手に零れ落ちて、それは目の前の男を困惑させる要因にしかならなかったようだ。志賀はため息ともつかない息を吐き出して、自身のポケットを探った。

 指にソフトパッケージの感触がして、それを引きずりだす。開封済みのウィンストンに入れていた安いライターを取り出して、一本くわえようと軽く振ったところで制止するように手首を掴まれる。


「やめた方が良いんじゃないか。具合、悪そうだぞ」


 予想外の行動に、志賀は思わず男のことを見る。意志の強そうな瞳に、少しだけたじろいだ。こういう目をする男を、志賀は古くから知っている。志賀の知っているその男は、赤の他人に対してだって忌避せず動くことのできる人間だ。


「大丈夫、多分……」と志賀は絞り出すように言った。「少し、休憩してただけだ」

「休憩?」


 訝しむ風に男が言葉を繰り返す。その様子を見て、志賀は自分のいる場所がどこかを思い出した。

 未だどっぷりと闇に浸かったままのパーキングエリア。その片隅に設置されていた木製の長椅子の上で、志賀は睡眠をとっていたのだ。彼が怪しむのも仕方がない。

 志賀は彼が掴んでいた手をやんわりと解いて、喫煙の動作を再開した。深く煙を吸い込んで、吐き出す。靄がかかっていたような思考がようやくはっきりしてきて、志賀は目の前の男に改めて意識を向けた。

 仕事着らしい灰色のつなぎを着て、鍵の束を右手で持て余している。年齢は三十前後に見える。恐らく、志賀と同じか少し年上ぐらいだろう。彼のことをまじまじと見ていて、その胸元に『縁下運輸』の文字が刺繍されていることに気づく。運送会社の人間か。志賀は自然と口を開いていた。


「縁下、か。いい社名だ」


 志賀の呟きに、男が少し驚くみたいに肩を揺らす。すぐに社名入りの作業着を着ていたことに気づいたようで、文字を指でなぞって頷いた。


「あんた、運送業の人?」

「ああ」

「どこまで行くの」

「福岡の方だ。卸売市場まで行って、営業所に帰る」


 福岡、九州か。志賀は煙草を口に運びながら考える。どこへ向かったって良いと思っていたけれど、九州方面へ向かう車があるというのは志賀にとって渡りに船に思えた。


「ねえ、俺も連れて行ってくれない?」

「は?」


 突然の提案に、男が固まる。流石に不躾すぎたか、と思いながら志賀はまだ半分ほど残っていた煙草を足元で消した。


「タダで、とは言わないよ。お金なら払うし、ただ助手席に乗せてくれれば良い。足が必要なんだけど、生憎当てがなくてね」


 戸惑う男を置き去りにして、志賀は話し続ける。交渉するときは相手に考える隙を与えないほうが上手くいくことが多いらしい、というのはどこかで読んだ本の知識だ。

 志賀は椅子の下に置いていたボストンを引き出して探る。大して中身も入っていないような荷物だ。探していた封筒は直ぐに見つかった。


「百万、か、少し足りないかもしれないけど、まあそのぐらいはあるんじゃないかな。あんたの目的地に連れて行ってもらう代わりに、これを払う。そんなに悪くない話だと思うけど」


 どうかな、と封筒を差し出す。は、と彼の口から息が零れるのがわかった。流石にいきなり提案するのは無謀だったか。志賀は少しだけ後悔するが、これ以外の手段が思い浮かばなかったことも事実。呆気に取られて志賀と封筒を見比べている彼に、もう一度封筒を差し出した。


「どうなの」


 問い直せば、彼はゆるゆると首を横に振った。答えはノーらしい。


「いきなりそんな大金を渡してくるような人間、信用できない。どうかしてる」

「……確かに、一理ある」


 厳しいが率直な意見に志賀は口元を緩めて頷く。どうしようかな、と呟きながら黒い端末を取り出した。潔く諦めてしまっても良かったが、せっかく長距離を移動する人間を見つけたのに、それを投げ出すのも惜しい。とにかく信用があれば良いんだろう、なんていうのは短絡的すぎるだろうか。

「これ」と志賀は携帯の画面を男に差し出した。液晶には検索フォームが映し出されている。彼は意外にも素直に受け取って、画面を見つめる。


『志賀弥太郎(しが やたろう、本名同じ)は、日本の小説家。……』


 淡々と羅列された文字列に彼が目を通しているのを確認して、志賀は自身の名前を反復するように口にした。


「それ、俺の名前ね」

「は?」

「小説家なんだよね、こう見えて」


 彼から端末をとって、画像欄へ移動する。志賀は滅多にメディアや公の場に出ないが、処女作を受賞したときだけは例外だった。流石に受賞者当人が欠席するわけにもいかず、いやいやながらも出席した姿がそこには収められていた。


「写真って嫌いなんだけどね。それだけは、一生残る」


 男は再び手渡された端末と志賀を見比べて、確かに同一人物であることを確かめているらしかった。


「一応、社会的信用はあるつもりなんだけどな。まあ、充分に怪しいのは認めるけど。やっぱり信用できない、よね」


 男から端末を受け取って、半ば諦めるみたいに呟く。これ以上の手立ては思い浮かびそうもないし、何より仕事途中であろう彼を足止めし続けるのもいかがなものか。潔く諦めてしまうか、と思っていたら、何か考えるように黙っていた男が口を開いた。


「……お前、俺が断ったらどうするつもりなんだ、これから」


 不意な問いに志賀は少しだけ首を傾けた。これから。無計画でここまで進んできたのだ。そんなことを聞かれても、当てなどない。


「他の人に、同じことを頼んでみて、それでも駄目だったらどうしようもないな」


 志賀の素直な答えだった。要するに「わからない」ということだ。男はため息をついて、そうか、と呟いた。


「わかったよ。乗せてやる。俺の行く先までで良いんだろ」


 意外な返答に、志賀は少しだけ面喰う。そう、と微かに頷いてそうか、ともう一度彼の言葉を反芻して笑む。


「ありがとう、助かったよ」


 腰をあげる。その拍子に覚えた眩暈は、長い間座っていたからか。誤魔化すように瞬きをして、志賀は目の前の男に向き合った。並んでわかったが、彼の方が少し背丈が大きい。見上げる格好で志賀は男の目を見据える。


「改めて、志賀弥太郎。よろしくね」

「ああ。俺は寺坂(てらさか)だ。寺坂、智明(ともあき)

「寺坂さん、ね」


 口の中で反芻して、頷く。寺坂は少し困ったみたいに後頭部を掻いて駐車場の方へ足を向けた。ついてこいという意らしい。志賀は地面に置いていたボストンを持ち直してその背を負う。

 遥か空の向こうの方で、空が白み始めているのが見えた。

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